黒井さんは、腹黒い?

羽々音色

黒井さんは、腹黒い?


 高校生になってすぐのこと。


 僕の隣の席の、黒井さんについていろんな話が飛び交った。


 曰く、先生に媚を売っているだの、腹黒いだの。

 酷いものだと、パパ活をしているだの、黒い下着を穿いている、だの。


 まあ、最後のは面白おかしく男子連中が言っていただけなのだけれど。


 ともあれ、黒く長い髪で前髪をぱっつんと揃えたその清楚な髪型とは裏腹に、黒井さんにはそんな黒い部分があるともっぱらの噂だった。


 正直な話。


 黒井さんがそんなふうに言われているのは、やっかみみたいな部分があるんじゃないかと僕は思う。


 なんといっても、彼女は高校の入学式で新入生代表の挨拶をしていたくらいに成績は優秀だし、当然、先生たちには気に入られている。

 また、健康的な小麦色の肌で整った顔立ちをしている彼女は、男子の人気も高い。


 だから特に女子からは顰蹙(ひんしゅく)を買って、そんな噂をされているんじゃないかと思うんだ。


 それに実を言うと僕は、彼女の中学時代を知っている。

 知り合い、程度の仲ではあったのだけれど。


 初めて黒井さんと話をしたのは、中学二年の冬だった。


 あの日はとても寒くて、珍しく雪が降っていたんだ。


 僕は一人で下校していたのだけれど、住宅街を歩いているところで、偶然黒井さんを見かけた。

 彼女は傘をさして、何やら公園の遊具のそばで、しゃがみ込んでいたんだ。


 学校指定の紺色のコートを纏(まと)って屈んでいるその姿は、こんな言い方をしたら失礼なのかもしれないけれど、その黒く長い髪と小麦色の肌もあいまって、一瞬カラスか何かを想像させた。


 でも、真っ白く雪化粧を施された公園でそうしている彼女を、僕は何故だか、とても綺麗だと感じたんだ。


 いや、そんな話はともかくとして。


 その時の彼女が何をしていたかといえば、よくよく見れば、遊具の横には段ボール箱が置いてあって。

 僕が気になって近付けば、箱の中から、か細く「にゃあ」、と声がした。


 一体誰が捨てたのか、そこには寒空の中震えている黒い仔猫がいたんだ。


 僕の近付く足音に黒井さんは顔だけこちらに向けると、その姿勢のまま小さく会釈をした。

 かと思えば、首を縮こまらせながら、ぶるりと小さく身震いをする。


 僕は彼女にならって会釈をすると、仔猫の様子を伺った。


 仔猫の上には厚手の毛糸の編み物が掛けられていて、最初はそれは元飼い主の最後の良心だったのかと思った。

 でもどうやらそれは思い違いだったようで、その掛け布団の正体は、黒井さんがさっきまで着けていたマフラーだったらしい。


 彼女曰く、「捨て猫みたいなんですけど、お家では飼えないので、せめてもと思って」、だそうだった。


 そんな優しい一面を持つ彼女が、噂されているような黒い部分があるわけがない、と僕は思う。

 まあ、黒井さんとはクラスも違ったから、中学時代は、それ以来ほとんど話す機会もなかったのだけれど。


「……あ、白井くん」


 時刻はそろそろ夕方にもなろうかという頃。

 昇降口で、僕はそう後ろから声をかけられた。


「……黒井さん」


 振り向けば、そこには件の黒井さんの姿があった。


「あ。英語の授業の時は、ありがとう」


 彼女の姿を見るなり、僕は続け様、そう言葉を口にする。


 それが何のことかといえば、今日の一限目の授業の時のこと。


 英語の先生が教室に入って来てから教科書を忘れてきたことに気づいた僕は、先生に素直にそれを打ち明けた。

 そうしたら先生は隣の人に見せて貰えと言ったのだけれど、生憎僕の両隣の席は女子で、少し困ってしまっていた。

 そんな僕を見かねたのか、黒井さんは自発的に僕に机をくっつけてきたのだった。


「もう。それ、何回目ですか?」


 黒井さんは僕の感謝の言葉に対して、そうくすりと笑う。


 黒井さんの言う通り、確かに僕は今日何度も彼女にお礼を言っている。


 それは何故かといえば、実をいうと多少の気まずさからくるものだ。


 中学時代から続いて、高校に入ってからもあまり彼女と話す機会のなかった僕は、あの英語の授業の時に唐突に降って湧いた彼女との物理的な接近に、少しだけ胸を踊らされた。

 近くで見る黒井さんの横顔はとても綺麗だったし、そして何より、ほのかに香るシャンプーの匂いが僕の鼻腔をくすぐって、なんだか僕はとても悪いことをしている気分になってしまっていたんだ。


 その罪悪感に似たものからか、今日は黒井さんとたまたま目が合うたびにお礼を言ってしまって、今みたいに笑われていた。


「ごめん」


「別に、謝らなくてもいいですけど。でも、そんなに何度も言うほど感謝してるんですか?」


 下駄箱から靴を取り出しながらそう言葉を交わして、二人して靴を履く。


 確かに感謝はしているけれど、本当の事情を正直に答えるわけにもいかず、僕は素直に、


「うん」


 とだけ答えた。


 そうすると彼女は、人差し指を唇に当ててほんの少しだけ考えたそぶりを見せて、「じゃあ」、と切り出した。


「別に、無理だったらいいんですけど」


「うん」


「この間、駅前に新しくクレープ屋さんが出来たみたいなんです」


 僕たちは校舎を出ながら、会話を交わす。


「そうなんだ」


「はい。なので、えっと……それ、奢ってください」


 相槌を打つ僕に、なんだかちょっぴり恥ずかしそうに、黒井さんはそう言葉を口にした。


 僕からすればその提案はお安いご用、いやむしろ、願ってもないものだった。

 だってそれはつまり、黒井さんと一緒にクレープを食べに行けるってことなのだから。


「あ、うん、いいよ、それくらい。ごほん……じゃあ、これから行く?」


 少し掛かり気味だったかもしれない口調で言ってしまった僕は、一度咳払いをしてから、彼女にそう提案し返した。


 黒井さんは僕の返事を聞いてぱあっと顔を明るくすると、


「いいんですか? ん、ぅんっ……じゃあ、行きましょうか」


 と、何故だか僕と同じように一度咳払いをして答えてから、顔を背けるように少し早足で歩き出した。


 黒い長い髪を揺らしながら、僕の少し前を歩く黒井さんの後ろ姿を見て思う。


 彼女の唐突な提案は、僕にとっては嬉しいものではあったけれど。

 中学から今日までそんなに話していなかった僕に急に、クレープを奢って、と言ってくるなんて、正直首を傾げざるを得なかった。


 もしかすると英語の授業の時の彼女の気遣いは、それを見越してのことだったのだろうか。


 そうだとすれば。


 黒井さんは噂通り、本当に腹黒い部分があるのかも、なんてことが僕の頭の中にチラついた。


 と、その時だった。


 急にぶわりと強い春風が吹いて、まるで漫画みたいに、とは言わないまでも。

 僕の前を歩く黒井さんのスカートが、めくれてしまったんだ。


「……」


「……」


「……見ました?」


 立ち止まった黒井さんはスカートを抑えながら振り向いて、少しの沈黙の後、僕を見る。


「……えーっと、ごめん。何が?」


 僕は、とぼけたふりをする。


 罪悪感から自然と付いた、ごめん、なんて言葉でバレバレだろうに。


「ふぅん……まあ、別に、白井くんなら、いいですけど……」


「うん?」


「なんでもないです」


 いまいち意味がわからなくて、黒井さんが何を言ったのかうまく聞き取れなかったけれど。

 彼女はジト目、というに相応しい瞳を僕に向けてから、唇を尖らせた。


「……たくさんトッピングするので、覚悟しておいてくださいね」


 そう悪戯っぽく笑ってまた歩き出す黒井さんの顔は、小麦色の肌でちょっと分かりにくかったのだけれど、赤らんでいるように見えた。


 僕はそんな彼女に並ぶように歩き出すと、少しぼんやりした頭で辛うじて言葉を投げる。


「えっと……お手柔らかに、頼むよ」


 その日は一日中、さっき見えた黒井さんの色が、僕の頭から離れなかった。

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