世界で一番孤独なウサギ

粘膜王女三世

世界で一番孤独なウサギ

 ウサギは脚が速いから、カメのことを追い抜いてびゅんびゅん遠くへ走り去っていく。しかし先にゴールにたどり着けるのは、眠ることなく走り続けたウサギに限る。涼しそうな木の陰だとか、心地良さそうな芝生の上とか、そう言った誘惑を振り切ってストイックに走り続けるウサギだけが、誰よりも先にゴールテープを切ることができる。

 だがウサギは自分の脚が速いことを知っているだけに驕りがあって、それが故にしばしば慢心し、ゴールの手前で眠りこけるのだという。そうしている隙に、健気に歩き続けた脚の遅いカメに、しばしば追い抜かされるのだという。

 本当にそんなことが起こるのだろうか?

 『ウサギのカメ』の話を聞く度に、私は疑問を感じずにはいられなかった。だってウサギがそう簡単に怠けるとは思えない。生れ付き脚が速く、その速さを自慢げに誇示し人を見下すような奴ならば、そもそも走るのが好きじゃなくちゃおかしい。ウサギにとって走ることは風を切る爽快感で、のろまな奴を引き離し前へ前へと突き進む優越感で、誰よりも先にゴールテープに飛び込む征服感だ。そんな心地の良いことを前にして、誰が木陰でだらだらと横たわるというのだろうか?

 「いや別にウサギだって走ったら疲れるのは一緒だからね。怠けるのが楽なのもさ。ソロバンは才能のある人を過大評価してるだけだし、そもそも走るのが得意かってことと走るのが好きかってのは、別問題だから」

 なんていうのは同級生のマキジャクで、そいつは中学まで私が通っていた剣道場で一番強い選手だった。というか中学生の女の子で一番剣道が強かった。中学二年生の時点で既に、全国大会では他を寄せ付けない強さで勝ち進み、見事日本一に輝いていた。

 そのマキジャクは言う。

 「そもそも先にゴールすることが『征服感』って何なのさ。そりゃあ実戦には相手がいるし、そいつの小手とか胴とか引っ叩けるのは楽しいっちゃ楽しいけど、そこだけ延々とやってられる訳じゃないじゃん? 日頃の練習は自分との戦いだっていうし、それは別に『風を切って走る爽快感』とか『相手を抜き離す優越感』とかじゃないからね? 地味ぃな練習のしんどさはソロバンが感じてるのと一緒だよ。わたしだって怠けてたいし楽したいし、剣道なんてやめたいんだってば」

 「じゃあなんでやめないのさ?」

 「お婆ちゃんにやらされるからに決まってるでしょ!」

 そうなのだ。

 マキジャクは童話にしか存在しない『怠けようとするウサギ』で、そもそも走ることが嫌いなウサギだった。ただ道場の師範である祖母に強引に竹刀を持たされて、強引に練習をさせられ続け、無理矢理強くさせられただけの奴で、そんな奴のまま全国優勝を果たしてしまっていた。

 マキジャクは幼稚園の頃から多くの時間を道場での稽古に費やしていたが、それでもこいつの情熱は何一つ剣道に向けられていなかった。こいつが関心を向けるのは、コンビニでたまに買って貰えるポケモンパンからどんなシールが出るかということと、休憩時間に行われるDSのポケモンバトルで、下級生相手にどんな戦略を取るかということだった。

 私がマキジャクに対して持つ一番の印象は、その強さではなく、祖母に睨まれて嫌そうに泣きながら素振りをする、みっともない姿だった。道場には近所の小中学校から色んな生徒が詰めかけていたが、マキジャクは強さの割にはあまり尊敬されていなかった。

 だいたいこいつのする剣道には丸っきり華やかさも気高さも品もない。道場でただ一人だけ下段に構え、怯えたいじめられっ子みたいに相手の顔色だけを見て防御に徹し、焦れた相手が隙を見せたら申し訳なさそうに小手を打って終わりにする。そうして勝っても、怒られないことに安堵はしても、嬉しそうな表情は何一つ見せない。

 そんなんだから、中学二年の全国大会が終わった数か月後、病に伏していた師範である祖母が亡くなった時は、通夜にやって来た私達にマキジャクは心底から嬉しそうな表情を見せた。

 「これでやっと剣道がやめられるっ!」

 マキジャクは小躍りでもせんばかりの様子だった。そして道場の幼馴染である私とモノサシを近所の公園に連れて行き、初めて見せる気前の良さで自販機のコーラを三本買った。そしてその一本ずつを私達に手渡し、これまでに発したこともないような明るい声でこう言った。

 「お祖母ちゃんの死と、これからのわたしの自由に乾杯!」

 そう言ってコーラを天へと突きつけたマキジャクの顔面を、モノサシが全力で殴打した。

 マキジャクは鼻血を出しながらその場を吹っ飛んで、シーソーの角に後頭部を痛打した。そして顔面蒼白になってモノサシの顔を見上げると、アタマを抱えて呻くような声で言った。

 「たすけて」

 モノサシは表情を殺してマキジャクに襲い掛かった。多分モノサシはマキジャクのことを殺すつもりだった。防御と逃走に徹するマキジャクに、モノサシは一切の容赦をせずに襲い掛かり、顔を殴打し顎の骨を折り、前歯二本を砕いた。

 そんなモノサシを命懸けで止め、マキジャクを逃がしたあの夜のことを、私は正直、思い出したくもない。


 モノサシは名門と呼ばれる我が道場でも二番目に強い女子で、もしかしたら全国でも二番目に強い中学生だった。少なくともマキジャクは、『わたし以外だとモノサシが一番強い』と断言していた。

 「面打ちがとにかく速いし、無茶苦茶重たいんだよ。良く上級生の竹刀吹き飛ばしたりしてるでしょ? 正直あんなに派手にやる必要ないし隙もあるんだけど、初見の人とかはやっぱりビックリするから。良く見て先に手元をパチンとやれば勝てるって気付けないまま、『すごい』って印象のままやられちゃうんだよね」

 モノサシの剣道には華があったし、モノサシ自身にも華があった。上背があり鼻が高く、切れ長の目はやや三白眼気味だったが、その視線は鋭く凄みがあった。上級生とのトラブルも折衝できる度胸があったし、鷹揚な性格で目下の面倒見も良かった。誰よりも練習熱心な努力家で、その両手にはいつも潰れた血豆があった。

 当然、人気はある。モノサシの周りにはいつも誰かしら人がいた。対するマキジャクはいつも一人でゲーム機を抱え込んでいた。マキジャクはマキジャクで綺麗な子ではあったけれど、弱気そうな黒目がちの垂れ目を俯けて猫背で歩くその姿には、モノサシのような気位に欠けていた。

 だがそんなマキジャクのことも、モノサシは普通に認めていたし尊敬もしていた。倒すべき目標に定め、いつかは越えてやろうと息巻いていた。

 「あんた良くマキジャクにキレないよね」

 ある時わたしがモノサシに言うと、モノサシは小さく鼻を鳴らしてこう答えた。

 「キレたらあたしがダサいだけだろ?」

 「まあね。でも内心面白くないでしょ?」

 「あいつはあれで、まあまあ大した奴だと思うぞ?」

 「そう?」

 「ああ。意欲のない、人にやらされてるだけのことで、あそこまで力を出せるのは立派だろ。根は誠実ってことなんだろうな。それに、どんなに強くなって結果を出そうと、周りから持て囃されようと、嫌いなものを嫌いだと言い続けられるのは、自分を強く持ってる証拠だと思う。ひ弱にも見えるけど、芯は強いっていうか、頑固なんだな」

 モノサシはマキジャクに優しかったし、上級生にいじめられないよう庇ってやってもいた。マキジャクもモノサシには懐いていて、不器用に媚びるところもあった。同じ道場の幼馴染として、概ね円満な関係が出来ていた。

 それでもモノサシは尊敬していた師範の死を踏みにじったマキジャクを許さなかったし、マキジャクもまた、自分の顎と前歯を折ったモノサシから背を向け、口を利かなくなっていた。

 マキジャクは病院のベッドで稽古のない日々を堪能しつつ、綺麗な顔を元通りにした後、本当に剣道をやめてしまった。そして中三の夏に挨拶もないまま転校して、わたし達の前から姿を消した。

 モノサシはというと家裁送致を免れた後、師範の変わった道場に通い続け、血が滲むほど稽古に打ち込んで中三の時に念願の全国優勝を果たした。

 皆がモノサシを祝福した。あれだけ練習していたのだから報われて欲しいのだという気持ちが、モノサシの周囲の人々にはあった。誰からも応援されて然るべき奴だったと思うし、それに応えるだけの才能もあった。

 しかし当のモノサシに心からの笑顔はなかった。

 「優勝出来て嬉しいんだけどさ。マキジャクの奴に勝ち逃げされたのは、やっぱ癪だよ」

 祝勝会の片付けを終えた後、私と二人きりになった時、モノサシは漏らすようにそう打ち明けた。

 「そんなの気にすることないよ。だってあいつもう剣道やってないんでしょ? 勝ち逃げとかじゃないって。勝つとか負けるとか、そう言うの以前の問題じゃん」

 「理屈の上ではな。でも気持ちの部分ではやっぱりどうしても、もやもやする」

 「あんた高校でも剣道やるんでしょ? だったらそこでマキジャクより強い奴になんていくらでも会うよ。そういうのと戦って勝ったり負けたりしてる内にさ、土俵降りたバカへの気持ちなんて、なくなってくれると思うよ」

 私がそう言うと、モノサシは腕と足を組んで首を捻った後、悩まし気な顔のままこう言った。

 「それが嫌なんだよ」


 中三の春休み。何かを終えて新たな何かを始める季節。

 高校への入学を控えたモノサシの脚に、骨肉腫が見付かった。

 脚を切断しなければならないという。でなければ腫瘍はリンパ節に転移して全身を駆け巡り、やがて重要な内臓を脅かしてモノサシを死に至らせる。

 ふとした脚の違和感から診察を受けた際、それはモノサシの身体から見付かった。その場で緊急入院となり家族が駆けつけ、医師からの説明を聞いて膝を折って泣き崩れた。

 泣きじゃくり嘆く両親の姿を見て、モノサシはただ夢でも見ているような気持ちで、呆然としていたという。そりゃそうだろう。だってモノサシはつい数時間前まで元気に素振りや足運びの練習をしていたのだ。そういう平凡で正常な世界があっさりと砕け散り、片脚が消えてなくなるという事実に全てが暗転するということを、モノサシはすぐには理解できなかったのだ。

 モノサシは手術をすることを承諾しなかった。モノサシの両親は嘆き苦しみながらも、娘の命を救う為、色々な方法でモノサシに手術を受けるように説得を図った。私もそれに加わった。私はモノサシの親友だったし、モノサシが死ぬのは嫌だったのだ。

 「あんたさ。手術受けなよ」

 病室でわたしはモノサシに言った。何の説得にもなってない単刀直入な物言いだったが、他にどう言えば良いか分からなかった。

 「黙れ。脚を切られるのはおまえじゃねぇ癖に」

 ふてくされたような顔のモノサシが布団から顔を出した。髪を縛っていないモノサシの顔には覇気がなく、年相応を通り越して、遥かに幼い子供のようだった。

 「あんた大した奴なんだからさ。義足になろうとなんだろうと、命あったら剣道で一番になるより立派なこといくらでもできるよ。手術受けなよ。そしてちゃんと生き延びるんだ」

 「黙れボケっ。自分の脚でもない癖に! 帰れよ! つか死ね! 死んでいなくなれ!」

 らしくもなく甘ったれてやがって。でもしょうがない。大事な脚を切られるとなったら誰だってこうなる。私だってこうなる。

 こいつの怒りも苛立ちも哀しみも、全部を受け止め許容した上で、私はこいつを脚を切る決断に導かなければならない。その方法を私は考えなくちゃいけないし、考えたことを実行しなければならないのだ。

 私は五分ほどその場で沈思黙考した後に、こう声を掛けた。

 「マキジャク、連れて来ようか?」

 布団の中で、モノサシが僅かに身じろぎをしたのが分かる。

 「別にマキジャク連れて来てマキジャクと決着付けたら、それで脚切れっつってんじゃないんだよ。ただまあ私は私にできることしかできんし、それをしてやった上でどうするのかは、あんたが自分で決めりゃ良いんだし」

 モノサシは答えない。

 「で、どうなの? 連れてきた方が良いの? それとも顔も見たくない? どっち?」

 しばしの沈黙。

 時計の針の音だけが響き渡って、やがてその回数も分からなくなった頃、モノサシは答えた。

 「……連れて来てくれ」


 長い旅路となった。

 マキジャクが転校して行ったのは県境を三つほど超えた先のところだった。そこでマキジャクは中途半端な偏差値の進学校を受験し合格し、もちろん剣道などはせず、ニンテンドースイッチで好きなポケモンをしながら春休みを過ごしているのだという。

 私は貯金をはたいてマキジャクのいる街まで訪れていた。調べて置いたマキジャクの家のチャイムを鳴らし、マキジャクの母親に「久しぶりね」と歓迎されつつ屋内に侵入。マキジャクの部屋の前に立つと勢い良く扉を開け放った。

 「わぁっ」

 驚いた様子でニンテンドースイッチを放り出すマキジャクは、以前よりもやや丸みを帯びた様子だった。おっぱいがEカップくらいになっている以外にも、剣道をやっていた頃の若干ゴツゴツした体型から女性らしい柔らかな姿に変わりつつある。机に置かれたポケモンパンとスナック菓子とコーラの組み合わせも、そのことと無関係ではないだろう。

 「あんたデブった?」

 「いきなり来てそれは失礼じゃない?」

 「いや実際デブってるし」

 「確かに体重増えたけどまだ普通だし。つか細いし。BMIも21くらいだし。昔がちょっとおかしかっただけだし。ササミばっか食わされたりとかさ。何だったのあれボディビルでもさせるつもりだったの? 中学生だったんだよあたし? そういうのやめて普通の体格に戻ってるだけで別に太った訳じゃ……」

 「あんたがデブった言い訳とか良いから」

 「ソロバンが言って来たんだし。つか何?」

 「とにかく行くよ。電話で言ったでしょモノサシが脚切るんだよ早くしろよ」

 「だから、やだし。やだって言ったし」

 「何でやだの?」

 「なんであたしがモノサシと剣道なんかしなきゃいかんの?」

 「良いから来いよ! ほら、ポケモンカードあげるから!」

 私は貯金をはたいて弟から買い上げたレアポケモンカードをマキジャクに握らせ、無理矢理に家から叩きだして特急列車に引っ張り込んだ。

 「何でわたし殴って大けがさせたモノサシにそこまでしなきゃダメなのさ」

 マキジャクが不承不承という風に言う。

 「あんたが殴られたのは、師範の死をコーラでお祝いなんてしようとするからでしょ?」

 「あんなお祖母ちゃん、死を祝われて当然だしっ。つか虐待だよあれ? 剣道行くの嫌がったら、痣出来るくらい何度もぶん殴られたし。強くなるからとか言って、漢方とか言ってお腹壊す変な泥水みたいなの飲まされたり。長い休みのたんびに、変なお寺みたいなところでおっきな火の前で、意味わかんない呪文を何時間も唱えさせられたり……。熱いんだよあれ! 死にかけるんだよ!」

 「その辺の事情はまあ薄々察してたけどさ。あの婆さん、最後の方明らか耄碌してたし。だからってモノサシの前で死んで嬉しい言うのはまずいっしょ。モノサシは師範のことガチ崇拝してたんだから。そりゃあキレられるし殴られるし殺されかけるっしょ」

 「怒ったからって殴ったり殺そうとするのは野蛮だと思いますぅ!」

 「うっせ。モノサシに言え。とにかくほら、付いたよ」

 特急列車の扉が開く。生まれ育った街に回帰したマキジャクを連れ、私はモノサシの待つかつての道場に向かって歩きはじめた。


 マキジャクのお祖母ちゃんから道場を引き継いで運営している人に事情を話し、門下生がいない時間帯に三十分だけ道場を借りていた。

 モノサシは防具を付けたまま正座して待っていた。もちろん、病院を抜け出して。今頃医者も看護士もこいつの親もパニックになっていることだろう。申し訳ないと心から思うが、この一度だけ迷惑をかけるのを許して欲しかった。

 「来たか」

 モノサシは言う。

 「うん」

 「悪いな、来てもらって」

 「良いけど。えっと、やるの?」

 「頼めるか」

 「……うん。いいよ」

 マキジャクは葛藤を飲み込むように言って、私から借りた防具と竹刀を身に着け始める。

 試合の結果は分かり切っている。私は思った。

 確かにマキジャクは強かった。モノサシよりも前に全国制覇を果たした実績があった。道場での打ち合いでもモノサシに一度も負けなかった。マキジャクは先頭を走り続ける才あるウサギだったのだ。

 しかしマキジャクは剣道をやめた。走り続けることをやめたのだ。そして木陰で眠りこける童話のウサギのように、丸一年以上に渡って竹刀を握らずにいたのだ。身体もしっかりたるんでいた。そんな奴が努力を続けたモノサシに敵う訳がない。 

 マキジャクが防具を付け終える。モノサシは竹刀を持って立ち上がり、静かにマキジャクと対峙する。モノサシの鋭い視線と、マキジャクの意外なほど澄んだ視線とが、同時に私の方へと注がれた。

 「はじめっ」

 自然と、私は強くそう叫んでいた。

 マキジャクは下段に、モノサシは上段に竹刀を構えた。守備型と攻撃型。当時から変わらない、それぞれのスタイル。モノサシは高く構えた竹刀を鋭い踏み込みと共にマキジャクの面へと打ち下ろす。

 「メェエエン!」

 それであっさり決着がついてもおかしくないと思った。しかしマキジャクは竹刀をふらりと持ち上げると、あっさりとモノサシの面打ちを振り払ってしまう。

 再びにらみ合い。続く二度目の面打ちも、それを防ごうとする駆け引きの中で新たに放たれた胴打ちも、マキジャクはかつてのようにあっさりと跳ね返してしまった。

 モノサシの動きに焦りが生じ始める。その焦りを突くように繰り出されるマキジャクの小手打ちを苛立つように裁いた後で、しばしの対峙の後、モノサシは竹刀を大きく振り上げた。

 「メェエエンっ!」

 それは過去最高の鋭さを持った渾身の一撃だった。その動きはしなやかで素早く、振り下ろされる斬撃の威力はどっしりと重い。

 しかしその一撃がマキジャクを倒すことはなかった。

 マキジャクはモノサシの面打ちをひらりと躱し、その間隙に、誰よりもすばしっこい手でモノサシの小手を打っていた。

 私は呆然とした。モノサシもその場で立ち尽くして動けなくなっていた。思わずわなわなと震え出そうとするわたし達の前で、マキジャクだけが静かに面を脱いで一言、呟いた。

 「……別に良いでしょ。声とか」

 マキジャクは気だるげに竹刀を放り出すと、淡々とした様子で防具を脱ぎ始めた。

 「恥ずかしいんだよ、あれ」

 モノサシはその場で膝を着いて崩れ落ちた。

 私は思わずモノサシの方へと走り寄り、倒れ伏そうとするその肩を抱いた。防具越しに見えるその顔には涙が滲み、あまりの悔しさに強く歯を噛みしめていた。

 「ちくしょう……。ちくしょうっ!」

 拳を床に叩き付け、泣きわめくその姿に、私は何と声をかけて良いのか分からなかった。モノサシの精神がどこか遠くの、取り返しの付かない場所に行ってしまったかのようだった。どうすればそれを取り戻せるのか、私には皆目と見当が付かなかった。

 おろおろと震えるだけの私の肩を、マキジャクが落ち着いた手つきで触れた。

 「一人にしとこう」

 そのマキジャクの判断が正しいのかは分からない。しかしとにかく私は役立たずだった。自分では何も判断できず、マキジャクなんかに流されて道場の外に出た。


 道場の庭には桜が埋められていた。四月の上旬の今それは満開になっていて、風が吹く度に花弁がわたし達の頭上を舞っていた。かつて道場からの帰りにいつも見ていたその風景を、マキジャクは少しだけ目を細めてそっと見詰めた後、壁を背にして座り込んだ。

 「こういうのがやだったんだよ」

 マキジャクは言う。

 「は?」

 「こういう時、わたし無茶苦茶独りっきりじゃん」

 わたしはマキジャクの言い分を鼻で笑い飛ばして、言った。

 「贅沢言うなよ」

 むっとした顔で、マキジャクは私の方を睨む。

 「皆そう言う」

 「実際、贅沢だからだよ」

 「やっぱ独りだぁ」

 「独りでいろ」

 忌々しい気持ちでそう言ってやると、マキジャクは真っ赤な目をして真っ赤な舌を突き出して来た。その目尻には涙が浮かんでいた。

 「ばあか」

 マキジャクは言った。バカって言う方がバカなんだよ。わたしはそうは言わなかった。

 代わりに、わたしはこう問い掛けた。

 「なんで剣道好きになれんかったの?」

 「え? だってお婆ちゃんにすごい怒られるし。無理矢理やらされたら何だって嫌いにならない?」

 「剣道自体はどうだったの? 競技として面白いとかつまらないとか」

 「別に普通」

 「でもあんた強かったじゃん。自分が強いってこと楽しめなかったの? 誰だってそれが欲しいし、手に入ったら楽しいって思うよ? 自分が強いってことが嬉しくて、誇らしくて、それを手に入れ続けられる剣道が好きって、なんでならなかったの?」

 「わたしそんな単純じゃないよ」

 自嘲するように、マキジャクは笑った。

 「単純じゃないし、バカじゃない。騙されない。嫌いなものは嫌い。それだけ」

 ああやっぱりこいつ……わたしは思った。

 バカなんだ。

 適応しないんだ。迎合しない。どれだけお膳立てされても環境を整えられても、その上本人に凄まじいまでの素質があっても、求められる色に染まったりしない。考えや好みを歪めたりしない。限りないマイペースをどこまででもいつまででも貫くことが出来る。そんな精神的な強さが、頑固さが、皮肉なことにこいつを強くしたのだろう。

 周りの人間の気持ちなんてお構いなしだ。自分の強さで誰かをどれほど打ちのめそうと、そこに責任を持とうとしない。その癖本人はいけしゃあしゃあと、王者の孤独なんてものを感じていたりもする。

 なんて奴だ。

 そりゃあね。あんたはあんたで苦しかったと思うよ。望まずに得た強さの所為で、勝ち続けるのが当たり前にされて、肩を並べて同じ目線で喜んだり悔しがったりする相手も得られなかったあんたの孤独は、そりゃあ凡人には分からなかろうよ。

 でもその不理解を嘆く前にさ。あんたはあんたで、他に考えるべきことがあったんじゃないの? 剣道を好きになれないのもやめるのも良いのだけれど、それでも何かもっと、目を向けるべきこと、感じるべきことがあったんじゃないの?

 でもそれが何なのか、どう言葉にすればマキジャクにそれが伝わるのか、私には分からなかった。そもそもそんなものはどこもなくて、つまりマキジャクに落ち度なんてまったくなくて、卑小なわたしの卑小な苛立ちを、ただこいつぶつけたいだけなのかもしれなかった。

 やがて目を赤くしたモノサシが道場の外に出て来て、私達の方に声をかけた。

 「気を使わせて悪かったな」

 「別に」

 「全然」

 私とマキジャクがそれぞれ言った。

 「手術、受けることにするわ」

 あっさりとそう言ってのけたモノサシに、わたしとマキジャクは思わず顔を見合わせる。

 「大丈夫なの?」

 「ああ。ありがとうなソロバン。どんなに頑張って努力して、そいつなりの最善を尽くしても、勝てない相手ってのはいる。それが当たり前だ。あたしにとってはそれがマキジャクだった。あれから一年経って、勝てるか勝てないか分からないまま終わるより、最後に決着を付けられて、本当に良かった」

 悔いがない訳じゃないだろう。納得がいっている訳じゃないだろう。それでもモノサシはそう言った。無念も後悔もすべて飲み込んで、この先の人生で感じ続けることになる苦悩の全てを覚悟して、今目の前にある運命を受け入れる。そんな強さを、わたしはモノサシから感じ取った。それは誰よりも尊敬できる友人の気高い姿だった。

 すべてのことに終わりはある。

 どんな分野でも、鍛錬や挑戦を終える時は必ず来る。

 だから、誰もがいつかこうしなければならない。

 モノサシのようにならなければならない。

 そうならずに済むのは頂点を極めたただ一人だけだ。そしてその一人は今もつぶらな瞳で、バカみたいな顔で、半口を開けてモノサシの言葉をぼんやり聞いている。

 「それとマキジャクも。あたしの剣道に、おまえがいてくれて良かったよ。ありがとう」

 「ううん」

 モノサシの言葉に、マキジャクは首を横に振って、やけに無邪気な声で言った。

 「仲直り出来たんなら、ちょっと嬉しい」

 また春風が吹いて、木々がしなり、桜が舞った。

 何かを終え、また新たな何かが始まる。春とはそんな季節だった。

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