5 毒蛇に紅茶は似合わない

 上江院がリビングで居座る様は無遠慮な外来種を思わせた。

 配慮の行き届いたリビングでさえ、我が物にしようとする。腹に据えかねるが敷居を跨がせたのは他ならないウェンズデーだ。文句は言えない。居座っている身は美耶子とておなじ。

「良いお家ですね。うら若き女性の持ち家にしてはやや豪奢過ぎるきらいもありますがね」非番と自分で言っておきながら、土足で足を踏み入れてくる。油断がならない。目を離すと家じゅうを物色されかねない。

「父親の生家を譲り受けたんです」ウェンズデーは言った。「父は体が弱く、この家で十代を過ごしたそうです。両親と折り合いは良くなかったそうで、当主になるまで遥かに時間が掛かったと愚痴を零していました」

「そうだったんですか。亜津馬はお金にものを言わせていると良くない話を見聞きしますが、本当だったんですねえ」胡散臭さに拍車を掛けているのは偏に口調に問題があるようだ。わざとそういう話しかたをしているのかもしれないが、まっとうな大人としての振る舞いをしてもらいたいものだ。中学三年生を目の前にしているのだから。

「壹彦が各地に家を建てたのが原因ですね。入り浸っては女性を招き入れ、繁殖行為をしていたようですから」

「生々しいですねえ」味の悪い料理を食べたみたいな表情をする。「それで嫌がらせを受けていると貴女の叔母さんから聞きましたが、容器はどこにありますか」

「瓶は壁にありますよ」ウェンズデーは指を差す。アルカイックスマイルを湛えた上江院は真っ赤に染まった壁を見る。ほほうと感嘆の声をあげる。その声色は何処か牧歌的で惨状など大したことではないように思わせる。実際に大したものではないのだが、ウェンズデーが殊更に問題視していたので事態が深刻なものと錯覚したに過ぎない。「集めるのに苦心すると思いますけど」

「そのようですね」肩を竦める。諦めたようだ。「非番ですから捜査するつもりはありませんが」

「話を聞く必要ないのではありませんか?」

「そうでもないですよ。私は人の話を聞くのが趣味なのです。非番であろうと関係ありません。どこに原石が転がっているか判りませんからね」上江院は言った。

「何かに役立てるのですか」

「いいえ」何故そのようなことをしないと行けないと言いたげな顔をする。

「私の仕事は恙なく事件を解決することです。むしろ、真実以外興味がないと言えます。真実に辿り着くまでの過程は私にすればお遊びのようなものです。もっと言えば、実況見分に近いでしょうか」

「顧問探偵になられたのは面白そうな興味深い話がたくさん聞けそうと邪な考えからですか?」ウェンズデーは尋ねる。中学生らしからぬ質問に上江院は瞳を大きくさせる。アルカイックスマイルが邪悪な笑みに変わる。探偵ではなく、犯人だ。

「一概に言えませんが一理あります」肯定とも否定とも取れる曖昧なことを言う。

「性格が悪いと言われませんか?」

「どうでしょうね。人格者が探偵を名乗ったりしませんでしょう? 世界的に有名な探偵もそうではありませんか」上江院は言う。「人格者であればあそこまで愛される探偵になどなっていませんよ。変人で問題がある。それでも事件には実直で真摯に向き合い、事件を解決に導くからこそ彼は長く愛される名探偵になったのです。私もゆくゆくはそうありたいところですが、まあ難しいでしょうねえ」

「名声とか気になさるんですね」美耶子は言う。

「探偵としての株をあげたいとは思っていますよ、常々。ですが、私立探偵というのは地味な依頼が殺到するのです。少々、飽き飽きして来ましてね。そこで奇妙な肩書きを得れば、ほうぼうから依頼が押し寄せるだろうと思い、自ら志願した次第です」

 自薦だったようだ。

 自分の能力を買い被っているのではないかと美耶子は思う。自信がないと大手を振って、売り込みしない。

「自らのキャリアの踏み台にしたいと」

「あっははっはっはっっはっっっは」変梃な笑い声がリビングに響き渡る。上江院は椅子から立ち上がり、室内を徘徊し出す。突然の出来事にふたりは互いの顔を見合う。「ミステリに登場するような探偵になるには難事件に遭遇し解決する必要がある。兎に角有名になりたくて仕様がないのですよ! 私は」

「それは困ります」ウェンズデーは言った。

「何故ですか?」

「貴方の利益になるように動かれるのは困ります」

「ほう。私と貴女の両方に益するのであれば困らないわけですね?」言ってしまえばそういうことになるが、ウェンズデーと上江院の両者に都合がいいものがこの世に存在しているとは思えない。思惑がそもそも異なっている。差し引きゼロにしたところでそう都合のいい提案ごとは落ちていない。

「あれば、ですけど」ウェンズデーは視線を下へ向ける。

「ある、と言えばどうします?」

「はったりです」推移を見守っていた美耶子が口を開いた。「落としどころのない議論を重ねたところで無意味です。上江院さん、お引き取り願えますか」

「私は全然構いませんよ。帰れと言われれば素直に従いますが−−彼女はどうでしょう」上江院は思案顔をしているウェンズデーに手の平を向ける。「私が良くても彼女は宜しくないようですよ」

「非常識な人に付き合う必要ない。帰ってもらおう」美耶子は考えごとをしているウェンズデーに言うが、反応がないことに苛立ちを覚える。美耶子は上江院を睨む。貴方の所為と言わんばかりに。上江院は素知らぬ顔をして冷め切った紅茶を飲む。

 毒でも入れておけば良かったと後悔する。

 この人は毒を持ってしても死なさそうだ。

「宜しいでしょう。私から提案があります」力強い瞳が上江院だけでなく美耶子にも向けられた。「探偵さんに恐らく起こるであろう連続殺人事件を解決して戴きます。そして私と美耶子ちゃんが死なないよう守ってください」

 荒唐無稽にもほどがある提案が姪より提示された。無謀過ぎるし、現実離れしている。美耶子は否定したい感情に支配されたがウェンズデーの真剣な眼差しに何も言えなくなった。本気でこの娘は言っている。殺人事件が起こると信じている。

「ふっ、あーはははははははははは! ひーひひひひっひひっっひ」探偵は奇っ怪な笑い声をまたしてもあげた。今度は腹を抱えて笑っている。堪えるのではなく思い切り笑っている。恥じらいなどこの人にないようだ。「これは傑作だ。魂消ました。私は貴女を買い被っていたようです。いいですよ、その心意気。気に入りました。いいでしょういいでしょう。私にはこれまで存在しませんでした。これ以上ない、依頼と言えるでしょう。

 ええ、喜んで依頼をお引き受けしましょう」

「有難う御座います」ウェンズデーはお礼を述べる。

「嘗てないほど面白い体験が出来そうなので、非番ではありますが、先程の推理にもならない推理を手はじめに披露して差し上げますよ」上江院は言った。

 ウェンズデーは目を丸くして叔母を見る。

 美耶子は外壁を汚されていたことを話すとあー、あれかーと納得する。

「赤く染めあげられたあの外壁をウェンズデーさん、見ましたね?」

「見たというかすれちがったと言いますか。自転車に乗っていました」

「自転車?」美耶子は言う。

「うん。ロードバイクに乗ってた。ヘルメットとサングラスをしていたから人相までは確認出来なかったけれど」その人物が外壁を汚した悪戯した者だろう。

「彼ではありません。その人は趣味でロードバイクを乗っている人です」あっさり否定された。ウェンズデーは誰を見たというのだろう。「ロードバイクのあとに塗装業者のかたとすれちがったりしませんでしたか?」

「え、あー! はい、確かに乱暴な運転をした軽トラックとすれちがいました。危うく怪我をするところでした。明らかに向こうが悪いのに怒鳴られました。彼らですか?」

「そうです。彼らです。乱暴な運転をし、過失を一切認めない、塗装業者は一社しかありません。天羽美装です。貴女がたに血の味がするブルーベリージャムの送り主です」上江院は言った。「彼らの悪行は業界で知れ渡っています。何度か裁判沙汰になったのですが、改善が見られない。悪どい行いを懲りもせずにしている奴らです」

「知ってた?」美耶子はウェンズデーに尋ねる。

「知らなかった」ウェンズデーは首を振る。「あれは警告だ」

「そうでしょうね。血の味のするジャムをそのひとつ。関わるなと言いたいのでしょうね。おふたりに危害が及ぶのも時間の問題かと」上江院は言った。

「今のうちに引けば手は出さないと」

「引き下がる謂れは私にありません。どのような障害があろうと出席するつもりでいます」ウェンズデーは言った。「本家の人間が事故で死ねば、彼らに有利に働きますからね。邪魔が入るのは予想していましたけど、ここまでするとは思っていませんでした」

 それだけ当主の座が欲しいのだ。本家の血筋が絶えれば、次は自分たちが亜津馬の頂点に立てる。亜津馬壹彦によって虐げられて来た歴史で反旗を翻す絶好の機会。この機会を逸するほど彼らは愚かではない。

「欲深い人間はどんな手段を講じてでも欲しいものを手にするものです。そんな者たちに屈しないために、私がいます。久坂部氏もこうなることは予期していたのでしょうね。私の無理強いを受容したのですから」上江院は言った。「常に中立でいないとならない彼に比べて、私は誰に肩入れをしても構わないと言われています」

「守秘義務ですよね? 明かしていいんですか」美耶子は不安な顔をする。

「特に言われていないのでいいんじゃないですか」首を傾ける。「依頼料ですが」

「金額は指定して戴いて構いません」ウェンズデーは言う。「依頼をまっとうして戴けるのであれば、いくらでも支払う所存です」

「いいですね。それでは−−」


「−−探偵小説を書いてくれと頼まれたんですか。はあ」特大の溜息を吐く。呆れてものが言えないのではなく、安請け合いをするなと暗に示している。そのつもりはなかったのだが、有名になりたくて仕様がない上江院が導き出した提案が自分が解決した事件をモチーフに小説を書いて欲しいとのことだった。

 探偵の名前に自分の名前は使用すること。ワトソン役は美耶子であることが条件だった。それはミステリの王道スタイルだ。今まで王道に挑戦したことはなかった美耶子にすれば、城田美耶子の再生に繋げられるのではと安易な考えがうかんだ。

 自分だけで決めていいか判らず、一日時間が欲しいと伝え、保留してもらった。

 忙しい鬼灯に時間を作ってもらった。

 態々、自宅に来てくれた鬼灯には感謝しかない。

「経緯は懐疑的に思いますが、城田美耶子の再起を考えれば賭けてみる価値はありそうですね」原稿を確認しながら鬼灯は言った。一週間掛けて原稿を仕上げた甲斐があった。いくら忙しいとは言え、出来上がった原稿を下読みしたくて仕方がない心理を逆手に取り呼び寄せることに成功した。

 鬼灯は人参ではなく書き立てほやほやの原稿をぶら下げればどれだけ激務に追われていようと一目散に駆けつけてくれるのは知っていた。常に刺激を希求している鬼灯は新しい物語を読まないと気が済まない、重度の物語依存症だ。

 暇さえあれば小説を読むような人だ。面白かろうとそうでなかろうと。

「そう思いますか?」提案されたとは言え、美耶子は乗り気ではなかった。自分のアイデアではないからというのもあるが、他人の褌で相撲を取りたいと思わないからだ。自発的に執筆するのであれば、本人の意志が介在しているからなんとも思わない。好きにすればいいと思う。しかし執筆するよう−−半ば強引に依頼されたのは話がちがってくる。

 流れに身を任せるのもありな気もしなくはない。実際、美耶子は承諾しかねた。安易な考えに乗ろうとさえした。踏み止まれたかと言われれば、否と答えるしかない。

 考えるのに厭き厭きしていたし、アイデアも枯渇していた。渡りに船と思ってしまったのは覆しようのない事実。そんな自分を恥と思っていない。

 されど、鬼灯の承諾が得られないと話は進まない。独善的な行動でどうかなる業界ではない。原稿が完成しても出版されないことも往々にしてある。作家は飽くまでも雇われだ。依頼がないと成立しない。

 もっと言えば、出版社が存在していないと価値を見出してもらえない。

 自称であれば小説家を名乗ろうが害はない。商業作家となると矢張り話は別だ。

 趣味と仕事は単純に割り切れる話ではない。

 趣味の延長でする仕事と趣味が仕事では感覚が大きく異なる。関わる人数もちがうが責任が永遠に付き纏う。それに自己完結で済まされていた物事に大量の視線が加わるのだ。趣味であり仕事と堂々と言えなくなってしまった悲壮感はたぶんにして大きい。さらに言えば、結果を求められるようになる。とにかく結果を出さないと次の作品を出させてもらえない。死にもの狂いで作品を建築しなければならない。尋常ならざる精神構造をしていないと到底小説を永続的に書き続けるのは難しい。

 何処かが狂っていないと小説家として成立しない。

 長いこと作家業をしている美耶子だが、第一線で活躍している売れっ子たちは並大抵の人間ではない。人間の皮を被った何かにしか見えない。

 二十代に当てた小説で今もどうにか食べている美耶子と実績を積み上げ、代表作すら過去のものとしてしまえる猛者に太刀打ち出来るはずがない。

 毎年のように新たなる才能の芽が土から顔を覗かせる。何時、自分が淘汰されるか判らない恐怖と戦わなければならないかと思うと気が気ではない。

「城田さんがどうしたいかですけど」原稿を読み終えた鬼灯は浅い溜息を吐く。「個人的な意見を述べさせて頂けるのであれば、そのかたの依頼をすぐにでも快諾するべきだと思います。厳しい言葉になりますけど、私が優しい言葉を口にしたことがあったか定かではありませんが、この原稿は城田美耶子至上最低の作品です。文芸誌に掲載出来るクオリティではありません。疎かで拙い文章を量産され続けるのであれば、我が編集部としては城田美耶子を見限る他ないと思います。城田さんの実績に騙されて、一作程度は出版してもらえるでしょうが、作家としての成長は見込めない。そういう作品です」


「随分と手厳しいことを言われたね」帰宅したウェンズデーはコップ一杯に注がれたミルクと大好きなビスケットを食べながら、美耶子の話を聞いていた。「でも鬼灯さんが言うことは外れたことないから、受け止めたほうがいいと思うよ」

 姪にまで厳しいことを言われてしまった。

 鬼灯が帰ったあと、書き直そうと書斎に戻りはしたが、彼女に言われたことが一々頭にちらついて集中出来なかった。

 画面に出力されている文章が異国の言語に見えてならない。

「助言に従うのが賢明なのかもしれない」珈琲を啜る。「あの人の手のひらの上で踊りたいわけではないけど」

「美耶子ちゃんが落魄れた小説家であることに変わりはないけどね」

「貴女までそう言いますか」

「悠々自適な暮らしを謳歌出来ているのも偏に亜津馬の財力があるからだよ? 美耶子ちゃんが駄文を量産しても生活に支障がないのはお母さんの妹だから。これ以上の説明は不要だよね?」姉に似ている。厭なくらい。「今の生活を維持したいのであれば、現状を甘んじて受け入れるしかないと思わない? ほぼ無職に等しいんだから。才能が枯れた作家は路頭に迷うしかない。美耶子ちゃんは就職に不向きと来ている。イギリスに帰るのもありだけど、帰ったところで仕事はない。それだったら、上江院さんの依頼を受けて、延命するのが筋な気がする」

 ウェンズデーに尤もなことを言われ、二の句が継げない。身内から指摘されるのが堪える。懇意にしている編集者から言われるのも精神的に苦しいものはあるが、それを簡単に上回るのが質が悪い。

 反論する部分がひとつもない。

「参ってる美耶子ちゃんに悪いんだけどさ、出発が早まった」

「は⁉︎ 聞いてないけど」美耶子は言う。

「急遽、決まったことだからね」ウェンズデーは微笑む。「落ち込んでいるときに追い討ちかけるみたく言いたくはなかったんだけど、言わないと行けないこともあるじゃない?」

「まあそうだけど、タイミング悪い」ゴキブリの死体を見つけてしまった顔をする。

「許して」ウェンズデーはウィンクする。余計に美耶子の神経を逆撫でる。「出発だけど、週末」

「明日じゃん!」カレンダーを眺めながら美耶子は言う。「準備してないけど」

「今から一緒に旅に出る支度でもしよう?」

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亜津馬異国界譚 蟻村観月 @nikka-two-floor

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