お母さんのおにぎり
綸子
第1話
「おにぎり食べて行きー」
私がダイエット中なのを知ってるくせに。
母の声を背に慌ただしく家を出た。
その日は散々だった。
進路指導の先生に、受験生の自覚があるのかとグチグチ言われたり、アイプチもうまくいかなかったりで。
放課後、小学校からの友だちと公園でひとしきり愚痴りあった帰り道、年中の弟の通う保育所の前に差し掛かったときだった。
「ああ、ゆうちゃん!お母さんがお迎えに来ないのよ」
昔、お世話になった保育所の先生だった。
母は夕方に眠りこけてよくお迎えが遅れることがあった。
「私が連れて帰ります」
先生は、保護者と連絡がとれないとー!などと言っていたけど、ささっと用意をして弟の手を引いて帰った。
弟は、お迎えが母じゃないことを嫌がり私の足を何度もぶった。
イライラは最高潮。
玄関のドアを開けた瞬間に母に怒鳴った。
「お母さん!!お迎えぐらいちゃんと行ってや!!
かずき、めっさうざいねんけど!!」
返事がない。
部屋に入って目に入ったものは、倒れた母だった。
一瞬にして身体中の血が凍ったような感覚になった。
「お母さん?」
肌の色が少し白っぽいクリーム色に見えた。
触ると冷たかった。
母は死んでいた。
死んでいることと、現実が繋がらず「嘘だ嘘だ嘘だ」と泣きわめく私の様子に驚いた弟が大きな声で泣き出した。
救急車を呼んで、母の側にへたりこんだ私の目に写ったものは、ラップに包まれたおにぎり。
私は弟を抱き締めて泣きわめいた。
母は朝に心臓が止まってしまったそうだ。
私がイライラしながら過ごした時間に、母はもうこの世にいなかった。
苦しんだのだろうか。
母はどんな気持ちで死んだのだろうか。
あの朝、おにぎりを食べたらよかった。
行ってきますと言えばよかった。
そんなどうしようもない後悔に胸を切り裂かれる。
そして母は骨になった。
父は何も話さなくなった。
あまりに塞ぎこむから、私が悲しめなくなるぐらい。
弟は毎晩、ママママと泣いて、泣きつかれて寝る。
そんな日が半年続いたある日の朝、父が台所に立っていた。
父はおにぎりを握っていた。
「おはよう。おにぎり食べて行き」
父の声を聞くのは半年ぶりだった。
母と同じことを言う父を見て胸がぎゅっと苦しくなった。
父まで死んでしまうのではないかと怖くなった。
「お母さんのじゃないからいらない!!」
思ってもいない言葉が口から出た。
まるで弟のような幼稚な言葉だった。
父を傷つけてしまうとわかっていても、止められなかった。父がキレてしまってもいい、このどうしようもない気持ちを父にぶつけたくて止められなかった。
「お母さんがいい!お母さんのおにぎりがいい!お母さんのおにぎりじゃないと嫌や!」
私は床に突っ伏して泣いた。
「私、あの日お母さんを無視してん!おにぎりを食べてっていうお母さんを無視してん!お母さん!ごめんね!ごめんね!お母さん!」
父は何も言わずにただ側に座っていて。
会社に遅れているはずなのに。
「ゆうちゃん、悲しいのずっと我慢させてごめんな。かずきの悲しみまでゆうちゃんに任せてしまった。お父さんは弱いねん。
もう大丈夫やから、かずきみたいに子どもみたいに我儘言うんやで」
その日、学校を休んだ。
お父さんも会社を休んだ。
もちろんかずきも。
そして母の写真をたくさん見た。
母はもういないけど、母がいないことはきっとこれからもずっと悲しいけれど、それでもなんとかなるって思えた一日だった。
お母さんのおにぎり 綸子 @umechobin
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