烈火

斯波

第1話

 私が山田太郎と出会ったのは高校生の頃のことだ。

 高校一年の冬、大学のキャンパスが変わることをキッカケに上京することを決めた兄の荷物整理を手伝っていた。相変わらず荷物多すぎない? とかなんで私が手伝わなきゃいけないのよ! とか愚痴をこぼしながらも手を止めることをしないのはなんだかんだで兄妹仲がいいからである。……と言い切れたら良かったのだけど、さすがにそこまで仲は良くない。そこそこだ。喧嘩はしないけれど深くは介入しないくらい。仲いいわね〜なんて最後に近所のおばさんに声をかけられたのは私が小学校に上がってすぐの頃だ。性別が違うというのもあるが、3つも歳が離れていれば話す話題なんて限られてくる。だからこうして手伝っているのは下心があったから。これが終わったら父から贈呈される予定の諭吉様は何かと入り用の多い女子高生にとって喉から手が出るほどに欲しいものなのだ。

 

 だから兄からは何も期待していなかった。

 ただ諭吉様をお迎えするため、ひいてはそれで新作のワンピースを買うことしか考えていなかったのだ。だから兄が残していった、ビニール紐に括られた本に目が奪われたのは偶然のことだった。

 

 一番上に載せられていたのは『烈火』

 あれから何年経った今でもあの本の表紙を目にした時の衝撃は忘れない。何十もの『赤』が重なりあって奥底の何かを隠しているようなデザインだった。本といえば漫画本である私にとって、表紙に人も動物もいない本なんて、今まで目にとまることなんてなかった。けれどその本はなぜか私の心を鷲掴みにして、手放してはくれなかったのだ。だから私は兄がまとめたその本の束から一冊だけ抜き取って縛り直すと、それを自室の本棚に飾った。綺麗なものではないけれど、それでもずっと見ていたいと思えるような、そんな絵だったのだ。

 だから初めはその絵を見ているだけで満足だった。けれど毎日何度と目にする度に、その隠された何かを暴いてしまいたいという、私の中の欲望が胸の中で暴れ始めるようになった。普段は全く本なんて読まないどころか、現代文や古典の授業は寝て過ごしている私が、だ。自分だってそんなおかしなことあるか? と思う。それだけ引き寄せる力がこの表紙にはあったのだ。

 

 ――けれど中身の方はといえば、率直に言えば『ヒドイ』ものだった。

 

 文章はとても綺麗で、普段本は読まない私でも読み終わるまでそう時間はかからなかった。おそらくこれが、本好きの兄と父の云う『いい文章』というやつなのだろう。きっとこの人がハッピーエンドのお話や、そうでなくともごくごく普通の日常を描けば喜んで読む人も多いだろう。けれどこの作者は、この作品は、人間の醜い場所を描いていくのだ。

 まるで燃え盛る炎に身を焼かれるかのような地獄を見てしまったかのよう。見たくないと、読み進めたくはないと思っているのに、手は自然と次のページをめくってしまっているのだ。そして気づけば私はその本の奥付までも食い入るように見つめていた。そして残ったのは私の中の何かが壊れ去ってしまった事実と、終わってしまったことに対する枯渇感だけだった。

 

『山田太郎』

 その名前を頭に刻み込んだのは本と出会った年の秋のことだった。

 

 それからというもの、私は今まで本を読まなかったのが嘘のように本を読み漁った。あまりの勢いに父なんかは「勉強疲れか?」と心配したほどだ。実際、少し前の私はテストの点数に伸び悩んでいた。高校を卒業してから進むべき道というのがよくわからなくなっていたのだ。だからがむしゃらに勉強した。それでも目の前の道は一向に見えてこない。そのことに疲れてしまっていたのかもしれない。

 けれど違うのだ。

 私は山田太郎という作家の虜になってしまっていた。だから彼の他の作品を読んでみたくて、本屋さんや図書館へ足を運んだ。

 けれどそれが叶わなかった。

 なぜなら『烈火』という名前の作品は、商業ラインには載っていなかったのだ。私が読んだその作品は同人誌と呼ばれるものであり、山田太郎という名前の作家の本を本屋さんで買うことはできなかった。そのことに絶望して目の前が真っ暗になってしまった。けれども胸の中はもうぽっかりと受け入れるだけのスペースが空いてしまっている。だから私は他の物で満たそうとしていたのだ。

 

 読んで、読んで、読んで。

 たくさん詰め込めばいつかは埋まってくれると信じていたのだ。

 

 けれどダメだった。

 私が求めていたのは山田太郎の文章で、山田太郎の物語なのだ。

 

 だからいつだって『烈火』を手に取る。

 たった10万字ほどの文字を何度も目で追って、頭の中で繰り返して。

 

 ――そして気づけば大人になっていた。

 

 あれだけ苦手だった文章に取り憑かれた私は高校と大学を卒業し、編集者になっている。本を読み漁るうちに私の中で『文章』というものの存在は大きな物へと変わっていっていたのだ。

 そこまで突き進めたのは他ならぬ『烈火』であり、『山田太郎』という名前の作家である。今だって通勤カバンにはボロボロになってしまった『烈火』が入っている。もちろん就活中にだってカバンに入れて持ち歩いていた。

 今思うと面接官の『あなたの心に残っている作品は何ですか?』という問いに同人誌のタイトルを挙げる私は問題児であったように思う。だから私を不合格にした出版社の面接官達はきっと正しい判断を下したのだろう。なにせ誰も知らないタイトルの本の感想なんて伝えられても共感ポイントが分からないのだから。そんな中でたった一社だけ私に合格通知を渡したのが今の会社である。小さな会社だが、作者の心が伝わってくるような丁寧な本を作る会社だ。そんな本を作るこの会社が好きで入社した。

 だからそんな会社に、そして素晴らしいお話を書いてくれる作者さん達のために私も私なりに努力しよう! とそう思っていた。

 

 

 けれどたった今しがた反射的にとってしまった私の行動はきっと会社に多大なる迷惑をかけてしまうこととなるだろう。

 次第に落ち着いている頭で明日の朝一で辞表を提出しなければならないな、という判断は下すことができた。けれど私は今、反省していない。いけないことだと分かっているのに、それでも私の中で長年燃え続けていた熱はあまりにも大きくなりすぎていたのだ。

 

 

 1ヶ月ほど前、先輩からとある作家のパーティに参加しないかと声をかけてもらった。

 なんでも発表作品が100本になった記念と、デビューから20年目の記念を合わせたパーティらしい。その作家、鈴木作太郎は過去にいくつもの賞を受賞した有名な作家だった。もちろん私も全てとは言わずとも話題になった作品は目を通している。日常を描くのが上手い作家だ、というのが一番の印象である。だが山田太郎ほどのインパクトはなかった。いや、彼だけでなく、今まで読んだどの本も『烈火』には『山田太郎』には勝つことは出来なかったのだ。私を読書沼へと引きずり込んだ作品と作家はそれだけ思い入れが強い。何十回何百回と繰り返し読み続けたのだ。ソラで読むことだって出来るかもしれないとすら思っている。

 

 だから私は始まりの挨拶を告げた鈴木作太郎先生の言葉に異常なまでに反応してしまった。

 

『人間というものは情熱的で耽美で可憐で、けれど何よりも醜い生き物である。そんな人間を見るのが私の何よりの生きがいなのだ』

 

 それは『烈火』の1ページ目に描かれていた文であり、私を引き込んだ始まりの文であった。

 

 鈴木作太郎の言葉ではなく、山田太郎の言葉。

 

 山田太郎という同人作家を知らぬ多くの参加者は、鈴木作太郎という作家のイメージとは違う言葉に驚き、戸惑ったようだった。どこを見回しても私のように涙を浮かべる参加者など、山田太郎との再会に喜びを隠せていない者などいなかった。隣にいた先輩も他の参加者達と同じで、私の様子にひどく驚いているようだった。それでも大先生のスピーチの最中に後輩に話しかけるなんて野暮なことはせずに、無言でハンカチを差し出してくれる。なんとも優しい先輩である。ここはその優しさに甘えて受け取ったハンカチで目元の涙を拭うべきだった。けれど私のとった行動は違った。

 

 スピーチが終わった後、拍手もせずに舞台へと足を進めた。観衆達が驚いたように目を丸くしているのもお構いなしに鈴木作太郎の前に立ち、そして頭を下げた。

 

「我が社で『烈火』を売らせてください」――と。

 

 私の奇行に会場内は静まり返った。

 しばらくしてから「あれはどこの会社の人間だ?」と小さく話す声が耳をくすぐる。けれどもう引っ込みなどつかなくなった私は頭を下げ続けた。後悔はない。会社を辞める決心は出来ている。そして先輩を筆頭とした会社のメンバーに謝り倒す予定も立ててある。

 答えは『イエス』でも『ノー』でも構わない。ただ鈴木作太郎の、いや山田太郎の言葉が欲しかった。けれど目の前の彼が落としたものはそのどちらでもなく、そして予想もしていない言葉だった。

 

「どこでそれを読んだ……?」

「え?」

「どこで私の『烈火』を読んだんだ!」

 

 鈴木作太郎は声を荒げて、私の肩を掴んだ。彼の節張った指は肩に食い込んで、少しだけ痛みを感じるほど。けれどそんなの些細なことだった。目の前に山田太郎が立っている。彼が筆を執り続けている事実だけで私の心は舞い上がる。

 

「兄が持っていた本を譲ってもらいました」

 譲ってもらった、というのは少しだけ語弊がある。だが元は兄の持ち物であったという事実は確かである。

 

「ああ、そうか。そういえば1冊だけ売れたんだったな……」

「『烈火』は人間というものは情熱的で耽美で可憐で醜く、けれども愛おしい存在だと教えてくれた、私の人生を変えてくれた、『ヒドイ』本です」

 

 兄の荷物整理を手伝ったあの日、私の人生は変わったのだ。

 それまではダラダラとなんの目標もなくただただ時間を消費し続ける人生だった。時間や他人に流されるままに生きて、人と同じような幸せを感じて死んでいく。それが幸せだって思っていたのに、私の人生は変わってしまった。

 醜ささえも人間の魅力であることを知った私は、彼の描く物語に囚われてしまったのだ。だから私は飢えていた。長い間、満たされることない飢餓を背負って本の砂漠を彷徨い続けた。そんなキッカケを作ったあの本を『ヒドイ』本と言わずしてなんと言えばいいのだろう。

 

「ヒドイ本、か……。君はそんな本を世に出したいと本気で思っているのか?」

 本気かなんて今更自分に問いかける必要はない。ここで山田太郎に出会えたのが運命だとすれば、それはこの交渉をするまでがワンセットなのだろう。その場の勢いで放った言葉も私の役目であり、私が生涯で紡ぐ物語の一つなのだ。

 

 だから私の意思は揺らぐことはない。

 目の前の作家の目を見据えて「はい」と答える。すると呆れた様子で額に手を当てた。

 

「鈴木作太郎の名前を出せば一定数の売り上げはあると踏んでいるのだろうが、あまりにも作風が違いすぎる。それに鈴木作太郎のイメージだってある。だから諦めてくれ」

「なら『山田太郎』名義でならどうでしょう?」

「は?」

「鈴木作太郎の名前は一切出しません。経歴も最低限のものしか記載しないとお約束します。なので『烈火』を我が社で出版させていただけないでしょうか?」

 

 もう一度、深く頭を下げる。

 私が提示できる条件はここまでだ。編集長クラスであれば印税がどうのと交渉も出来るのだろうが、生憎私にその権限はない。それに私の所属している出版社は小さな会社だ。きっと大手に比べれば初版冊数だって少なくなってしまう。

 

 けれど私は彼にあの物語を書いて欲しい。そしてまだあの燃えるような想いを知らない読者に届けたい。

 

 世の中にはこんな話が存在するのだ、と。

 

 私にとっての長い沈黙ははぁと短くため息によって遮られた。そしてその人はため息の続きを吐くかのように小さな声を漏らした。

 

「……分かった」

「本当ですか!」

 目の前の男は頭の後ろを右手でポリポリと書きながら「ああ」と面倒臭そうに答える。まるで子どもの駄々に呆れて、言い聞かせるのを諦めた大人のようだ。それでも彼がまた書いてくれるというのならなんだって構わない。

 

「だが書き直すからな! だから責任とってお前が編集しろ」

「私でいいんですか!?」

「お前が売らせてくれと言ったんだ。責任とって売り物にしろ」

「もちろんです! 鈴木作太郎の名前がなくとも人の記憶に残る最高傑作にしてみせます!」

「はぁ……まさか20年目にして処女作にもう一度手をつけるとは思わなかったな」

「処女作だったんですか!」

「ああ。今よりずっと下手だろう?」

「ということは今の『烈火』よりもすごい『烈火』が読める、と」

 

 まさかあのレベルの高さで処女作とは……。さすがは煽り文句で稀代の天才と書かれるだけの実力者である。あれから20年が経ち、100作もの経験を積んだ彼はどんな『烈火』を書き上げるのだろうか。想像するだけで初めて恋を知った少女のように胸が高鳴る。

 

「あんた、本当に『烈火』が好きなんだな。……なぁ、一つ聞いていいか?」

「なんでしょうか?」

「鈴木作太郎の100作と山田太郎の1作の中から好きな1作を選ぶとしたらあんたはどれを選ぶ?」

「もちろん烈火です!」

「今日は鈴木作太郎のパーティなんだけどな……。だがここまでハッキリと言い切られると悪い気はしねぇな」

 

 それから半年後、とある作品が日本中を騒がせることとなる。タイトルはもちろん『烈火』。著者名は山田太郎だ。私が長年愛してやまないその作家に心を奪われた読者は瞬く間に増え、毎日出版社にはファンレターが届くほどだ。だが彼が鈴木作太郎だと当てた読者はまだいない。知っているのは私と、あのパーティにいた関係者くらいなものだろう。だが名前なんてどうでもいいのだ。あの作品を愛して、そして私と同じように溺れてくれる人がいればそればそれでいい。こんなことを同業者に漏らせば編集者失格なんて言われてしまうかもしれない。だが私は編集者である以前に、1冊の本に長年囚われ続けた哀れな読者だったのである。

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