倍速の恋

おくら

第1話

「浅井誠くん、君、倍速してるでしょ?」


 僕は言葉を失った。ずっとついていた嘘がバレてしまう。知られてはいけない秘密を知られてしまう。そんなとき、言葉ほど無力なものはない。どんな言葉も言い訳か誤魔化しに変換されて、さらなる墓穴を掘ってしまうのがオチだから。

「どうしてわかったかって? だって、私も倍速、してたから」

 背中に冷たいものを感じながら、僕は目を閉じた。死ぬ前の一瞬に見るという走馬灯、アレって倍速再生なのかな、なんて妙なことをぼんやり考えながら、僕は全てが始まったあの日のことを、思い出していた。


 あの日―。チャイムが虚ろに響いていた、放課後の校舎。赤レンガ色に紅葉した、メタセコイヤの巨木。その下で向かい合う、僕と夏野鈴。

「浅井くん、私、塾に行かなくちゃ」

 夏野鈴が、申し訳なさそうに言う。申し訳ないのは僕の方だ。さっきからもう十分近く、馬鹿みたいにモジモジして、彼女の時間を無駄にしていたのだから。

「あ、うん、ご、ごめん……」

 一瞬、軽いめまいを感じた。周囲の景色がグリッチ加工でもされたように、歪んだ。

 何かが起こった。

 いや、何が起こったかはわかっている。僕は夏野鈴に告白したのだ。少しの沈黙、頷く彼女。告白はあっという間に終わった。文字通り、あっという間に。

「じゃあね」

 夏野鈴は、少し恥ずかしそうに手を振り、自転車置き場の方に駆けていった。


 何が起こったか、ではなく、どんなふうに起こったか、が問題だった。

 時間が流れるスピードが、変わった。ゆるやかな川の流れが、ある区間だけ急流になるように。ぐだぐだだった僕の告白の間だけ、世界が倍速で再生されたように。


              *****


「しかし、長い助走だったねえ」

 津田夕子は、子供みたいに細い足をベンチから投げ出し、僕の肩をポンと叩いた。夕暮れのバス停には、僕たちふたりきりだった。

「一年の頃からずっと片想いしてたもんね。ほぼ三年間、一日も休みなく」

「どんだけ俺のこと観察してんだよ」

「一応作家志望ですからねえ、ワタクシ。誠は観察対象として面白いんだ」

「どういうところが?」

「優柔不断で臆病者でストレス耐性が低い。そのくせ、予想の斜め上を行く突飛な行動に出たりするところ、かな」

「夏野鈴に、告白するとか?」

「そ、学年の人気者、夏野鈴に告白しちゃうところとか。私が君みたいな格下男子だったら、恐れ多くてできない」

「悪かったな、格下男子で」

「しかも、成功しちゃうんだもんね。世の中には時々、神秘的なことが起こるもんだ」

 夕子は夕日に目を細めた。小柄で、少年のようなショートカット。中学の頃からのつき合いで、男女問わず、夏野鈴への恋慕を打ち明けた、唯一の友達。夕子になら、あのことを話してもいいかもしれない。

「さっきさ、夏野さんに告ってたとき、時間の流れが変わったんだ。時間、急に早く流れ出して。例え話じゃなくてマジ。で、気がついたら告白とか、全部終わってて」

「動画の倍速再生、みたいに?」

 夕子がニヤニヤして言う。

「そう、まさにそんな感じ」

 僕の真剣な表情を見て、夕子は僕が冗談を言っているのではないと悟ったようだ。昔から勘がいい奴なのだ。

「うーん……聞いたことあるけど、極度の緊張で、瞬間的に意識が飛んじゃうとか」

 バスが到着して、話はそれきりになった。僕自身、その神秘的な体験についてそれ以上こだわりはしなかった。僕の頭の中は、来たるべき夏野鈴との交際という、もうひとつの神秘で一杯になっていたのだ。


 僕と鈴は週に数度、放課後、市立図書館で待ち合わせて一緒に勉強をした。そのあと、僕が鈴の自転車を押しながら、最寄りのバス停まで歩いた。別れが惜しくて、バスを七台乗り過ごしたこともあった。僕は密かに自分の臆病な性格を呪いながら、お互い受験生の身分だし、という口実のもと、控え目な交際から踏み出せずにいた。


 初めて鈴とキスをしたのは、交際を開始して一カ月たった十二月上旬の宵の口、図書館からバス停に向かう途中で立ち寄った、見晴台公園の薄闇の中だった。

「誠くんの告白、素敵だったな」

 キスのあと、ふと思い出したように鈴は言った。素敵? 僕は思わず聞き返しそうになった。ネットで検索したようなありきたりな文句を、馬鹿みたいに緊張して言ったあの告白の、どこが素敵だったのだろう? 倍速のせいか、細部の記憶はあいまいだった。

「これからもよろしくね」

 あらたまった調子で、鈴が手を差し出してくる。きれいな指だな、と思った。僕はその手を、握るのではなく贈り物を受け取るように、うやうやしく掌で包んだ。あの学年の人気者、夏野鈴はいま、僕の恋人なんだ、このきれいな指の先まで、僕の恋人なんだ。胸の中で歓喜が合唱のように高鳴った。


 その夜、僕はベッドに入ると、眠れない夜に羊を数えるように、目を閉じて鈴との空想のキスを重ね、何千回目かになって、やっと眠りに落ちることができた。


              *****


 時間の流れが倍速化する、という現象は、その後も頻繁に起こった。朝、目が覚めても起き上がるのが苦痛なとき。授業中、先生に当てられて答えられないとき。最初こそ僕は、わが身に起こる超常現象に戸惑っていたけれど、すぐにそれをある種の力、コミュニケーション能力や運動能力のようなものとして受け止めるようになった。せっかく力を得たのだ、有効活用しなくてはもったいない。


 僕は倍速化が起こるたびに、できるだけ俯瞰して状況を観察し、いくつかの法則を見出した。

① 倍速化は日常生活のストレスに反応して起こる。

② 倍速の持続時間は一度に十分~一時間。

③ 速度は感覚的に通常の二~四倍。


 目下の大学受験は、この力を習熟するのにうってつけの機会だった。例えば深夜、睡魔と闘いながら英語の長文問題を解いていて、突然倍速化が起こる。通常速度に戻ってから問題を見直すと、文意や回答、要チェックの英単語まで、しっかり頭に入っている。つまり、プロセスを倍速にしても、結果はついてくる、ということだ。僕はほくそ笑んだ。なかなか使えそうな力だ、受験にも、他の様々な事柄にも。


 倍速化のオンとオフの切替を、意志の力で制御できるようになるまでに時間はかからなかった。僕は倍速をフル活用して受験にのぞんだ。別に不正を行ったわけではないし、僕自身の学力は変わらないのだから、倍速がなくてもきっと結果は同じだったに違いない。とにかく僕は、偏差値が少し足りていなかった志望大学に、見事に合格したのだった。


              *****


 鈴との交際は、キスで足踏みをしていた。受験が終わると、残された高校生活の僕のミッションは、鈴との関係を次のステージに進めることだけになった。通う大学こそ違うけれど、ともに都内の四年制大学に進学する鈴との未来は、バラ色に思えた。


 初めてキスをした見晴台公園は、その後も二人の間で「キスする場所」になっていた。あるとき、僕はキスの最中、衝動的に鈴の胸を触った。鈴は嫌がる素振りこそ見せなかったけれど、そのあとで黙り込んでしまった。結局、卒業前に僕たちの関係が、それより先に進展することはなかった。


 僕は大学進学を機に、埼玉の実家を出て都内にアパートを借りた。鈴は片道一時間半かけて自宅から通学することになっていた。引越しの翌日、鈴が部屋に遊びに来た。春めいた花柄のチュニックとショートパンツ姿で、高校生の頃にいつも結んでいた髪を、ふんわりと肩に垂らしていた。

「似合う? 生まれて初めて、パーマを当ててみたんだ」

 部屋にはまだベッドもカーテンもなく、口を開けた段ボール箱があちこちに放置されていた。鈴が二人分の弁当を作ってきてくれたので、段ボールをテーブル代わりにして昼食を食べた。僕は低アルコールの缶チューハイを冷蔵庫から取り出した。鈴は数口飲むと、「ヤバい、ちょっと酔ったかも」と少し顔を赤くして言い、部屋の隅に敷きっ放しの布団に横になった。すぐに寝息が聞こえてきたので、僕は壁にもたれ掛かって床に座り、漫画の続きを読み始めた。


 鈴は夕方に目を覚ました。西側の窓から、夕日が液体のように部屋に注ぎ込んでいた。

「あ、おはよ」

 鈴は寝ぼけ顔ですり寄ってくると、僕の手を取り、服の上から自分の胸を触らせた。

「あのときの続き、しよ」

 僕もそのつもりだった。昨夜、コンビニで酒と一緒にコンドームを買って準備していたのだ。店員への気まずい思いは、倍速でやり過ごして。

 僕たちは裸になり、目隠しでもされたように、ぎこちなく互いの身体をまさぐり合った。コンドームの装着に悪戦苦闘していたところで倍速化が起こり、あっという間に射精に至った。通常速度に戻り、使用済みコンドームをティッシュにくるんでゴミ箱に捨てた瞬間、安堵のため息が漏れた。倍速の力を借りたとはいえ、なんとかやり遂げたのだ。


 それからは次第にセックスが日常となり、倍速を必要とすることもなくなった。鈴の手を取り、きれいな指を見て想いがあふれる、なんて初々しい気持ちはなくなったし、一緒にいてあくびが出ることもあったけれど、僕たちは完璧に幸福だった。


              *****


 大学生活は単調だった。ストレス負荷から倍速を発動させる機会がない代わりに、退屈をやり過ごすための倍速使用を覚えた。単位取得のために出席している講義や、鈴が部屋に来るまでの待ち時間を倍速にする。そんなとき僕は、少し堕落した気分になり、生ぬるい罪悪感を覚えた。せっかく授かった力を、僕は無駄に浪費していないだろうか? 勧誘されるがまま軽音サークルに入り、未経験のギターを始めたのも、そんな罪悪感を解消するためだった。倍速で練習をしたら楽器の習得なんて楽勝に違いない。実際、入部後三か月で、内輪のライブとはいえ人前でバンド演奏をするまでに上達した。問題はそこから先だった。いくら倍速で練習に励んでも、才能の欠如という現実の壁を、超えることはできそうになかった。


              *****


「相変わらず優柔不断だねえ」

 学食のメニュー表示画面から振り返ると、夕子が立っていた。シースルーの黒のブラウスに白のスラックスという大人びた服装に、変わらない少年風ショートヘアが、なんだかチグハグな組み合わせに見えてしまう。

「慎重なんだ。間違えたくないからな」

「へえ。でもどうして間違いってわかる? 和定食を食べる君とナポリタンを食べる君、どっちがより満足を得たかなんて永遠に知ることはできないでしょ」

「さすが、作家の卵は理屈っぽいね。憧れの作家先生には弟子入りできたの?」

「若林先生ね。顔と名前は覚えてもらったけど、弟子入りはゼミが始まってからかな」

 寝不足なのか、夕子は大きく欠伸をした。

「やっと満足のいく小説、書き上げたんだ。一年がかり。お願いしたら若林先生、読んでくれるかな」

「俺、読もうか?」

「あー、それは遠慮しとこうかな。君も色々大変そうだしさ、お昼に何を食べるか悩んだり」

 夕子は僕の腹を小気味よく叩いた。

「じゃ、鈴ちゃんによろしく」

「食べていかないの?」

「ナポリタン!」

 夕子はそう言い残し、学食のドアから颯爽と出ていった。僕は言われるがまま、ナポリタンのボタンを押していた。


 半年後、夕子は文芸雑誌の新人賞を受賞した。単行本が出ると、大学内の書店には特設コーナーが設けられた。「祝!在校生の津田夕子さん新人賞受賞作」と書かれたポップには、夕子直筆のサインが添えられていた。


              *****


「感想、聞かせてもらおうかな」

 顔を上げると、隣で夕子がニヤニヤ笑っている。大学キャンパスのベンチに座っている僕の手には、夕子の本が開いてあった。

「あ、うん。すごいよね。よく書いたと思うよ。マジで、こんなにたくさん」

 僕は分量を確かめるようにパラパラと本のページをめくった。夕子は笑って、

「こんなにって、内容じゃないんだ」

「内容は、まあ、まだ途中だから。でもやっぱり凄いよ」

「津田、ここにいたのか。携帯、何度も鳴らしたんだけどな」

 声の方を振り向くと、若林が不機嫌そうな顔で立っていた。スカーフを首に巻き、中高年男性向けファッション雑誌の表紙でも飾りそうな雰囲気の男だ。若林は夕子だけを視野に入れて、ついて来い、という身振りをして歩き出した。

「じゃ、またね」

 夕子は若林を小走りで追いかけた。並んだ二人の後姿を見送りながら、僕はとある噂を思い出した。妻子ある作家兼教授が、教え子の新人作家と不倫をしている――噂の真相はどうであれ、作家デビューという夢を叶え、憧れの教授と噂が立つくらい親しくなったのだ。きっと倍速なんて必要ない、充実した毎日を送っているのだろう……僕は夕子を少し妬ましく思った。


 僕は軽音サークルを二年の秋に辞め、それからはファーストフード店でのバイトに、倍速を活用しつつ精を出した。就職活動の時期になると、早々に地元で公務員を目指す、という将来設計に落ち着いた。

 一般企業への就活をしていた鈴は、説明会やセミナーの参加に疲弊し、僕に泣きついてくることがあった。ところが、あるときを境に雰囲気が一変した。OG訪問で知り合った先輩に、強く感化された様子だった。

「先輩みたいになりたいですって言ったら、大丈夫、私だって学生の頃、鈴ちゃんみたいにふわふわしてたから、だって」

 鈴の、僕への態度にも変化があった。悩みを打ち明けられたらひと通り話を聞き、あるがままの鈴を肯定し、最終的にキスや抱擁に落ち着く、というそれまでのパターンが通用しなくなった。あいまいな物言いには説明を求められ、意見を言うと反論される。僕は鈴と口論になるのが嫌だったので、

「なるほどね、確かにそういう考え方、ありかもね」などとお茶を濁し、鈴らしくない気張った態度に同調するようになった。鈴との会話中に倍速を初めて使ったのはこの頃のことだ。僕の方でも公務員試験の勉強に忙しく、会う回数は減り、僕たちの間には自然と距離が生まれていった。


              *****


「誠、公務員、目指してんだって?」

 久しぶりに会った夕子は、真新しいリクルートスーツに身を包んでいた。

「夕子、就活してんの? 院に進むか作家を続けるかだと思ってた」

 夕子は、スーツ姿だとキャリアウーマン風に見えなくもない、ショートカットの黒髪を指で掻き上げながら言った。

「誠、私が最初の小説書いたときさ、こんなにたくさん書いて凄いって言ったよね。あのときは笑っちゃったけど、案外的を得てるのかも。よくあんなに書いたよ、当時の私」

「書けなくなったの?」

「書けないっていうか……気持ちも環境も、変わっちゃったしね。その点、君は全然変わんないね」

「そうかな?」

「人生のプレッシャーとか、無縁そうだし。あ、でも公務員試験って大変なんだっけ? 立派だねえ。表では飄々として、裏では涙ぐましい努力をしてるってわけだ」

「そんなこと、ないよ」

 気安い冗談と知りつつ、僕の声は強張っていた。倍速を駆使した涙ぐましい努力に、少なからずうしろめたい気持ちがあったのだ。


              *****


「大人の贅沢って感じだよね」

 鈴は振り返り、グラスのシャンパンを一口飲んだ。背後の窓が、東京タワーの巨大な胴体を切り取っている。

 僕は鈴に合わせてグラスを傾けた。ルームサービスで一杯三千円のシャンパンを味わう大人の余裕は、僕にはなかった。

 先週、鈴は志望していた外国系アパレル企業から内定を得た。僕もひと足早く地元の市役所に内定していた。僕たちは奮発して都内のホテルに泊まり、お互いの就活の成功を祝い合うことにしたのだ。


 夜、ベッドに入り、滑らかなシーツとふわふわの布団の間で、鈴を抱いた。僕は勃起しなかった。こんな事態に陥ったのは、つき合い出して初めてのことだった。

「いいよ、無理しなくて」

 背中を向けると、鈴はすぐに寝息を立て始めた。一泊三万円超の夜を、最後の最後で台無しにするなんて……僕は悔しいやら情けないやらで目がさえてしまい、とても眠れそうになかったので、倍速で短い夜を明かした。


              *****


 卒業を前に、僕はアパートを引き払い、勤務先に近い実家に戻ることになった。

「何かいるものあったら持ってって」

 引越しの少し前、鈴が部屋に立ち寄った。僕とは逆に、都内で一人暮らしを始める鈴は、賃貸契約を済ませてきたところだった。カーテンを取り払った窓からメローな西日が差していた。僕は青いセーターを着た鈴を背後から抱きしめようとして、なぜか気が引けてしまい、思いとどまった。鈴は一緒に選んで買ったソファーといくつかの食器を新居に引き取ることに決めた。

「問題ないよ、僕と鈴が東京と埼玉で入れ替わるだけだから」


 この日、僕が別れ際に言った軽口は、間もなく現実に否定された。実家住まいでも日々都内の大学に通っていた鈴とは異なり、生活拠点が埼玉になった僕が、都内に出るのは鈴と会う約束をしたときだけだった。販売員として店舗勤務に配属された鈴の休みは主に平日で、会えるのは週末の夜くらいだったけれど、翌日に仕事を控えた鈴は、僕が泊まっていくのを嫌がった。


「俺たち、遠距離恋愛してるみたいだね」

「電車で一時間ちょいなんだけどねえ」

「じゃ、中距離恋愛ってところかな」

 会えない分を、僕たちは電話で補おうとした。電話越しの鈴は口数が多く、仕事のことばかり喋った。市役所勤務の僕に比べ、ハードな職場環境の鈴がする仕事トークに、正直なところ、僕はあまり共感できなかった。


 梅雨が明ける頃には、鈴は弱音を吐くようになった。職場の人間関係に悩んでいたのだ。店長が裏表のある人で、不安定な天気のように機嫌がコロコロ変わる。昨日は優しく接してくれたのに、今日は攻撃の的にされる。

「でも悪いのは私なんだ。仕事、覚えるのが遅くて怒らしちゃうから」

「鈴は悪くないよ」

「誠くん、私なんかとつき合っててもつまんないでしょ。会えないし、仕事の愚痴ばっか聞かされて」

「そんなことないよ」

「最近、夕子ちゃんと会ってる?」

鈴が突然夕子の名前を出したので、僕は驚いた。都内の一般企業に就職した夕子とは、卒業いらい一度も連絡を取っていなかった。

「私ね、本当は誠くん、私なんかより夕子ちゃんが好きなんじゃないかって、疑ってたんだ。中学からの友達だし、一緒にいると楽しそうだし」


 暑い夏の日、僕は鈴の部屋を訪れた。夏季休暇が一日だけ重なったのだ。少し緊張してドアを開けると、鈴は昼前なのにベッドで布団をかぶっていた。

「ごめん、起き上がるのがしんどくて」

「大丈夫? 病院とか、行った方がいいんじゃないの?」

 鈴は弱々しく笑って首を振った。

「ごめんね、外に出る元気ないから適当にゆっくりしてて」

 結局その日、鈴は僕が帰った夕方まで、ベッドからほとんど出なかった。


 鈴からの着信は、次第に頻度を増していった。鈴が淡々とその日の職場の出来事を喋り、僕は「あー」とか「へー」とか「そっかー」とか言って適当な相槌を打つ。

「眠れないから誰かと話していたいんだ」

 悪びれる風もなくそう言って、深夜に電話をかけてくる鈴の一方的なお喋りを、僕は僕で倍速で聞き流す。そんなコミュニケーションのバグ状態が、続いた。

「ごめん、私、ちょっとおかしかったね」

 あるとき、鈴は唐突にそれまでの態度を謝った。そして妙に明るい声で続けた。

「もう大丈夫、心配しなくていいからね」

 急な変化を不自然に思いつつ、きっと倍速のせいで微妙な兆候を逃したのだろう、僕はそう自分に言い聞かせた。その後、ショートメールばかりで電話がかかってこなくなったのも、鈴の状況が改善したからに違いないと、勝手に決めつけていた。


              *****


「鈴ちゃん、自殺未遂したよ」

 スマホから、張り詰めた声が聞こえてくる。夕子の声だ。横断歩道の信号が赤から青に変わり、周囲の人々がいっせいに歩き出した。

「ちょっと待って、夕子、何言ってんの?」

 僕は足を踏み出せずにいた。息が詰まって言葉が継げない。

「やっぱり、知らなかったんだ」

 夕子は露骨にいら立った早口で説明した。鈴が心療内科で処方されていた薬をオーバードーズした。命に別状はなく、いまは実家の方で安静にしている。

「オーバー……え、心療内科?」

「それも知らなかったの? じゃあ、うつ病だったってことも? ていうかさ、鈴ちゃんが言わなくても普通気づかない? 彼氏なんだし、なんか様子おかしいなとか」

「ずっと会えてなかったから、電話とかメールだけで……夕子、鈴と会ってたの?」

「二週間前に連絡があって、家も近いしご飯行こうってなって。その時に色々聞いたの。おとといの夜、泣きながら電話かけてきて、様子がおかしいから駆けつけて」

 意識が朦朧として倒れている鈴を見つけ、救急車を呼んだのは夕子だった。


「浅井、誠くん」

 夕子はあえて他人行儀に、フルネームで僕の名前を呼んだ。

「君、倍速してるでしょ?」

 信号が変わり、また人々が歩き出す。

「どうしてわかったかって? だって、私も倍速、してたから。あ、自分だけだと思ってた? まあ無理はないか。私、知り合いで一人いたんだよね。貧血がちの人だったけど、貧血のたびに倍速が起こるって」

「……俺、夕子に相談したことあるよ」

 僕の脳裏に、夕日のバス停がよみがえる。あの日、全てが始まったのだ。

「そうだっけ? 覚えてないな。私の場合、大学生の頃に始まって」

「あっ、もしかして、小説……」

「違う、あれはちゃんと自分で書いた。小説を倍速で書こうなんて発想、ないよ。私が倍速を使ったのはさ……私ね、若林先生にセクハラされてたんだ」

「若林? あの、作家先生の?」

「酔ってキスされたり、襲われそうになったりもした。お前は弟子じゃなくて俺の愛人になれ、みたいなこと言われて」

「……倍速で、我慢してたんだ」

「いまさらだけど、あのとき、ちゃんと向き合ってたらなって思うよ。倍速なんか使って逃げずに。そしたら次を書く気持ちにもなれたのかもしれない。作家の夢、あきらめずに頑張れたのかもしれない」

 信号が再び赤から青に変わった。僕は客を下ろしていたタクシーに駆け寄った。スマホから、夕子の声が追いかけてくる。

「君はまだ、遅くないんじゃない?」


              *****


 鈴が待ち合わせに指定したのは、高校生の頃の「キスする場所」、見晴台公園だった。着くと、母親に車で送ってもらったという鈴が、ベンチに座って待っていた。

「誠くん、ごめんね」

「病気のこと、どうして……」

「これ以上面倒臭い女になったら、嫌われると思って。ごめん」

「俺こそ、ごめん」

 それきり僕も鈴も黙ってしまった。ビルでゴテゴテしたスカイラインに、太陽がゆっくりと沈んでいく。隣の鈴の横顔が、夕焼けの光に縁取られ、きらめいている。

「自分を見つめ直すためにね、一度リセットしたいんだ。仕事も、人間関係も」

 鈴はゆっくり、噛みしめるように言った。

「別れよう」

 反射的に、口元まで出かかった言葉を、僕はのみ込んだ。それを言う資格が、僕にはないと思って。

「もう行かなきゃ、お母さん待ってるから」

 僕は黙って項垂れた。鈴が母親の車に乗るのを、少し離れた場所から見届けて、見晴台公園に戻った。ベンチに座り、空を見上げた。じわじわと夜の闇がひろがっていった。僕は銅像にでもなったみたいに、いつまでもベンチから立ち上がれずにいた。ブラックホールのような底知れない喪失感に、とても耐えられそうになかった。


 ―どんな悲しみも、時間が解決する。


 ふと、月並みな慣用句が、耳元で囁かれた気がした。オッケー、それなら僕は、倍速でこの悲しみを解決させてやる。僕はやけっぱちな気持ちで、強く目を閉じた……

「別れよう」

 目を開けると、ベンチの隣に鈴がいる。

「もう行かなきゃ、お母さん待ってるから」

 あれ、どういうこと?

 僕は倍速する代わりに、過去に飛んでいた。鈴が別れを告げる、その瞬間に。

「別れよう」

「別れよう」

「別れよう」

「別れよう」


              *****


 いったい何千回繰り返しただろう。決して麻痺することのない、胸の痛み。最悪なひとときの、地獄のループ。どうすればこの呪いを解くことができるのか……。

「もう行かなきゃ、お母さんが」

「嫌だ!」

「え?」

 鈴が振り返った。俳優が、台本にない台詞を振られたような、困惑した表情で。

「僕も一緒にリセットする。それでもう一度、最初からやり直そう」

「もう無理だよ。遅すぎるよ」

「違うよ。やっと気づいたんだ。僕はずっと、速すぎたんだって」

 強い感情を秘めた眼差しで、鈴が見つめてくる。僕は鈴の手を取ると、わずかに抵抗を感じながら、引き寄せた。

「ずっと、言いたかったんだけど」

「何を?」

「鈴の指、とてもきれいだね」 


【終わり】

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倍速の恋 おくら @aokura3

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