首を抱く

中尾よる

首を抱く

 首を抱いていた。まだその体温を留めた首の断面は、生温かい血でぬるり、と濡れている。重い頭蓋骨を包む薄い皮膚には、柔らかい黒髪が繁っており、その肌の白さを隠していた。髪の中に、指を差し込む。ぬるぬると血で濡れた指は、髪の毛に纏わりつき、指から移った血が毛にこびりつく。後頭部を支え、上を向かせると、顔が露わになった。目を瞑ってこそ目立つ、長い睫毛、通った鼻筋、形良く曲線を描く唇、その端正な顔立ち。左目の下に、小さい黒子ほくろがあった。その黒子を指でなぞる。

 私は彼を知っていた。多分、他の誰よりも彼に近かったのは私だろう。彼の傍で笑い、彼の傍で泣き、時に思い切り怒りをぶつけた。その頬を撫で、鼻を甘噛みし、唇に触れる。何度でも、その肌の匂いを辿った。

 黒子をなぞっていた指を、鼻先に移す。鼻翼を撫で、鼻の穴の下に触れると、仄かな息遣いを感じた。眠っているような、規則正しい息遣い。毎朝同じ時間に、必ず髭を剃る彼の顎は滑らかで、触れた時の感触は、私のものと何ら変わりはない。顎を辿って首元へ、手探りで頸動脈を探すと、ドクン、ドクンと脈打つ太い血管を見つけた。温かい振動。そのまま下へ、手を動かす。指が生温かい液体に触れ、私は反射的に首から手を離した。ごろん、と首が地面に転がる。

 見ると、手は真っ赤だった。手だけではない。私の胸も、腰も、四肢も、全てが彼の血に染まっている。周りを見回すと、ただ、赤い平原が広がり、自分の他に誰もいなかった。空は、黒い。赤と、黒と、彼の首と、私。この空間には、それだけしか存在しない。禍々しいほどに、それらの色が混ざり合い、上と下、右と左さえわからなくなる。

 目の前の彼の首を拾い、抱き締めた。自らの胸に彼の顔を押し付け、鼻が潰れるんじゃないかというほどきつく抱く。自分の鼻を、彼の髪に沈める。汗の匂いがした。幾度となく嗅いできた、湿った塩の匂い。

 両腕で、頭を締め付ける。行かないで。どこにも、行ってしまわないで。




「行かないで」

 彼のシャツの裾を引っ張る。身支度を終え、玄関のドアノブに手をかけた彼は、怪訝そうに振り返り、少し笑った。

「すぐ戻ってくるよ」

 ……嫌。お願いだからここにいて、行ってしまわないで。私の傍から、離れないで。

 声にならない言葉が、宙に浮いて、消える。彼は私の頬に唇を寄せ、再度暖かく微笑んだ。

「じゃあ」

 緩くシャツを掴んだ指をすり抜け、彼は扉を開けた。私は、行き場を失った指を握り締め、引き攣った笑顔を作る。

「行ってらっしゃい」

 彼は答えなかった。ただいつものように、自信ありげに口角を上げ、手を振って扉を閉めた。私はもう、彼を呼び止めたりしなかった。冷えた扉を見つめ、遠ざかる彼の足音を感じる。

「……行って、らっしゃい」




 首の断面から溢れる血は、止まることなく私の指を、膝を濡らした。真っ赤に染まった手に、もう彼と私の境目がわからない。

 あの日から、彼は戻ってこない。すぐっていつ?いつ、私のところに戻ってくるの。

 例え、首だけになってもいい。例え、目を開かなくてもいい。ただ、私だけのものでいてくれるのなら。ずっと傍にいてくれるのなら。

 行かないで。私の傍にいて。

 永遠に、私から離れないで。







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首を抱く 中尾よる @katorange

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