第2話 承
僕は妻をリビングへ招いた。彼女は部屋を見回して言う。
「片付いてるね」
「年末だしね」
「大掃除というわけ?」
「そう、先週にね。大掃除をしたんだ」
話をしていて気が付いた。テレビが映っていない。リモコンを手に取りチャンネルを回してみたが、どこもだめだった。部屋の明かりがついているから、停電ではないはずだ。そうなると……困ったな。
「テレビが故障したみたいだ」
「それは残念ね」
「まあ、仕方ないよ。近いうちに修理を頼むさ」
テレビの主電源をオフにした。その間に妻はテーブル席に腰を降ろしていた。僕は時計の時間を確認して彼女に尋ねる。
「おなか減ってないかい? 夕飯を作ろうか?」
「その気持ちは嬉しいけど、今はお腹が減ってないの」
「そう。なら僕も夕飯は後にしよう」
彼女の視線が動いた。その視線の先には、ずっと使われていないレコードプレーヤーがあった。
「食事より音楽を聴きたいわ」
「動くかな。しばらく使ってないんだ」
「意外ね。私の知ってるヨモツ君はよく音楽を聴いていたのに」
今は亡き父の影響もあって僕は子どものころから、よく彼女と一緒に色んな音楽を聴いた。ポップスの他にロックやジャズなども聴いて、特別なこだわりはなかった。今思えば音楽そのものよりは彼女と一緒に音楽を聴くという行為が好きだったのだと思う。だから、彼女が居なくなってから僕はずっとこのプレーヤーを使わないでいた。
「ねえヨモツ君。音楽を聴かせて」
「うん……良いよ」
君と一緒なら、数年ぶりにこの部屋で音楽を流そう。僕はプレーヤーの近くに保管されているレコードの中から適当なものを選びセットした。そして針を降ろす。
音楽が流れ始める。八十年代のポップスだ。父が好きだった一枚。
「ヨモツ君のお父さんもここに来ていれば、一緒にこの音楽を聴けたのにね」
妻がぽつりと漏らした言葉に僕は首を振って答えた。
「無理だよ。父はもう何年も前に亡くなっているんだから」
「それは違うわ」
きっぱりと妻は言った。彼女は続ける。
「私がここに居るということは、きっと君のお父さんも世界のどこかに居る。彼が強く願えば、ここへ来てくれるはず」
「どういうこと?」
まるで意味が分からない。そんな僕に彼女は説明をしてくれた。
「ヨモツ君、奇想天外なことがあったの。だから、あの世に居た私はこうしてこの世に戻って来ることができた。きっと君のお父さんにも、同じことがあったはずよ。今、この世には多くの死者が戻ってきているはずなのよ」
彼女の説明を聞いても、僕にはそれが理解しきれていなかった。多くの死者がこの世に蘇っているという実感がわかないのだ。隣の部屋の老人や、病室で最後を共にした妻の姿を見ていても、それは夢か幻のように感じてしまう。
それに。
「リコちゃん。君の言う奇想天外なことって何なんだ?」
すると彼女は難しそうな顔をした。何かを懸命に考えている顔だ。
「私にもはっきりしたことは分からないのだけれど」
そう前置きしてから彼女は続ける。
「きっとあの世が死者で飽和してしまった。そうしてあの世の壁が壊れてしまった。そのせいで私や他にも多くの死者がこの世界に来てしまった。しばらくあの世に居たからか、それがなんとなく分かるの」
「信じろってほうが難しそうな話だね」
でも。彼女が言うのなら。
「だけど、その考えが正しいのなら、父はこの世のどこかに戻ってきているのかもしれないし、あの世に残り続けているかもしれない」
彼女は静かに頷いた。
「……もしかしたら、父には僕のところ以外に行くべきところがあったのかもしれない。僕は父の全てを知っているわけじゃないからね。もしかしたら母に会いに行っているのかもしれない」
「なら、ヨモツ君のご両親に会いに行く?」
そう訊かれ僕は首を振った。
「いや、良いよ。父には僕より母が大事だったのかもしれないし、僕には君が大事だ。今は君と一緒に話をしていたい」
僕の言葉を聞いて彼女の表情が嬉しそうに緩んだ。
「そうね。音楽を聞きながら一緒に話を楽しみましょう。きっとまだ時間はあるわ」
きっとまだ、という言葉が気になった。でも、今はそれを聞かないことにした。彼女との分かれる時がはっきりしてしまうのではないかと思ってしまって怖かったのだ。
僕はテーブル席に腰を降ろす。
「気になっていたんだけど」
子どものころから疑問だったことを思い切って聞いてみることにした。
「あの世ってどんな場所なの。よく言われる天国のような場所?」
「違うかな」
「じゃあ……地獄のように辛い場所なの」
「それも違うわ」
彼女は穏やかに笑い、少しの間黙っていた。それから「えっとね」と言って話し出す。
「あの世はとても静かな場所。ただ暗闇だけがどこまでも広がっていて、何も見えないし、何も触れない場所。でも、同時に誰かの存在を近くに感じることができる場所」
そう語る妻はずっと穏やかな顔をしていた。僕はその穏やかなはずの表情に何か得体のしれないものを感じ、同時に妻が生前の彼女とは何かが違っているように見え始めた。
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