飽和した世界から

あげあげぱん

第1話 起

 ある朝のこと。


 僕はマンションの隣人が亡くなっていたと知った。


 彼の遺体はすでに葬儀場へ運ばれ、今夜は家族たちによって通夜がおこなわれるそうだ。


 人は皆いつか死ぬ。彼はもう八十年以上生きていると言っていたから、大往生だろう。僕もそれくらい長く生きたい。少なくとも、今はまだ死ぬのが怖い。


 ふと、妻が死んだ時の光景が頭の中でよみがえった。


 真っ白な病室で弱弱しくも笑っていた妻の顔。彼女は死ぬ時まで穏やかだった。


 僕の妻は病室のベッドで死ぬ時を待ちながら、死ぬことが怖かっただろうか。きっと怖かったろう。いつも平気な顔をしていたが、内心は死が恐ろしかったのだと思う。


 彼女が病院で息を引き取って、もう何年も経った。僕は、未だに彼女の死を引きずって生きているのだと思う。きっと残り少ない二十代はあっと言う間に終わる。三十代や四十代もそうなるかもしれないと思うと、怖い。


 時々思う。彼女が活きているうちに、もっと何か、もっと話すべきことがあったのではないかと。やるべきことがあったのではないかと。でも、彼女はもう居ない。僕が彼女と何かを話したり何かをやることはできないのだ。


 もう一度彼女と会いたい。そう願っても、僕と彼女が合うことは敵わない。奇想天外なことでも起こらない限りには。


 十二月三十一日。一日の始まりは隣人の死を知ることから始まり何事もなく過ぎていく。気付いた時には夕方になっていた。リビングに置かれたレコードプレーヤーが動くことはなく、テレビだけが音を出していた。僕は椅子に座り、煙草の煙を燻らせていた。


 テレビに映るニュースを見ながら、ぼおっと過ごしている。今日は特に何かをしようという気にならない。このままだらだらと過ごしているうちに新年を向かえるのだろう。


 ニュースキャスターが言うには今年も日本の各地では年越しのカウントダウンがおこなわれるらしい。渋谷には沢山の人が集まるだろうな。他にも、いろんなところで人々が集まって新年を祝うのだろう。


 この町は田舎だが、夜になれば神社に人が集まるだろう。行けば楽しいかもしれない。だけど、そういう場所へ行く気にはならなかった。やっていることといえば、煙草を吸いながら、ぼんやりとテレビを眺めているだけ。


 そういえば、しばらく換気もしていない。このままでは煙が部屋に溜まり続け頭も腐っていくように思えた。だから僕はベランダのガラス戸を開けようと思って立ち上がった。


 移動して、戸を空ける。ベランダの外から空気が入って来た。冷えるが、これで換気はできる。僕はなんとなく、そこに置かれたスリッパを履いて外に出た。いつもベランダにはこのスリッパと灰皿を置いている。


 夕日を浴びる町には、すでにぽつぽつと明かりが灯りだしていた。あっと言う間に暗くなるから、僕もあまり外を眺めてばかりいる気はない。ただ、夕日に照らされた海辺の町は美しく感じられた。


 煙草を一本吸ったら部屋に戻ろう。そう考えていた時だった。


 風に流された煙がぼくのところまでやって来た。僕が吸っていた煙草のものではない。


 では誰が、そんな疑問と共に隣のベランダを見た。


 老人と目が合った。今朝、死んだと聞いていた老人がそこに居た。どうして? 死んだというのは誤りだったのか?


 困惑する僕に対し、老人は会釈をした。その表情は穏やかで、以前見かけた時よりも、だいぶ落ち着いているように感じられた。


 口を開けたまま、何も言えずにいる僕へ彼は問いかけてきた。


「どうした? ぽかんとして」

「だって……あなたは……」

「死んだはず。かな?」


 老人は静かに笑って言葉を続けた。


「説明をするには、あまりにも奇想天外なんだよ」


 その時、インターホンが鳴った。僕の部屋からだ。


 どうすれば良いのか混乱している僕に老人はアドバイスするように言う。


「玄関へ行ったほうが良いのでは?」

「え……ええ、そうですね」


 再びインターホンが鳴った。僕は一旦、老人に言われるままに行動することにした。今はあれこれ難しく考えるよりも、そうしたほうが楽だったからだ。


 煙草の火を消して灰皿に入れた。そうしてベランダを後にした。


 ベランダの戸を閉め、カーテンを閉めて部屋の明かりを点ける。それから玄関へ向かい、覗き穴から外の様子を確認した。


 そこには、先程の老人よりも更に居るはずのない人物の姿があった。どうしたというのだろう。僕は今、夢を見ているのか?


 扉の外には、桃色のセーターを着た髪の短い女性が居た。そこに居たのは、間違いなく何年も前に死んだはずの、僕の妻だった。


 つばを飲み、どうするべきか考えようとした。でも僕の手は勝手にドアノブを回し、扉の外に居た彼女を出迎えることになった。


 彼女はゆっくりと僕に寄ってきた。僕は一歩引き、彼女が玄関に脚を踏み入れた。


 僕はじっと彼女を見ていた。玄関の扉が閉まり、彼女は静かに笑った。


「ただいま。ヨモツ君」

「おかえり。リコちゃん」


 彼女を招き入れたものの、次はどうすれば良いか分からなかった。さっきは体が勝手に動いてくれたのに、今は全然動いてくれない。そう考えているうちに、僕は彼女に抱き着かれていた。そのおかげか、僕は再び口を動かすことができた。


「どうして君がここに居るの?」


 尋ねる僕に彼女はぎゅっと抱きしめる力を強くしながら答えてくれた。


「奇想天外なことなのよ」

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