海の上、午前の光
奈賀井 猫(kidd)
第1話(完結)
強い日差しが降り注いでいる。空気が湿気を持つようになったから、ずいぶん気候の違うところに来たと思う。目を凝らすと、空と海がまぶしく光る境目に小さな影が見えた。
ぼくは並んだ民家の屋根の上で立ち上がった。この街の民家のほとんどは貨物コンテナを改造したもので、コンテナを階段状に積み上げた屋根にはソーラーパネルとエアコンの室外機が並んでいる。
影の落ちた一層目の通路を足元に見下ろし、家々の屋根をそのまま利用した通路を走り、細い梯子や橋を飛び渡った。帰る足がどうしても早くなる。
「うるせえぞ! 静かに歩け!」
「ごめんよ!」
ご近所の怒鳴り声に反応したのか、どこかで鶏が一声鳴いた。コンテナの山を数段下り、『ソウブ商会』と書かれたドアを、勢いをつけて叩き開ける。
「師匠! 陸! 陸見えた!」
声まで大きくなってしまう。店内の涼しい空気がドアから流れ出し、師匠の声が聞こえた。
「メック、落ち着け。屋根の上走んなっつってんだろ。危ねぇぞ」
狭い店内には棚に納まらない量の機械部品とマニュアル冊子が山と積み上がり、視界を薄暗く塞いでいる。事務机に向かっていたセリアがおかえりを言ってくれた。
「おかえりなさい、メック」
「ただいま」
鈴のような声と柔らかい仕草。彼女はこの散らかしを極めた店内で最も古く、美しい。事務担当のアンドロイドだ。中性的な短い黒髪のスレンダー美人である。
「朝飯も食わねえでどこ行ってたんだよ」
師匠の声は店の奥、長いノレンの向こうから聞こえてくる。ぼくは機械部品の山の間を抜けノレンをくぐった。
すぐ左右にハンモックがひとつずつ、ここが寝室みたいなもの。ハンモックの下にも中身のわからない箱が押し込んである。もう少し進んで突き当りにテーブルと窓、簡素な調理台があり、師匠は二枚の皿の上にトーストを、その上に焼いたランチョンミートを乗せるところだった。
「陸見えたよ」
「そうかぁ」
師匠の髪は少し前にバリカンで雑に刈ったのが伸び始め、もっさりと形が崩れている。大き目のTシャツと無精ひげのせいで、起き抜けの顔が少しやつれて見えた。
師匠はトーストをランチョンミートごと二つに折ってかぶりついた。
「入港したら忙しくなるぞ。かきいれ時だ、頼むぞ丁稚」
丁稚とは大昔の極東の言葉で、住み込みで働く子供のことを指すそうだ。ここで働き始めて二年、ぼくも機械部品の種類を随分覚えたし、そろそろ弟子と呼んでくれてもいいと思う。発音も似ているし。
師匠はトーストの最後の一かけを口に押し込むと、調理台の横で歯を磨いて店のほうへ出て行った。
「じゃあ、おれは先に行くから」
ぼくは慌ててトーストの残りを食べにかかった。
朝食と身支度を終えて店に出ると、師匠は既に作業台兼商談用デスクの中に居た。店内中央奥に据えられた机は電子部品と古い資料でほとんど埋まっている。ここ『ヴィンテージ部品と機械修理の店・ソウブ商会』店主ことソウブ師匠の席だ。かつては極東で会社勤めをしていたというが、よく知らない。
「おう来たな。おもての掃除しといてくれ」
言われるより早く、ぼくはノレンの陰から掃除道具を取り出している。店の前の掃除はぼくの日課だ。
「今度はどのくらい居るのかなあ」
「上陸楽しみにしすぎだろお前」
「四週間ですよ。ヒノ港に一週間ずつ、一号艦から交代で入港します。そのあとは新コウベに向かいます」
セリアは壁際の事務机から端末のモニタをぼくに向けて、予定表を見せてくれた。白い指が机に投影されたキーボードをフリックする。セリアは立ち上がって、機械部品の山越しに師匠へ呼び掛けた。
「ソウ、アポが来ています。スワコ・ブックマークス社のミヤコシさんから」
「お客さん?」
船の外からの訪問予定。俄然興味をそそられる。ぼくはモニタへと身を乗り出し、その拍子にマニュアルの山を崩してしまった。師匠が舌打ちする。
「読み上げてくれ。あとメックはちょっと大人しくしろ」
「マニュアル全部物理で持つからじゃん。データで持てばいいのに。端末で見られるんだし」
「静かにしろって」
セリアは機械の型番を読み上げた。詳しくはわからないが、古いメーカーの名が挙がっていた。
「……のメンテナンス依頼。日本近海に停泊の際にお願いしたく、航海の予定を伺いたい由」
師匠は頭をかいた。面倒くさそうだ。
「あの野郎、メンテぐらいテメェでやれっつの」
「まあまあ。お得意様ですよ、ソウ」
セリアが優しい声で言った。ぼくはマニュアルの山を適当に積み直しておもてへ出た。
この街は船の上にある。
その昔、大きな戦争があったころ、戦火を逃れた人たちが古い軍艦にコンテナやバラックを積んで住処とした。戦時中の兵器がもとで多くの陸地が海中に沈んだとき、船にはいろんな国の人たちが逃げ込んできた。
そこでさらにコンテナを積み上げ、通路や階段を取り付けて、その上にはソーラーパネルと発電用風車、衛星通信アンテナ。設備はどんどん増えていった。
以来、壁をペイントしたり看板を取り付けたり外したり、コンテナを足したり。それを何十年と続けて、元の船の形もわからなくなって、さすらう洋上の街ができた。
それが四隻。うちの店があるのは船団の二隻目『はるみ』の甲板上、下から数えて四層目だ。
この船の甲板はもともと、飛行機が何機も離着陸できるほど広かったそうだ。たしかに全部平らにしたら……滑走路くらい何とかなるかもしれない。
ぼくは店の前の掃除を終え、モップを持ったまま海を見た。朝食の前より湿気も日差しも強くなっている。青い水平線に見える陸地の影は、やはりおぼろげにしか見えない。
店内に戻ったぼくに師匠が言う。
「そういやメック、頼んどいたリストの在庫確認。出来てっか」
師匠は火のない煙草をくわえている。
「在庫ないやつのリスト、この間送ったじゃん」
「そうだっけか」
「すでにメックがメーカーに見積もり依頼していますよ。寄港中に仕入れ可能です」
セリアが横で付け加えてくれた。
「悪ぃ悪ぃ。助かった」
師匠は軽く頭をかいて、また部品の山の向こうに引っ込んだ。ライターの音がしたので、ぼくは換気扇のスイッチを引いた。
* * *
さて、遠くに見えていた陸地は数日でずいぶん近くなって、まず一隻目『まくはり』がヒノ港に入港した。今日から四週間、街は慌ただしくなる。師匠の言葉を借りるなら、『かき入れどき』だ。
船尾のゲートからはボートで乗り付けた陸の人たちが入ってくる。目当ての店がある船が港に入るのを待ちきれない人たちだ。
第一層──コンテナの街の一番下、船の甲板にあたる部分──のメインストリートがお客で溢れかえる。そこから狭い階段や梯子を登って、上の層の店まで足を運ぶお客もいる。コンテナの街の上から下まで、普段は見ない人たちが行ったり来たりしている。
来週はこの船が入港する。次の航海のための物資がクレーンで積み込まれ、港のタラップからはもっとたくさんの人たちが乗り込んでくるだろう。
ミヤコシという男も少し気の早いタイプのお客だった。気温が上がっていく午前の光の中、細い鉄の階段を上って来たこの客は、うちの店に入った時点で息を切らしていた。
ミヤコシは淡い鼠色のスーツを着て、左手に銀色のアタッシェケースを下げていた。それから、右肩に担いだ布カバンが、いかにも重そうに膨らんでいた。
この地域はいま雨季の終わりがけで、太陽は焙るような日差しを放ち、湿った空気は室外機だらけの街をまるごと茹でにかかっているようだった。スーツに大荷物では、暑くてたまらないだろう。
「おお、冷房……」
ミヤコシの入店第一声はゾンビが生き返ったような声だった。
「あ、ええと、いらっしゃいませ」
ぼくが取り敢えず挨拶すると、師匠がくわえ煙草で顔を出した。
「来たかミヤコシ。相変わらず堅苦しい恰好しやがって」
ミヤコシはぼくを見て師匠に言った。
「ソウブ先輩、弟子を取ったんですか?」
ぼくと師匠は同時に答えた。
「そうです」
「うんにゃ、ただの丁稚よ」
ミヤコシは、ほう、とぼくと師匠の顔を見比べてから、セリアにも挨拶した。
「セリアも久しぶり」
「三年十か月ぶりです、ミヤコシさん」
ミヤコシは大荷物を担いだまま、電子部品とマニュアルの山際を器用にすり抜け、アタッシェケースと布カバンを商談用デスクに置いた。
「ずいぶん大事にしてたみてえじゃん」
師匠はアタッシェケースを両手で立てて眺めた。ケース外装にはいくつか小さい傷があるだけで、目立った汚れも無いようだ。
「表面だけクリーナーでちょっと」
ミヤコシは続いて布カバンのジッパーを三分の一ほど開けた。その前にぼくのほうをちらと見た気がする。
「あと、こちら」
おおう、と師匠が小さく声を上げた。師匠は速やかに布カバンのジッパーを閉じ、カバンをカウンターの中に引き込んだ。
ジッパーが閉じる直前に、薄い冊子の束がちらりと見えた。表紙には旧世紀のスイムスーツを着た女性のイラストが描いてあったように思う。
カウンターの下に何かを押し込む音がして、空のカバンがミヤコシのもとに戻ってきた。
「おれとしちゃあ嬉しいんだがよ、大丈夫か? 横流しじゃねえだろうな?」
「私的なコレクションですよ、ご安心ください。トヨシマ海域でサルベージした際の残りです」
「トヨシマか。まだあったんだな。なんもかんも持ってかれた後だと思ってた」
「割とニッチな内容だから残ったんじゃないですかね」
「お前厳しいね?」
二人の大人はウヒヒと声をひそめて笑った。
師匠は煙草を灰皿に押し付けると、アタッシェケースをカウンターの中央に据える。
「じゃあ、見せてもらうとするかね。メック、そのお客さんを観光案内にでも──」
「お弟子さんも見てたほうが勉強になりません?」
ミヤコシのひと声に師匠は露骨に顔をしかめた。
「弟子じゃねえっての」
それでも師匠はぼくらを追い払うことをせず、アタッシェケースを開けた。中身は内蓋のようなもので封じられており、中央に鳥を図案化したマークが描かれている。
「ん」
師匠はアタッシェケースを反転させ、ミヤコシに向けた。ミヤコシは無言でマークの上に手を乗せた。鳥のマークが鈍く光り、内蓋のロックが外れた。
「お願いします」
ミヤコシはアタッシェケースの向きを師匠に戻した。
アタッシェケースの中身はぼくが見たことのない機械だった。アタッシェケースを筐体として、様々な部品が収まっている。師匠は無言で筐体の隅のスイッチを切り替えた。
筐体の中には細いアーム状の部品が何本か折りたたまれており、小さなモーターやレーザー発光器のようなものがアームにつながっていた。その奥には複数の電子基板が重なるように配置されている。
師匠は顎に手を当ててアーム上の部品を見つめ、続いてカウンターの下から何か取り出した。タッパーに基盤とLEDを収め、脇に穴をあけてコネクタを生やした、いかにもありあわせの自作デバイスだ。
師匠は有線通信のケーブルで、アタッシェケースの基盤とタッパー、カウンターわきの古いワークステーションをつないだ。
続いてワークステーションのキーボードからなにか入力する。それに合わせて、アームやモーターが動いたり、タッパーの中でランプが明滅したりする。筐体内の機構を一つ一つテストしているようだ。
師匠はいつになく厳しく口を引き結んで、しかし僅かに口角を挙げて入力を続ける。視線は筐体とワークステーションのモニタとを忙しく往復する。前に師匠がこんな顔をしたのは、ヨーロッパで手に入れた古いデバイスを修理して、ファームを改造したものに書き換えた時だったか。
師匠がふいに顔を上げた。
「おいミヤコシ。お前これ地面に落としたりした?」
「あー、私じゃないけどたぶん落としたり叩いたりしたと思います。取り返せてよかった」
「取り返した、って……用心しろよ。ったく。お前にしか起動できねえんだぞ」
師匠は独り言のように言いながら再びテスト作業に没頭していった。
ミヤコシが小声でぼくに聞いてきた。
「いま何やってるかわかる?」
「たぶんタッパーに入ってる基板で、部品と機能ごとにテストをしているんだと思う。ここからだと入力してるコマンドがわかんないから、詳しいことはわかんないけど……後ろに回ったら師匠怒るし」
ミヤコシはふむ、と腕組みして師匠の手元をのぞき込んでいた。
しばらく経って、師匠は顔を上げずに言った。
「あー、お前ら。やっぱ気ィ散るから外行ってこい」
「ええー!」
「そんなんで人材が育つと思ってるんですか先輩」
「うるせえ! 出ろ!」
結局、ぼくとミヤコシは涼しい店を追い出されたのだった。
セリアが『いってらっしゃい』と言う声を背中で聞きながら、ぼくらは真昼の光の下に出た。全身を包む熱にミヤコシがうめいた。
* * *
ぼくとミヤコシは第一層のメインストリートを、他愛ないことを話しながらぶらついた。
「メックくん、いつからあの店に?」
「二年前かな」
「この街の生まれなの?」
「ううん。もっと北のほうで船に乗ったんだ」
「それはすごいな。新しい住人を乗せることはめったにないって聞いてたんだけど。家とか積める食糧とかも限度があるからって」
「うーん、それは……」
ミヤコシにとっては新顔の店員が珍しいらしく、ぼくにいろいろなことを聞いてくる。
ぼくは歩きながら身の上話をすることになった。
「密航!?」
「違うよ。食べ物と屋根を一晩借りようと思ったら出航しちゃったんだよ。密航じゃないからね。そこ大事なところだからね」
「あー、うん、そうだね……」
ミヤコシの目が泳いでいる。
「それで街の人たちに見つかって、次の港で降ろそうって話になったんだけど、その場に師匠がいて。じゃあうちで雇うって」
ミヤコシは数度頷いてから、思い出したようにぼくに聞いた。
「先ぱ……あの人、どう? ちゃんと面倒見てくれる?」
「いい人だよ。ちゃんとご飯食べさせてくれるし。マシンには触らせてくれないけど」
コンテナの谷間に作られた通りはなかなかの暑さだ。真昼の太陽を浴びたコンテナが左右に続き、並んで熱を放っている。コンテナの壁面には色も太さも様々な配管がのたうっていて、これまた熱を放っている。それでも街のいちばん上よりは幾らかマシだろう。
この暑さの中でも、通りに並ぶ店の軒先では売り買いをする声が威勢良く響いている。
陸の商人たち、エンジニア崩れ、あるいは好事家。どこの港でも、洋上の街が遠方より運んだ珍しい品を買おうとする様々な身なりのお客が詰めかける。
今回も通りは人でいっぱいだ。ただ、この海域のお客は不思議なことに、ほとんどの人がスーツ姿だった。ミヤコシのように。
普段からパーカーとチノで過ごすぼくとしては、スーツにネクタイ姿のミヤコシは見ているだけで暑そうだ。
ミヤコシはネクタイを緩め、スーツの上着を脱いで頭にかぶった。簡易のフードで熱を防いでいるようだ。
ミヤコシはあちこちの店を覗き込む。他国から文字通り流れてきた骨董レベルのハードウエア。あるいは怪しげな通信機器。ふらりと立ち寄った店でそういうものを見ては、またふらりと別の店へ行く。
ミヤコシはこの手のものには詳しくないようだった。
「なんだろうね、この基盤。ずいぶん古そうだ」
「でっかいヒートパイプがついてるから、結構重い処理やるやつだよね。画像処理系のボードかも」
「あ、こっちのは知ってる。昔の記録メディアの読み出し機器だ。中身は……入ってないや」
目を引いたものを珍しげに見て、店の者に捕まる前に器用に出ていく。冷やかしだ。
やがてぼくらはメインストリートから路地に入った。コンテナ間の通路は狭くなり、正午の太陽の光に真上から照らされている。ほかの時間帯なら陰になることも多いはずだが、それも船の向き次第だ。
路地にはぼくらのほかに人の姿はなく、店の入り口は分厚い幌を下ろしている。一見閉店しているようだが、幌の隙間からは冷房のぬるい風が漏れ出ていた。ちゃんと営業しているのだ。
「ああ、ここだここだ」
ミヤコシは弾んだ声を上げた。この辺りは街で最も暇なエリアのはずだが。
「メック君、ちょっと時間をかけて見ていきたいんだけど、いいかな?」
ぼくは無言でうなずいた。ミヤコシはすぐに近くの店の幌の間に体を滑り込ませた。ぼくも後に続いた。
時間が止まったような店だった。
狭く暗い店内は静まりかえって、ツンと埃っぽいにおいがした。左右の壁と中央には木製の棚が置かれている。中央手前には低めの台、金属製のボロいワゴン。そのどれもが古い書物で埋め尽くされている。
うちの店に積まれたマニュアルのように針金や樹脂の小さい輪で閉じた本ではなく、厚みがあり、布や紙を張った背表紙を持っている。
店の奥に小さいレジカウンターがあり、老人が一人座っていた。おそらくここの店主だろう。
「すいません、ちょっと見せて貰ってもいいですか?」
ミヤコシは積極的に店主に声をかけ話し込む。店にある本を手に取り、手早くページを繰って中身を検める。
「これ、どこの港で入荷したやつです? あと、向こうのやつも見せてください」
「これとこれと、あ、これも」
スピーディーに現金が支払われ、ミヤコシは買った本を布カバンにどんどん放り込んでいく。
買い物を終えた後は隣の店に入る。隣の店もまた同じ作りで、店主の顔の他には全く違いがないようにさえ見える。
ミヤコシの行動もまた同じだ。その横顔は、仕入れた電子機器の動作確認をする師匠に少し似ていた。
途中一軒だけ、『未成年は外で待ってて』と、ぼくだけ軒先で待たされた店があった。それ以外は通りの端まで十数軒、大体同じ調子だ。
「紙の本ばっかりそんなに買ってどうすんの」
いつしか日は西に傾き、通りには影が差し始めた。コンテナの隙間から見える水平線がオレンジ色に輝いている。布カバンはミヤコシが店に現れた時より膨れている。
「あの人から聞いていなかったのかい? 電子部品はともかく、本なら多少の区別はつくつもりだ。いちおう、本の仕事をしてるからね」
なにをおっしゃるとばかりにミヤコシは笑った。
「君の師匠だって、同じ仕事をしてたんだけどねえ」
「師匠がなんでマニュアルを物理で取っときたがるのか判った気がした」
「そりゃマニュアルは物理じゃないと困るよ、データだけじゃ電力がないと読めないじゃないか。普段からちゃんと記憶しとけ、困ったら紙だ。壊れた機械がマニュアル表示できると思うな──」
「言うことまで一緒じゃん」
「口癖だろう?」
ミヤコシは声をあげて笑った。ぼくとミヤコシは細い鉄の階段を辿ってうちの店へ戻るところだ。
コンテナの層をしばらく登ったところで、ミヤコシは一度布カバンを降ろした。
「ご、ごめん、ちょっと、待って」
息が上がっている。
「電子版を買えばよかったんじゃないの、ホント」
「いや、今日買った、やつ、電子版が、なくて……ごめん、休憩……」
ミヤコシはそのまま途中の階層の通路で座り込んでしまった。息も絶え絶えで、この人は今朝どうやって店に来たのか疑問に感じるほどだ。
ぼくとミヤコシは西日を浴びながらその場に座って休んだ。空気にいまだ暑さは残っているが、心地よい風が吹き始めている。ぼくはふとミヤコシに聞いてみた。
「師匠って昔何やってたの?」
「ん? 先輩?」
「つき合い長いみたいだから」
「ああ、そうか、えーと。メック君は本を読むとき、紙と電子、どっちが多い?」
「電子だね。ここでもネットワークは繋がるし。VR機器は手が出ないけど」
ぼくはパーカーのポケットから読書用端末を取り出した。この国の機器メーカー、スワコ社の製品だ。店の給料を貯めて買った。
戦時中に多くの陸地が海中に沈んだとき、それまで世界中にあった紙の本と印刷機械は道連れになった。紙の材料の入手先も失い、流通経路もずたずたになった。すぐに復帰できたのは、電力を確保できた地域の通信ネットワークだけだった。
それから時が経ち、今では本といえばネットワークで入手して、端末で読む物となった。電子化したことにより、本には映像と音がつくようになって、それが今では当たり前の姿になった。
「先輩や私がいた会社は端末に配信する本を作ってたんだ。といっても、内容をゼロから作ってるわけじゃなくて。まだ残ってる紙の本を探してきて、そこからデータを取って配信する本に加工するんだけど」
「ふうん……」
「でも今どき、紙の本なんてその辺にあるわけじゃないから、探しに行くわけ。都市の跡地とか、海の中とか」
「海の中?」
水中にある紙メディアなんて読めなくなっていそうなものだけれど。
「そう、海。小型の潜水艇で、昔の倉庫とかをさ。二度と乗りたくないな。会社がなくなったから、もう乗らなくていいんだけど」
「つぶれたの」
「もっと大きな会社に吸収合併されたんだよ。それがスワコ。そのころ、先輩は仕事で使うための機械を開発中だったんだけど、その計画もなくなった。先輩は行方不明になって、連絡がきたと思ったら船に乗ってた。私のほうはスワコで、やっぱり本の配信部門にいる」
ミヤコシは夕日に染まる海面を見ながら話をした。
「いまは自分で探しに行くことも随分減ったけどね。だから、海にも潜らないよ」
ぼくの困惑が顔に出ていたのだろう。ミヤコシは肩をすくめた。
「そうだ、きみはどういう本読んでるの」
参考のために見せてほしいというミヤコシのために、ぼくは端末のスイッチを入れた。モニタ部分に現在の蔵書リストが投影される。ミヤコシは顎に手を当ててリストを覗き込んだ。
「技術書が多いな。これはどこのレーベル?」
「師匠が作ったやつだよ。うちで働くならこの辺から始めろって、持ってる本からいくつか」
「あの人が? へぇ……」
日没直後の青紫色の空の下、ミヤコシは顎に手を当てたまま蔵書リストを眺めていた。
* * *
「ただいまぁ」
「おう、観光どうだったよ」
師匠は店の軒先で煙草を吸っていた。店内を覗くと、作業デスク上のアタッシェケースは蓋を開けたままになっている。
「そちらはどうです?」
師匠はミヤコシの質問に答える代わりに煙を吐いた。
「飯行こうぜ、飯。三層目にインド系の店があってよ、結構旨いんだ」
コンテナの谷間では通りを照らす灯りが煌々としている。通路部分に椅子とテーブルを出した店先で、ぼくらはその灯りを見下ろしながら魚のカレーを食べた。
「で、どうする? 修理、たぶん明日の昼までかかんだけど。ミヤコシお前いったん帰る?」
米をモグモグと頬張りながら師匠が言う。
「いえ、一泊しますよ」
大したことでもないようにミヤコシが返す。当然、師匠がさらに尋ねる。宿泊施設なんかこの船にはない。
「宿どうすんだよ」
「前回同様、お店の床にゴロ寝でいいんですけど。なんならセリアの膝枕でも」
「それはやめてくれ」
「冗談ですよ。先輩のお気に入りに手ぇ出しませんって。それに、ニコイチだったの思い出しました。男性型との」
「お前さあ、未成年の前でそういう話すんなや。おれァいい大人でありてえんだ」
師匠は水のボトルを呷り、テーブルにコツンと置いた。
「そういえば、さっきぼくだけ入れない本屋があって、店の前で待ってた」
ぼくの言葉で師匠が眉間にしわを寄せた。
「ミヤコシィ!」
「古本の店はくまなくリサーチしたいんですよ。今朝のお土産だって、日々のリサーチの成果ですよ」
師匠は舌打ちした。ミヤコシはすました顔でカレーを食べ終え、師匠に言った。
「ところで先輩。どうです、ここでの暮らし」
「悪くねぇよ。不便は多いが、なんかこう、雑多な感じが、楽だ。カレーも旨いしな」
「そうですか」
ミヤコシは師匠の言葉に口元だけで微笑んだ。
「戻ってきません? 日本に」
「なんだよ急に」
「スワコに来いとまでは言いませんけど」
「本屋に戻れってか。今日の本題はこっちかよ」
師匠はぼくの顔をちらと見て、まじめな顔でミヤコシに言った。
「悪いが、それはできん。メックを一人前になるまで面倒見る責任がある」
「陸に上がれば学校教育だって」
「そうじゃねえよ、ミヤコシ。お前にあのケース渡したの、なぜだと思ってる。おれは墓荒らしに疲れたんだ。後輩に押し付けてずらかったのさ」
師匠は煙草に火をつけてくわえ、長々と煙を吐いた。
「先輩がそういう言い方するんですか。たしかに墓荒らしで合ってますけど、でも」
ミヤコシの声はわずかに震えていた。師匠は構わず続ける。
「ここも同じようなもんだ。その昔、各国の統制を避けるために公海上で物理メディアを売ったのがこの街の始まりだ。それがそのまま、戦火からの避難先になって、港を回りながら生計を立てていくうちに、戦前のメディアと骨董パーツの泥棒市になった。この街は、旧い資産を拾い集めることで成り立ってる。つまりさ……似た者同士、察してくれや、本屋さんよ」
ぼくは同じテーブルでミヤコシと師匠の顔を交互に見るしかなかった。こんなにまじめな顔で喋る師匠をぼくは初めて見た。ミヤコシは下を向いてしばらく黙っていた。
「師匠」
「お前は黙ってろ」
師匠は早口でぼくに言った。ミヤコシの顔は下を向いたままだ。ミヤコシはそのままぽつぽつと話し始めた。
「本来の意味での本屋なんてもういません。新しい本が出ないんですから。かつて人類は、苦しい時こそ様々なものを創り出してしてきたはずなのに。どこのレーベルも、人の痕跡を探して物理メディアからデータのサルベージをするばかりだ」
「かの大戦争以後の世界は人類に過酷すぎる、ってか。衣食住どころか、足を乗せる地面もないからな。読書どころじゃねえって言われりゃそれまでだ。需要が出てきただけでも御の字じゃねえの」
「私が欲しいのは新作です。古い世界への望郷ではなく。それを作るために、私が知る限りいちばん信頼できる技術者が欲しいんです。ここも墓場だって言うなら、先輩、私と──」
師匠は煙草をもう一口吸った。
「言ったろう。おれはメックの手に職を──今後の世界を作っていけるようにする責任がある。墓場の土にだって草は生えるし、花だって咲くんだぜ、たぶんな」
ミヤコシは顔を上げた。師匠はニヤつきながらぼくの背中を叩いた。
「長い目で見ろよ、本屋。実りを得るならまずは土壌からだぜ。幸い、ここは練習用のパーツにゃこと欠かねえんだ」
やがて夜は更け、コンテナの街の灯りもひときわ明るく見え始めたころ、ぼくらは店に帰ってきた。セリアがぼくたちにおかえりを言った。
「ただいま。セリア、留守番お疲れ」
「おかえりなさい」
「今日はこれで閉店だ。おやすみ」
師匠の言葉でセリアはスリープモードに移行した。
師匠はカウンターの下から酒とグラスを出した。ミヤコシは部品の山から古いコンピュータの筐体を引きずり出し、それを椅子代わりにして師匠の作業デスクの向かいに座った。
「お前もだ、メック。子供は寝る時間だ」
「師匠とミヤコシさんは?」
「大人にゃ二次会ってのがあるんだよ」
師匠は酒瓶を片手に、アタッシェケースの前に座ってワークステーションのモニタの電源を入れた。
ぼくは師匠に抗議したが、結局ノレンの奥へと追いやられてしまった。
* * *
翌朝、ぼくが店に出ると師匠はグラスを握ったままカウンターに突っ伏していたし、ミヤコシは本当に床で寝ていた。師匠の机にはあのアタッシェケースが開いたままになっている。ミヤコシの周りには昨日買った紙の本が積み上げられ、このまま崩れたら顔を直撃しそうだ。
セリアが朝の挨拶をしてくれた。
「メック、おはようございます」
「おはよう」
ぼくは掃除道具をつかんで、床で眠るミヤコシをそっとまたいだ。店の前の掃除はぼくの仕事だ。店の扉を開けると、その光で師匠が目を覚ました。
「うう、水……」
「師匠、おはよう」
「おう、おはよう……ミヤコシ、起きろ」
師匠は消しゴムをミヤコシの頭に投げつけた。お客なのに扱いがひどい。
「なんですか、もう……」
ミヤコシは消しゴムが当たった箇所に手を当てて体を起こした。目が開いてない。
「朝」
「はい」
二人が目を覚ましたのを見てからぼくは掃除に出た。あの様子ではいつも通りの時間には店を開けられまい。そう思ってのんびり海を眺める。少し遠くには、船団の一隻目が港にいるのが見えた。朝の空気はまぶしく、すでに暑くなり始めている。
掃除を終えて戻ってみると、師匠は寝起きの顔のまま、あのアタッシェケースを修理していた。ミヤコシは昨夜椅子にしていた筐体の上にネクタイも上着も放り出し、床に座って買いこんだ本を検分している。妙な緊張感が店内を支配していた。
ぼくはセリアの事務机の隣で電子部品メーカーからの見積書を確認することにした。なるべく音を立てないようにして数時間が過ぎた。
「できた」
「できましたか」
師匠の声で、ミヤコシは本を持ったまま立ち上がった。
「なんか一冊載せてみ」
師匠が言うより早く、ミヤコシは筐体の中に手を伸ばす。筐体の中から小さなアームを引き出し、台座のように組み立てた。それから残りのアームを台座の回りに立て、本を載せた。
ミヤコシは台座の端の小さなスイッチを切り替えた。
微かなモーター音とともにアームが動き出す。アーム先端のノズルが小刻みに空気を噴きだし、吹き上げられたページをもう一本のアームがめくる。三本目のアームが赤いレーザー光でページ全体を撫でた。
もう一度空気が噴射され、アームが動き、ページをめくる。
「データ来てますか」
ミヤコシは短く訊いた。
「スキャン画像は来た。乱れはなし。いま解析中だ」
師匠はワークステーションのモニタを睨んで答える。
しばしの沈黙の後、師匠が重々しく口を開いた。
「『それはこの宿の本陣に当る、中村と云ふ旧家の庭だつた』」
「OKです」
「続き行くぞ。『庭は御維新後十年ばかりの間は、どうにか旧態を保つてゐた。瓢箪なりの池も澄んでゐれば、築山の松の枝もしだれてゐた。』」
「OKです」
二人は数ページぶんの本の内容と取得データの一致を確認し、顔を見合わせて頷いた。
「安定して動いてるようだな。もっとテストしたいところだが、これで完了だ」
師匠は台座から本を取り上げ、ミヤコシに返した。アタッシェケースの蓋を閉め、無言でミヤコシに差し出す。機械の修理が終わったのだ。
「師匠、何なのこの機械?」
「携帯型の、非破壊高精度データ抽出装置。紙をデータ化する機械を、持ち歩けるようにしたやつだな」
師匠は椅子に座りなおして、深々と息を吐いた。ミヤコシはアタッシェケースを両手で受け取った。
「この人が本屋だったころの最後の仕事だよ。会社の全ての調査員に持たせる予定だったらしいんだけど」
「試作段階で会社無くなっちまったからな」
「大きいところに喰われただけですよ」
ミヤコシはアタッシェケースを左手に提げ、重さを確かめるように軽くゆすった。師匠は煙草をくわえて火をつけた。
「そういえば、思い出しました。このケースを受け取った時のこと。『できるだけ多くの本を読み、そして誰かに読ませろ。ひとの心はそうやってできる』って、先輩が」
「おれそんなこと言ったっけ」
「まあ、忘れてもいいですよ。先輩も大変みたいですから」
ミヤコシは笑った。
「メック君の端末、見せてもらいましたからね。この試作機、本当はもう一台あるんでしょう?」
「あるよ」
ミヤコシはやっぱり、とつぶやいた。
「メック君、この人はだらしないが、私よりはちゃんとした人だ。無茶苦茶を言うこともあるかもしれないが、できれば付いていってほしい」
ミヤコシの言葉に、ぼくは無言で頷いた。師匠がちゃんとした人だってことぐらい、二年前にこの店に連れてこられた時から解っている。
「セリア、先輩のマネジメント、頼んだよ」
「承りました」
ミヤコシは一旦アタッシェケースを床に置き、ネクタイと上着を素早く身に着けた。
「先輩、あとで修理の請求書送ってください」
「おう」
「じゃあ、お世話になりました」
ミヤコシは左手にアタッシェケースを持ち、右肩に本の詰まった布カバンを担いだ。そうして店に来た時と同じように眩しい午前の光の中へと出て行った。
〈終〉
引用:「庭」芥川龍之介
海の上、午前の光 奈賀井 猫(kidd) @kidd_mmm
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