4 そのブリーベルージャムは血の味がする

 入門書だと久坂部に言われて、『亜津馬帝国を建国した男 亜津馬壹彦の生涯』を渡されて読んだ。ひとりの生涯をこと細かく書かれているだけあって、上澄みだけ亜津馬家を知った気になった。

 姪が本家筋の人間であることの重要性を知り、後見人として役目をまっとうしなくてはならないと背筋を正す。気乗りしなかったがウェンズデーが場にいないとどんなことが起こるのか美耶子には想像つかなかった。

「どうにもならないよ。私が引き継ぐか否かで彼らの立場が変わるだけ。大した問題じゃないよ」ウェンズデーはホットミルクを飲みながら言う。本家の人間なだけあり、分家筋を軽視する発言が気になった。幼い頃から父親からそう教え込まれているから、仕方ない部分もあるが、本家筋の人間がお高く留まっていると往々にして足下を掬われがちだ。

「素人目には大した問題に思えるけど」

「美耶子ちゃんの言うとおりかも」ウェンズデーは意見をあっさり変える。信頼してくれるのは嬉しいけれど、もう少し自分の意見を大事にしてもらいたいものだ。美耶子が口を出す話ではない。姉もそうだった。意見をころころを変える習性があった。相手の主張に合わせるのではなく翻すことのほうが多かった。いつも姉は孤立していた。妹の美耶子だけが唯一の友人で理解者だった。あれは表向きそう見せているだけで実際はちがう。姉は利己的で打算的な人だった。自己中心的でさえあった。姉はなんでも持っているのに、出来ないふりをするのが上手かった。美耶子は素晴らしいが姉の口癖だった。何が素晴らしいのか、中身を具体的に説明してはくれなかった。

 姉はそういう人だった。時折、姪をとおして姉の残像が浮き彫りになる。怖くて仕様がない。姪であろうとあの姉の血が色濃く反映されている事実は変わりない。

「何が?」

「私が後継者になるかならないかは彼らのその後に大きく影響するかもなって」

「貴女がお父さんの意志を受け継ぐ必要はないんじゃない? 高校生になっていないのに、亜津馬の看板を背負う謂れはないと思うよ」美耶子は言った。

「美耶子ちゃんはどうして欲しい?」ホットミルクを飲み終わったウェンズデーはテーブルの中央に鎮座しているブルーベリージャムを手に取る。何をするのか見守っているとジャムの蓋を開け、バターナイフでジャムを掬い、舌に当てて塗った。自分の舌をトーストと思っているらしい。「このジャム、美味しくない。血の味がする」

「血の味……? そんなはずないけど」スプーンでジャムをひと掬いする。見た目はありふれたブルーベリージャムだ。やや赤みがかっているのが気になるくらいでそれ以外は問題ないように見受けられる。スプーンに載ったジャムを口に運ぶ。ウェンズデーの言うように鉄分が含まれた味はしない。

 ウェンズデーにそう言うと、味覚可笑しいんじゃないと言われた。

 中学三年生に指摘されると来るものがある。

「そのはずないよ。何処の奴」眉を顰めると途端に不機嫌になるのも姉にそっくりだ。父親の遺伝子より母親の遺伝子があまりに強すぎる。瓜二つ過ぎて傍にいるのが怖くなる。この先の成長を見守っていけるか不安になる。途中で投げ出しそうな自分が容易に想像出来てしまうのが余計に。「ちょ、これ、天羽食品のじゃないの!」

 ジャムのラベルを確認していたウェンズデーは露悪趣味の顔になる。

「どうしてあるの?」詰る口調で美耶子はひと回り近くちがう姪に問い詰められる。

「昨日、帰るときに本と一緒に渡されたの」好意的な口調で久坂部に言われた。だから言葉に甘えて美耶子は受け取った。表情に変化は見られなかったので問題はないと確信したつもりだった。ウェンズデーの反応を観察する限り、受け取るべきではなかったようだ。警戒を怠った罰か。顧問弁護士すら信用してはならないということか。

「本って、あの虚飾塗れの美談・礼賛伝記小説ね」ウェンズデーは吐き捨てるように言った。身内の話になると途端に人格が変わったように辛辣になる。そこまで一族に嫌悪感を抱いている。「読まなくていいと言ったのに読んだの?」

「入門書と言われたから。亜津馬家の知識はないから」言い訳を口にしている自分に嫌気が差す。「本は取り敢えずなんであれ眼をとおしてしまうよ」

「作家さんだもんね。仕方ないか。警句を鳴らしておくべきだった。私の落ち度だ」

「ウェンズデーは悪くないよ」

「私が簡潔に話しておけば警告を受け取ることはなかった」ウェンズデーはジャムの瓶で散々遊び尽くした挙句、真っ白な壁に向けて投げた。壁に触れた瞬間、瓶は骨が折れたような音を発しながら割れた。

「ジャムが……」

「嫌がらせをするほうが悪い。宣戦布告に近い。これは益々私は彼らの前に姿を現さならなくなった」ウェンズデーはスキップするような口振りで言う。「顧問弁護士さんに連絡出来たりする?」

「個別では難しいと思う」事務所で出会えたのは奇跡に等しい。あんな偶然、人生で何度もあることではない。

「久坂部さんに仲介をお願いするわけにも行かない」

「遠慮せずに頼めば?」

「あのね、美耶子ちゃん。久坂部さんは頼りになる。けど全幅の信頼を寄せるには剣呑なの。判る?」ウェンズデーは呆れた顔で美耶子を見る。あの老人は否が応なしに信頼してしまう。会っていない段階で言われていれば彼女の話を鵜呑みにしていたかもしれないが、会って話してしまっている。いくらウェンズデーであろうと信頼するなと熟慮しろと注意されたとてはい、そうですかとはならない。現状、信用ならないのは顧問探偵の上江院傑。突拍子もなく現れて、去って行ったあのおとこ。いや、どうなのだろう。美耶子にはおとこに見えたが久坂部と事務員の彼女に上江院はどう映っていたか気になる。

「中立の立場にいるから肩入れが出来ない故に情報が細大漏らさず流れる虞がある」

「正解。これくらいは領解してもらわないと。先に進めない」ウェンズデーは言う。「お父さんが亡くなってから当主争いは絶え間なく続いている。権力が欲しいからもあるけど、いちばんは亜津馬の名。本を読んだから何となく察してもらえると思うけど、本邦に於いて亜津馬は通行手形に近い。それほどまでに効力がある。それに引き換え、分家筋はちがう。肩身が狭いわけではないし、一族だから恩恵はあるけど、本家ほど待遇が良くないの。だから彼らは躍起となって、亜津馬を名乗りたい」

「亜津馬を名乗るってことは要するに−−」

「私と婚姻関係を結ぶことを意味する」おぞましい話だ。本を読んで知識は得たとは言え、何処か現実離れしている内容だったから本気にしていなかった。何なら小説を読んでいる気分でさえあった。美耶子自身、一族のいざこざを扱ったことがある。横溝正史の影響は大きいとは言え、創作が前提であった。現実に姪が作中で繰り広げられるような事態の渦中にいると想像すらしなかった。姪の存在を知ったのだって、姉が死んだあとだ。それまでのほほんと生きてきた。

 小説を書いて生きてきた美耶子にすれば、自分の書いた小説が現実で起こっている気がしてならない。妄想は現実にならないから妄想なのだ。予言書と評される作品は少なからず存在するが、それとこれは話がちがう。

「だから久坂部さんは頻りに春と口酸っぱく言っていたんだ」帰り際に久坂部は呪文のように春ですと春。春になりませんと動きようがございません。春でないとならないのですと小説をはじめて書くみたいにおなじ台詞を言い続けていたのが、気になって仕様がなかったが裏打ちされた事情を知ったあとでは見えかたが変わる。

「私が十六歳になるのは来年の三月だけどね」ウェンズデーは三月生まれだ。現時点はまだ十四歳だ。十四歳。美耶子にすれば、十四歳の娘が背負っていいものではない。大人びているかもしれないけど、まだ十四歳の少女はまごうかたなき事実。一族のごたごた、大人の欲望渦巻く世界に巻き込んでいいはずがない。

「どうすることも出来ないの」

「唯一の生き残りが私だけだからね。仕方ないよ」


 ウェンズデーを送り出してから書斎に引き籠り、パソコンの前に座るも集中出来ない。執筆に打ち込めば忘られると思っていたがそうはならなかった。自分でも驚いている。鬼灯に電話でもしようかと思ったが、仕事以外で電話をして来ないでくださいと以前に釘を刺されてしまっている。

 相談と表して世間話に花を咲かせてしまい、彼女の仕事を邪魔をしてしまった。それ以来、迂闊な電話が許されなくなった。

 学生時代の友達と思ったがロンドンに住んでいる。日本で生活するようになって、十年以上は経つが心を許せる友人はひとりもいないわけではないが、皆、海外に憧れがあるのかすぐにパスポートを携えて旅立ってしまう。最近も親密にしている小説家が海外に仕事で家を空けたばかりだった。

 話したい時に気軽に話せる友人を作っておくべきだった。

 フットワークの重さを反省する。

 散歩でもして気分転換することにした。

 カーディガン一枚でどうにかなるか確かめようと窓を開け放つと寒風と共に下方から声がきこえた。美耶子は声のするほうへ視線を向ける。

「いらっしゃいましたか」テーマパークのスタッフみたいな笑顔と手の振りかたをする顧問探偵の姿を視認した。「ご不在かなあと思いまして、インターホンを押すか押さないか悩んだのですが、そのご様子ですと、散歩に出掛けようとしていました?」

「住所を教えたはずありませんけど」

「久坂部氏から聞いたと言いたいところですが、生憎教えてもらえませんでした。どうも信用されていないようで」フォーマルな装いではなくカジュアルだった。道端ですれちがえば気付かない自信がある。それだけ燕尾服にシルクハット、杖という出で立ちはインパクトを与える。「ですので自力で突き止めることにした次第です」

「はい?」

「探偵の本分を遺憾無く発揮した、という意味です」

「そうではなくてですね。どうして此処を訪ねたのか知りたいんですが」

「ロミオとジュリエットみたいですね。私たち」上江院は言った。「禁じられた恋愛を続けたい気持ちもありますが、どうですか。散歩でもしませんか?」

「誘ってます?」

「大いに誘ってます。社交パーテイであれば、ダンスに誘うところです」

「お断りします」気分転換のつもりで散歩しようと思っただけで、上江院と散歩などしたら疲れるだけ。意味のない散歩だ。

「それは困りましたね。立派な外壁が真っ赤になっていますよ?」


 上江院の言葉に躍らされたわけではないことを表明したいが、言い訳する場所がないことに舌打ちを打つ美耶子。まんまと彼の口車に乗せられたと思いきや、上江院の言っていたとおり、家の外壁が真っ赤に染められていた。

 ブルーベリー色と表現して差し支えないほどに。

 いったい誰がこんな悪戯を。

 心当たりがあるとすれば、天羽家の人間だが……

 天羽家の人間がウェンズデーの現在の住まいを知っているはずがない。久坂部が教えた可能性が考えられるが、そんなことをするだろうか。ウェンズデーが言っていたじゃない。久坂部さんは常に中立の立場だと。肩入れはしないと。そうであれば、久坂部が天羽家の誰かに教え、忠告しに来た?

「考えられない話ではありませんね。私は天羽家を知らないのでコメントは差し控えますが、野蛮なことを平然としてしまえる人間がいる家柄のイメージが定着しそうですね」

「冷静に分析をしなくていいんですよ」美耶子は言う。「探偵ですよね? 起こっている現象を客体に考えてくださいませんか」

「厭です」

「職務放棄をなさるおつもりで?」

「きょうは非番ですので、仕事はしません」上江院は真顔で頷いた。ということは、あの格好は制服だと言うことになるが、変なところでオンオフを分けているらしい。しかしながら性格のオンオフはしていないのは良心的だ。キャラクターの一部だと豪語されても困る。「依頼があってはじめて上江院傑は機能するのです」

「言っている意味を咀嚼しかねます」美耶子は言う。

「小説家は想像より頭脳が明晰ではないのですね」太陽みたいな笑みをうかべる。「ミステリをお書きになられているのですよね。その割にこの程度の問題を解き明かせないとは矢張り頭が良くないようですね」

 皮肉を混ぜてハンバーグのタネを捏ねたと思いきや、暴言を直接的に放ってくる。

「解ったんですか。これしかありませんよ」

「私はこれだけで十分です」上江院は言った。「ついでに送られきたジャムの容器を見せてもらってもいいですか」

「急ですね。非番ではないのですか」

「ただいま」すぐ近くからウェンズデーの声がする。「その人、顧問探偵さん?」

 視軸を下げると制服姿のウェンズデーが立っていた。

「仮病を使ったの?」美耶子は尋ねる。太陽の位置からおよその時間を言い当てる能力は持っていないがそれでも目安程度は当てられる。十時半過ぎだろうと予測を立てて、懐中時計を開く。十一時だった。三十分は誤差だ。

「美耶子ちゃん、受験を終えた三年生は自由登校だよ」ウェンズデーは肩を落とす。「友達に先に別れを言って来たの」

「卒業式、出席しないつもりなの」美耶子は灰色掛かった瞳を丸くする。

「出ても面白いことない。それより私はなすべきことをする義務と責務がある」そう言ってウェンズデーは顧問探偵を家に招こうとするのを美耶子は止める。ウェンズデーは叔母を睨む。「美耶子ちゃん、何をするの。止めないで」

「流石に止めるよ。何を焦ってるの」

「焦ってない! 高校生まで待っていられないだけ」美耶子には焦っているようにしか見えない。言葉と行動に矛盾が生じている。探偵は我関せずと他人の振りをしている。いまさら赤の他人の素振りをするのは無理がある。近隣住民にはっきりとふたりで会話しているところを見られているし、家の前で怪しい動きをしているところだって目撃されているだろう。不審者紛いの動きをしている人間の証言を信じる人はこの辺りに住んでいない。噂好きは住んでいるが。

「まあまあ。紅茶でも飲みながら寛ぐとしましょう」

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