蝶に誘われて《乙》

朽木 堕葉

目覚めた先は

 目の前をひらひらと舞う蝶を追っているうちに、疑問が湧いた。

 ここは、いったい、どこなのだろう。

 歩くにつれて鮮明になる意識が、ぼやけた輪郭の世界を、不意に浮き彫りにさせてきた。

 眼前に立ち並ぶ絢爛な高層ビル群が、夕陽に煌めている。綺麗だ、と思った。同時にその光景が、ひどく殺風景に感じてしまうのが、不思議だった。

 そうだ、と納得した。だれもいないからだ。

「どう、して……」

 咄嗟に疑問が口をついて出た。

 俄かに、脳内で映像ビジョンが駆け巡った。

 画面の中で、一人の老人が、なにやら切実に訴えかけている。彼はこう言っていた。

『我々は今、人類史上――最大の危機に直面しているのです』

 持ち合わせていた答えが、今度は脳裏に文字として瞬いた。

 〝不可避の巨大隕石の衝突″

 狂乱に陥る人々の様子を強烈に思い出し、かぶりを振る。

 たしか、ここは、〝楽園″であったはずではなかったか?

 逃れられない絶望を凌ぐための計画。

 シェルターに閉じこもり、やり過ごすための計画を、楽園や方舟といった希望の言葉で扇動された人々。

 そのなかの一人に、自分がいたはずだった。

 殻の建造が到底間に合わないからと、その計画は一度は白紙に戻った。

 冷凍睡眠コールドスリープの技術ですらお粗末で、再び目覚める保証などない眠りなのも、わかっていた。

 四度の世界大戦を経ても、人類には克服できないことが山積みにされていて、人は神様になんてなれないと思い知らされた。

 それでも、不完全な神様の創造物に、すがりつくしかすべはなかった。

 急に視界が歪んだ。またぞろ、思い出した。泣くという感覚を。こんなことにすら、懐かしさを覚えるのは、長い時が流れている証明なのかもしれない。

 指で涙を拭い、もう一度、世界を見た。

 嗚呼、やっぱり。嘆息がこぼれた。

 見事なまでに荒廃し、奇跡的に形を失わないでいるビル群が、そこにあった。

 その巨大な墓標を独り、見上げた。

 より強く、なぜなんだと思った。なぜ、自分だけが、ここにいるのかと。

 ひらりと、さっきの蝶が目の前を横切った。

 我知らず足が動き、その美しい命を追うのに身を任せた。どこかに、導いてくれる存在がいるとしたら、それ以外になかった。

 そこに誰かがいることを願った。

 そうでなければ、そこでまた、眠りにつくのだろう。

 もう、覚めないでいてほしい、と祈る眠りに。



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蝶に誘われて《乙》 朽木 堕葉 @koedanohappa

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