進化エスケープ

未由季

進化エスケープ

「すごい傷」

 カバのプールの前で、アンリが顔をしかめた。


 休日の動物園は人もまばらで、カバは静かに干し草を食んでいる。


「カバ、怪我でもしてるの?」

 あたしは尋ねた。


「うん、すっごく痛そうだよ。ほら、書いてある。『カバの傷ついて。自分で引っかいてしまうことがあります。感染症などの心配はございません』だって」

 アンリがプール脇の案内板を指差した。

「カノンも視覚フィルター切って見てみなよ」


 あたしの目に映るカバは愛らしく、とても満ち足りた様子。

 正直、これで十分なのにな、と思う。

 わざわざカバの痛々しい姿を明らかにするメリットはない。


「少しの間だけだからね」

 そう断ってから、あたしは恐る恐るフィルターをオフにした。青みがかっていたプールの水が、暗く淀む。濁った目をしたカバが、血のにじむ傷跡をこちらに向けながら、思いのほか機敏な動作で水に入っていく。


 深く潜ってしまったのか、カバの姿は見えなくなった。


「ストレスによる自傷行為かな」

 ため息をつくアンリの顔は、とても整ってる。大きな瞳、儚さのただよう細い鼻筋、血色のいい薄い唇、白くきめの細かい肌。視覚フィルターのオンオフの差がほとんどないアンリを、好ましく思う。


「ほんと、視覚フィルターってクソだよね」

 アンリが苦い表情を浮かべた。

「傷があろうがなかろうが、カバの可愛さに変わりはないのに」


「でも、痛そうな動物を見るのは、あまり気持ちのいいものじゃないから」

 あたしの言葉に、アンリは目を吊り上げた。


「じゃあこのプールの汚さについてはどう考える? 視覚フィルターに甘えすぎだと思わない? フィルターが存在してなければ、ここまで汚れを放置することもなかったんじゃない?」


 こんな時期にわざわざ動物園に来る物好きなんて少ないからか、動物園の環境は明らかに手が抜かれていた。まだ飼育員も在籍してはいるのだろうが、入園してからここまで、見かけたのは飼育ドールだけだった。

 人間と旧式ロボットの中間みたいな見た目をしたドールは、気味が悪くて苦手だ。プライベートでは、決して触りたくはない代物。


「ねえ、人類が活動をやめたら、ここにいる動物たちはどうなるの?」

 あたしは無理やり話題を変えた。


「そんなの飼育ドールが世話して、怪我や病気にも対応するでしょ。おまけに、人間にとって好ましい個体数になるようドールが調節、繁殖もさせる。自由はないけど、種が存続するには十分な環境が維持されていくはずだよ」

 アンリが滑らかに舌を動かす。きっと動物園に行くと決めた日から、調べて頭に入れておいたのだろう。

「緊急時には、人間と同じように蘇生処置だって受けられるみたいだしね」


 アンリの言葉を聞き、あたしは咄嗟に服の下に隠しているピルケースへと手を伸ばした。


「ねえ知ってる? 大昔の動物園では、ふれあいコーナーってものがあったらしいよ。動物に直接触るって、どんな感じだろうね」

 

 アンリはあたしより六つも下だけど、とても物知りだ。

 子どもの頃から恐ろしく容姿が整っていたアンリは、どこへ行っても人の視線にさらされ続けることにうんざりして、十歳でスクールをドロップアウトした。以来六年間、趣味で集めた膨大な量の紙媒体と地下ネットワークから知識を得てきたという。


 あたしたちが最初に言葉を交わしたのは、地下ネットワーク上の情報交換サイトだった。アンリはそこで客が求める情報を提供して、収入を得ていた。規制の対象となるもの、秘匿情報すらも、彼女は易々と地下ネットワークの深淵からさらってきた。情報の収集において、アンリは法を犯すことに躊躇がなかった。


 あたしたちは依頼人と情報提供者として出会い、そのうちオフラインでも顔を合わせるようになった。

 初めて会ったとき、あたしたちは似たもの同士だと直感した。そしてその直感は正しかった。あたしたちが完全に打ち解けるまで、そう時間はかからなかった。


「人間が見に来なくなったら、動物たちは寂しがるかな」


「むしろ清々するんじゃない? ジロジロ見に来る二本足の生き物がいなくなってさ」

 そこでアンリは意地の悪い笑みを浮かべた。

「よし、決めた。これからも時々、こいつらのことを眺めに来てやろう」

 

 突然、水音が上がり、水面からカバが顔を覗かせた。ふてぶてしさが感じられる瞳は、視覚フィルターをオンにした瞬間、つぶらであどけないものへと変わった。

 目の前の景色から不快な部分を取り除き、実際より好感の持てるものへと自動補正してくれる視覚フィルターは、アンリに言わせると「風情がない」らしい。

 

 しばらく黙ってカバが泳ぐ様子を見つめていたアンリが、ぽつりぽつりとこぼしはじめた。

「やっぱり、ここに動物を見に来るのは今日が最後にしようかな。だってこいつらはこれからもずっと管理されたまま不自由に生きるんでしょ。ならせめて、人の目にさらされない生活をさせてあげたい」


 アンリが伸ばしてきた手に、自分の手を重ねる。すぐ横を、干し草の容器を持った飼育ドールが移動していく。

「そろそろ帰ろうか」

 あたしたちは帰りのゲートまで、手をつないで歩いた。

 人類が長い眠りにつくまで、あと299日。




 世界政府から百年計画が発表されたのは、二十二年前のことだった。

 気候変動による自然災害の多発、異常気象、また化学汚染を原因とした環境の悪化で、世界の人口はピーク時の三分の一にまで減少した。今日までに様々な打開策が試されたが大きな効果は得られず、人口減少とともにあらゆる分野での研究、技術の発展は滞った。

 百年計画は、こうした問題を解決するための最終手段だという。

 人類はこれから、百年の眠りにつく。

 その間に、地球環境は大幅に改善されるだろうとの予測が立てられている。

 これまでに環境破壊をし尽くしてきた、謂わば地球にとってのヴィランである我々人類が、もしも活動をさせたならば。地球は再び緑豊かな惑星へと生まれ変わる可能性が高いのだった。


 人類が長い眠りにつくために開発されたのが、人工冬眠を可能とするカプセル型マシン。

 元々短期的な人工冬眠は主に医療現場などで使用されていたが、それを長期に対応させたものが自動制御型冬眠マシン――スリープポットだった。

 スリープポットは現在までに各家庭に配置済であり、気の早い者や上昇志向の強い連中はすでに人工冬眠に入っている。


 百年計画には、地球浄化の他に、もう一つの目的があった。

 人類、進化プラン。

 スリープポットには冬眠中の人間の脳を刺激し続ける機能があり、長期的な脳刺激は人類全体の進化を促すというのだ。

 百年後、目を覚ました人類は特別な能力に芽生え、精神構造も様変わりした、高次元的存在となって、地球環境を正しい方向へと導いていくらしい。


 たかが数十日長く冬眠した程度で、そうでない者と比べ、より高い能力が得られるものではないとの、シミュレーション結果が出ている。だがそうした情報を信じられずに、入眠期限日よりだいぶ前に冬眠に入ってしまう者は多い。誰も彼もが我先にと身辺を整理し、スリープポットに身を沈めていく。

 今やこの地球で活動を続けているのは、医療やインフラなどに関り、ドールと呼ばれる専門的AIロボットでは替えがきかない職業に就いている者か、ベッドの中でまだ眠くない、もう少し遊びたいと駄々をこねる子どものような人間くらいだろう。


 あたしとアンリは入眠期限ギリギリまで、起きていようと決めている。




 ショーケースに並んだケーキを、端から順にトレイに乗せて席に戻ると、携帯端末から顔を上げたアンリが、無言で眉をひそめた。欲張りすぎだと言いたいのだろう。

 ケーキの食べ放題に来ている。

 テーブル席は九割がた埋まり、そのほとんどがひとり客のようだった。冬眠前、最後の甘味を楽しむつもりなのだろう、誰もが真剣な顔でケーキを選んでいる。

 まだこんなに起きている人がいたのだと、あたしは驚いた。


 客の何人かが、アンリの美しさに気づいた。

 気絶寸前みたいな顔で口をパクパクさせるような大袈裟な反応ではなかったけれど、ケーキを食べながらチラチラとこちらのテーブルへ視線を寄こし、感嘆の息をもらす者たちがいる。

 アンリは帽子を深くかぶり直すと、「クソ共が」と小さく吐き捨てた。

 視覚フィルターには、周囲の人間の顔をぼかす機能もついているが、アンリがそれを使っているのを見たことがない。

「どうしてわざわざ現実を歪ませる必要があるの?」

 と、常日頃から彼女は、このコンタクトレンズ型視覚フィルターを忌避している。

「ファンタジーを強制してくる奴らを、わたしは激しく憎悪するね」

 ありのままを認めてもらいたいと切実に願っている、とてもアンリらしい発言だった。


 あたしは周りの視線からアンリを隠すように、座席の位置を調節した。


「そんなに食べたら太るよ」

「今日くらいはいいの。だってこの機会を逃したら、もう二度と生のケーキなんて食べられないかもしれないじゃない」

「百年後にまた食べられるかも」

 アンリが携帯端末に視線を戻す。


「そんなことありえません」

 あたしは言い、アンリの手から端末を奪った。

「いいからアンリも、さっさとケーキ取って来なよ」

「はいはい」

 

 素直に立ち上がり、ショーケースに向かうアンリを見て、あたしは頬がゆるんでいくのを感じた。ケーキにはしゃぐなんて子どもっぽいという思いがあるのか、今日のアンリは必要以上に冷めた態度をとっている。

 本当は、甘いものに目がないはずなのに。

 仕事部屋でモニターに向かっているときなど、アンリはしょっちゅう菓子を口にしている。


「ねえ、すごいよ。奥のキッチンみたいなところに人がいるの見えた。自力でクリーム混ぜてたよ」

 アンリはケーキを山盛りにしたトレイを手に、興奮した様子で戻って来た。


「そりゃいるでしょ。手作りを売りにしてるんだから」

「嘘、調理ドールが作ってるんだと思ってた」

「ここのシェフ、最後に自分の作ったケーキを思いっきり振る舞ってから冬眠に入りたいと思って、一日限定でお店開けることにしたらしいよ」

 あたしたちと同じ思考の人間は、案外多いのかもしれない。

 思い残すことなく、遊びきりたいのだ。


 お互い、余裕があるふりをしているけど、さっきから目の前のケーキが気になって仕方がなかった。

 配膳ドールがお茶を運んでくる。ずいぶん前から見かけなくなっていた、N社の96年式のドールだ。最早アンティークといっていい代物。少し興味を引かれたが、今日は仕事のことを考えないと決めたのだった。


 あたしはドールから目を逸らした。

「よし、飲み物も来たことだし、食べましょうか」


 アンリが素早くフォークを取る。

「いただきます」


 あたしたちはしばらく、夢中でケーキを貪った。

 甘味が脳に広がるにつれ、語彙力が落ちていく。

「やばい」と「うまい」を繰り返しながら、何度もテーブルとショーケースを往復した。


 お腹が満たされた後も、あたしたちはだらだらと焼き菓子を摘まみ続けた。

 こんなことができるのも今だけだろうと考えると、テーブルを離れるのが名残惜しかった。

 人類が長い眠りにつくまで、あと156日。




 防波壁内のエレベーターを下りると、目の前に白い砂浜と青い海が広がった。ひどい腐敗臭が鼻をつく。

 隣を見ると、アンリが顔をしかめていた。

 彼女の見ている景色の中で、海はどうなっているのだろうか。少し気になったが、視覚フィルターをオフにする勇気はなかった。


 海に行きたいと言ったのは、アンリだった。

 仕事で防波壁のドールをメンテナンスしに行くと告げると、アンリは抱えている依頼を後回しにして、あたしについて来た。


「どう? 初めて見る海は」

「汚いし臭い」

「汚いはわからないけど、臭いのはわかる」


 あたしが生まれる前から、海洋汚染のレベルはマックスに達し、今ではこの国の周囲を高い防波壁が囲っている。海の生き物を食べることはおろか、海水に触ることすらできない。

 実は、こうして海風にあたっていること自体、人体には悪影響だと言われている。

 しかし意外なことに、海を眺めに行く者は後を断たない。ある種の自傷行為だ。破滅的思考に憑りつかれた者が、海に対し過剰な夢を見る。

 かくいうあたしも以前はそのひとりで、毎週末を海辺で過ごしていた時期もあった。


「ねえ知ってる? 大昔には、海を死に場所として選ぶ人がいたらしいよ。崖の上から飛び込んだり、わざと波にさらわれようとしたりするの」

 アンリが、おそらく紙媒体から得たであろう知識を披露する。


「うん、知ってるよ」

 あたしは答えた。

 すごくよく知ってるよ。


 あたしが自分の死に場所について具体的に思いを巡らすようになったのは、視覚フィルターで家族の顔をぼかしはじめた時期と重なる。

 あたしは海と自死について調べ、いくつかのドキュメンタリー映像とフィクションを参考にした。

 その結果、海を死に場所にするのは、どうもインパクトに欠けると気づいた。古典作品の中には、この世をはかなんだ恋人たちが手をとり入水するというエピソードが見受けられる。それは決まって物悲しく繊細に描写されていた。

 あたしは美化された死を望んでいなかった。

 どうせ命を断つなら、とことん惨めで、誰もが目を覆いたくなるような痛ましい死でなければならない。


 あたしはアンリに、この先の予定を尋ねた。

 アンリはいくつかの依頼をこなし、読もうと思っていた論文を片づけ、食糧庫の備蓄を整理すると答えた。


「カノンはまだ忙しいの?」

「実は、かなり仕事が詰まってる。このぶんだと入眠期限の前日まで働くことになりそう」

「そっか。じゃあ会うのは今日が最後になるかもね」


 あたしは肌身離さず持ち続けていたピルケースから中身を取り出し、一つをアンリに渡した。

 人類が長い眠りにつくまで、あと67日。




 母からのコールで、目が覚めた。

「今、何をしているの?」という問いに、「特に何も」と返す。

 それきり黙っていると、母は猫なで声で喋りだした。

「ねえ、今からでもあなたのぶんのスリープポット、こっちに移動させない? 冬眠から覚めたとき、家族が揃っているほうがいいでしょう? お姉ちゃんたち家族も、うちで冬眠することにしたのよ」


 大方、職場の人間にでも言われたのだろう。

 娘にひとりで冬眠させるなんて可哀想だとかなんとか。

 

「いい、あたしはここで冬眠に入る」

「あら、家族なんだから遠慮しなくていいのよ。」

「遠慮なんてしてない。あたしがそっちに行きたくないだけ」

「は、何それ、どういう意味よ」

「あなたたちとは一緒に眠りたくないって言ってるの」


 だってあなたたちのほうから、あたしを見放したんじゃないか。

 あなたたちは実の娘の言葉より、他人であるカラタチの話を信じた。

 それが今さら家族団欒なんて、笑わせるな。

 束の間、心が波立ったが、それもすぐに凪いだ。

 かつて、この人に対しどれほどの感情をぶつけただろうか。自分をわかってもらいたくて、どれだけの時間と労力を費やしただろうか。すべて意味のないことだった。


 カラタチは、あたしが通っていたスクールの教師だった。

 いつも穏やかな笑みを浮かべ、相手の目を覗き込むようにして話を聞くカラタチのことが、あたしは好きだった。向こうも同じ気持ちを抱いていると知ったときは、それこそ天にも昇る思いだった。地球上で一番の幸せ者は、間違いなく自分だと思った。

 朝の講義がはじまる前のちょっとした時間、昼休み、放課後、あたしとカラタチは人目を忍んで会った。

 ある雨の夕方、操作を誤り、視覚フィルターをオフモードにしてしまったとき、あたしの目の前にはカラタチがいた。

 フィルター補正されていない、生の状態のカラタチを見るのは、初めてだった。


 あたしは激しく動揺した。

 女神ようだと思っていたカラタチは実際、不満そうに口角を下げた、どこにでもいる疲れた大人の顔をしていた。

 見知らぬ人間と対面しているような感覚に陥り、あたしは反射的にカラタチから距離をとった。それが彼女の心を深く傷つけることになろうとは、想像もしていなかった。


 慌ててフィルターをオンにすると、見慣れた姿のカラタチが、不安そうな表情を浮かべていた。


「ごめんね、なんかちょっとびっくりして」

 咄嗟に取り繕う言葉を口にできないほど、あの頃のあたしは子どもだった。


 翌日から、カラタチはあたしを遠ざけるようになった。

 ただ避けられるだけなら、まだ良かった。カラタチはスクールとあたしの両親に対し、虚偽の報告をした。

 カラタチが提出した報告書には、スクールでのあたしの様子について『非常に情緒不安定な状態にあり、虚言癖が目立つ。また、破壊的衝動も顕著に表れている。早急にカウンセリングと治療が必要』と記されていた。


 あんなのは間違いだ、カラタチがデタラメを書いたのだと、あたしは訴えた。

 だけど、信じてくれる者はいなかった。

 誰が見ても、社会的信用度はカラタチのほうが高かった。

 

 病院に行こうという説得に抵抗する際、誤って母に軽い怪我を負わせた。それが決め手になって、あたしは閉鎖病棟へと送られた。

 あたしは残りの十代を、たったひとり白い壁に囲まれて過ごした。



「じゃあ、忙しいのでこれで。さようなら」

 強引に通話を切った。

 静かになった部屋の中で、あたしは入眠の準備をはじめた。

 今日は、人類が冬眠に入る最終期限だ。


 閉鎖病棟を出てからは、死に場所を探して過ごした。

 頭にあったのは、このままおとなしくしていてたまるかという思いだった。

 あたしが求めたのは、センセーショナルな死だった。できるだけ両親に迷惑がかかるかたちで、惨めに、むごたらしく、大きな屈辱を刻み付けてからこの世を去る必要があった。そうして死ぬことが、世間体を気にする両親への最大限の復讐になると信じていた。

 おかしな儀式を行うカルト団体、非合法の植物種子を使って、改造人間を作ろうと目論む地下組織、外国人への拉致拷問の噂が絶えない某国。自分を殺してくれる人や出来事を求め、すすんで危険なエリアへと旅をしては、期待外れに終わる日々が続いた。

 あたしは地下ネットワークにアクセスし、死に場所の情報を求めた。そして、アンリと出会ったのだった。


 アンリと過ごすようになってから、あたしは死について考えなくなった。



 スリープポットから、カウントダウンのアラームが鳴りはじめた。

 あたしはアンリのことを考え続けた。美しい横顔、頭の形がはっきりわかるほど短く切った髪、紙媒体を捲る細い指先、突き放すような口調、少し掠れた声、乾いた植物のような体臭、すぐに顔をしかめる癖。

 

 スリープポットに身を沈める。カバーを閉める前に、ピルケースの中身を口に含んだ。

 アンリはもう、眠っただろうか。

 カバーを閉めると、すぐに眠気がやってきた。




 規則的な振動を感じた。

 ゆっくりと瞼をおし上げる。

 顔の上を、細長い影が横切った。遠くから機械音が聞こえている。

 完全に覚醒するまで、時間はかからなかった。昔から寝起きはいいほうだ。

 身を起こし、ポットを脱出する。筋肉はすぐに反応してくれた。眠ってから、さほど時間が経っていない証拠だ。

 室内を見回し、自走式リヴァイヴを確認する。あたしが目覚めてすぐに見た影は、リヴァイヴから伸びた蘇生アームだったのだ。

 そこからは、頭の中でシミュレーションしていた通りに行動した。仕事道具を手に取り、リヴァイヴの裏側に回って、リセット処理をした。これで蘇生命令も無効になったはずだ。少し観察していると、蘇生アームが装置の中に戻されるのが確認できた。

 次に、装置から管理チップを取り出し、コピーを二つ作る。一つを自分の生体識別チップと入れ替えた。今日のためにコネクタロックを外し、拡張しておいたのだ。言わずもなが違法であるが、そんなこともうあたしには関係ない。

 今からのあたしはキリシマ・カノンではなく、自走式蘇生装置リヴァイヴだ。


 死に場所を探すため、アンリからの情報を元にして訪れた、数々の国と地域。

 古代呪術とハイテクノロジーが共存する奇妙なエリアで、あたしは求めていたものに出会った。

 仮死薬。

 エリアでは主に家畜に対し投与されているものだった。

 その薬の存在を知ってから、あたしは積極的にエリアでの仕事を受けるようにした。こつこつと住人からの信頼を集め、ついには誰にも怪しまれず薬品庫に近づけるまでになった。

 あたしは薬品庫から仮死薬を盗み出した。

 

 百年計画から抜け出す。

 決意は固かったが、問題はその方法だった。

 あたしはもう一度、計画案に隅々まで目を通し、アンリは公表されていないスリープポットの機能について調べた。

 そこで気になったのが、ポット内の人物が死亡した場合についての記述だった。

 死亡時には管理センターへ信号が送られ、ただちにリヴァイヴが派遣される。

 通常、ポットのカバーはセットされた日時を迎える前に開くことはないが、リヴァイヴによる蘇生処置が行われる間は例外だという。


 ならば、スリープポット内で死んでみせればいいのではないか。

 仮死薬を手に入れ、それを飲んでから冬眠に入ろう。

 蘇生が完了すると、リヴァイヴによってカバーは閉じられ、再び冬眠モードに入る。その前にポットから飛び出し、うまくリヴァイヴを制御できたなら、蘇生処置後そのまま、起きていられるかもしれない。

 冬眠を避けられるかもしれない。

 

 世界政府の言葉をそのまま受け取るなら、百年計画は人類に多大な恩恵と幸福をもたらすだろう。

 スリープポット内で進化を遂げた人類は、高次元的な存在となり、今度こそ正しい方向へ繁栄していくのだ。

 なんてばかばかしく、都合のいい夢だろう。

 この計画で、人類は多くのものを失うかもしれないというのに。

 予見された危険について、誰もが見ないふり、考えないふりを貫いてきた。

 能力の飛躍的な向上により人類は、他者への愛情、コミュニケーション、言語、芸術――これらを必要のないものとして切り捨てる可能性があるのだ。


 百年後、あたしとアンリの関係は大きく変わるかもしれない。

 想像するだけで、背筋が寒くなった。

 どれだけ高い能力を得ようと、物事を合理的に処理できようと、この胸にあるアンリへの想いが消失してしまうなら、なんの意味もないのだ。そんな進化は歓迎できない。


「アンリ」

 音声通話を試みるが、予期したとおり反応しない。

 あたしは急いで仕事道具一式を掴み、部屋を飛び出した。

 通路で、マンション管理用のドールとすれ違う。冬眠を抜け出した者はすぐさま生体識別チップからの信号をキャッチされ、捕獲ドールに追われる仕組みだが、現時点であたしを捕らえようと動くドールはいない。みんな、あたしをただ蘇生装置と認識しているのだ。

 あたしはアンリの元へと急いだ。




 アンリは、リヴァイヴと格闘しているところだった。

 アンリの体を捕らえ、スリープポットに戻そうとしているリヴァイヴに、素早く駆け寄る。大量生産型のリヴァイヴなど、ほとんどドールと仕組みは一緒だ。ドール整備士であるあたしの手にかかれば、リセットなど簡単だった。

 リヴァイヴが停止したのを確認し、アンリを助け出す。

 仮死の後遺症だろうか、アンリはなぜかハイになっていて、声を上げて笑い続けている。

 あたしは持ってきたリヴァイヴのコピーとアンリの生体識別チップとを入れ替えた。


「ああ、おかしい。駆け込んできたときのカノン、すごく怖い顔してた」

 アンリが目の端にたまった涙を拭いながら言った。


「だって急がないとアンリがまた冬眠しちゃうと思ったんだもん」

「わたしが冬眠しちゃったら寂しい?」

「寂しいに決まってるでしょう」

「ふふふ、その言葉を聞けて良かった」


 あたしたちが話している間に、目的を失ったリヴァイヴが管理センターへと戻って行く。

 

「薬、ちゃんと効いて良かったね」

「うん、人間にも効果がある薬なのかどうかは、賭けだったわけだけど」

「あたしたち、賭けに勝ったね」

「これでわたしたちは、旧人類になっちゃうんだね」


 現在ポッドの中で眠り、百年後、新人類として目覚める者たちとは、別の生き物。

 あたしとアンリは、非合理性を愛する、野蛮で感情的な旧人類だ。

 後悔はない。

 人類が眠った世界で、たった二人、生きられるところまで生きてみようと決めたのだ。

 あたしたちは、進化をエスケープする。


「ねえ、外出てみよう」

 アンリはいまだハイで、その場でぴょんぴょん飛び跳ねながら、あたしの手を引いた。

「ああ、その前に」

 と、アンリが抱きついてくる。

 彼女の舌が、あたしの眼球をなぞった。

 ぞわぞわとして、少し気持ちがいい。


「これからはもう、必要ないよね」

 アンリの舌先に乗っていたのは、あたしの視覚フィルターだった。


「見て」

 

 にっこりと笑うアンリにつられ、窓の外に目をやる。

 二人だけの世界は、とても美しかった。

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進化エスケープ 未由季 @moshikame87

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