空見下げ、「どこか遠くに行きたいな」――そう言う君の手を引いた

きつね月

空見下げ、「どこか遠くに行きたいな」――そう言う君の手を引いた

 ひどく暑い夏の日のことだった。


 一体どうやったのか、屋上に続く扉の鍵は無惨にも破壊されていて、その向こうにいた君は、手すりに背中を預けた姿勢で水色の空を見上げていた。

 私は足音を立てないように気を付けながら、そっと近づく。

 きっとそんな私の存在になんて気がついていただろうに、君はなんの反応も見せないで、ただ空を見上げたままでいた。


 まったくおかしな気分。


 君は確かに空を見上げていて、空は君より高い位置にあるはずなのに、どうして君はそれを――見えるのだろう。

 雲の浮かぶあの遠い水色に、ともすれば君は吸い込まれていってしまうように見えるのはどうしてなのだろう。

 まるで君のところだけ世界が逆さまにでもなってしまったような。


「……ねえ」


 私は話しかけてみる。

 その一言がきっかけになって、今まで辛うじて緊張を保っていたなにかが壊れてしまわないように、恐る恐るといった口調。

 しかしそれでなにが壊れてしまうのかはよくわからない。


「なに」


 君の声が帰ってくる。よかった、と私は安心する。

 よかった、いつもの声だ。

 いつもの聞きなれた、無愛想な君の声だ。


「こんなところで何してるの?」


 その声に勇気をもらって、私はさらに踏み込んでみる。

 

「立ち入り禁止でしょ、屋上は」

「別にいいじゃん」

「よくないよ、危ないからこっちに来て」


 そう呼び掛けてみる。

 しかし君はそれには答えずに、


「……どこか遠くにいきたいなと思ってさ」


 と言った。

 そうして君は見上げていた顔をこちらに向ける。

 と、私は驚いてしまう。

 普段の君はいつも醒めた目をしていて、それは俗に言う「ハイライトのない目」というやつで、そんな君の目を皆は嫌っていたけど、私はそれが好きだった。意味もなく覗き込んだりして君によく怒られたものだ。

 しかしそんないつもは真っ黒なはずの君の瞳が、今は空色そらいろに変わっていた。

 まるで見つめていた空の景色が焼き付いてしまったかのように、澄んだ水色のそのなかには雲が浮かんでいて、きっとその大気圏の向こうには昼間の星があり、月があり、銀河がある。そんな世界。


 そう、君の目は、宇宙に変わってしまったのだ。


 私は慌てて君のもとまで駆け寄った。

 その途中、君のそばに鉄製の金槌が転がっていることに気がつく。きっとこれで屋上の扉を壊したのだろう。怒りさえ感じさせるように徹底的に破壊されていた屋上の扉。こんなものまでわざわざ用意して、君は一体何をしようとしているのか。


「ねえ」


 すぐ側まで近づく。君はなにも答えない。

 こんなに近づいてみても、君の目には私の姿が映っていない――それが分かると怖かった。理由はわからないけど、すごくすごく怖かった。

 私を置いて、君は一体どこにいくつもりなのだろう。

 どこにいってしまうつもりなのだろう。


「ねえっ」


 自分の声が震えているのがわかった。

 私は君の手を引いた。

 こんなに暑い夏の日なのに、君の手は冷たかった。


「なんだよ」


 呆れたように君が笑う。何をそんなに慌てているんだ――とでも言いたげなその口調。

 いつもと変わらないままのその声が、今度は私を安心させてくれなかった。


「……」


 言うべき次の言葉が出てこない。もどかしくて涙が出そうになる。

 一体何を怖がっているのか――そんなの私にだってよくわかっていない。

 でも、ここで何かを言わないときっと後悔する。絶対に後悔する。それだけはわかった。だから私はせめて、君のその手を離さなかった。

 絶対に君に言うべき次の言葉を見つけられるまで、ずっとその手を離さなかった。


 ひどく暑い夏の日のことだった。 



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空見下げ、「どこか遠くに行きたいな」――そう言う君の手を引いた きつね月 @ywrkywrk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ