カフェー・シャトンと金魚石

たつた あお

カフェー・シャトンと金魚石

 カフェー・シャトンにようこそ。

 ねえ、あなたも「鉱石の辻占」を買ってごらんなさいよ。「金魚石」が出たら大当たり。なんでも願いが叶うんだから。



 客先を回った帰り道、銀座を歩いていると、突然雨が降り出した。

 通りを歩いていた人々が、慌てて建物の中に駆け込んでいく。八柄やがらたすく外套がいとうの袖で顔をかばい、雨宿り先を探して周囲を見回した。

 ふと、煉瓦れんが造りの建物が目に止まった。しゃれた意匠の吊り看板。看板には黒猫の絵と『カフェー・シャトン』の店名が書かれていた。


 白い息を吐きながら重い扉を開ける。冷え切った体に、店内のぬくもりが心地いい。

 出迎えた女給に外套と帽子を預けると、すぐに窓際の卓に案内された。

 いくつもの色硝子ガラスをはめ込んだ窓が、クロスに淡い光を落としている。電燈と卓上ランプが灯っているにも関わらず、ホールはよいの口のようにほの暗かった。


 椅子に腰掛けるやいなや、女給が注文を取りに来た。

 寒椿を大胆に配した銘仙めいせんに、真っ白なエプロン。やわらかな絨毯じゅうたんの上を、女給たちは足音を立てずしなやかに歩く。店名が表す通り、まるで猫のような女たちだった。

 しばらく雨音に耳を澄ませていると、注文を取りに来たのとは別の女給が、珈琲コーヒーを銀の盆に乗せて近寄ってきた。


「いらっしゃい。この店ははじめて? あたし『うた子』って言います」


 本名なのか、源氏名なのか。彼女は媚びを含んだ表情で、下の名だけを口にした。

 以前立ち寄った深川のカフェーでは、女給が名乗ったりはしなかった。

 銀座には、いかがわしいカフェーが多いと聞く。なるほどこの店も、そういうたぐいの店なのだろう。


 うた子は、なにくわぬ顔をして、隣の椅子に腰を下ろした。卓に頬杖をつき、「勤め人なの?」「どこに住んでいるの?」と、さほど興味もなさそうにたずねてくる。

 佑もてきとうな返事をしながら、カップに口をつけた。

 あやしげな雰囲気のカフェーのこと、あまり味に期待はしていなかったが、意外にも香り高く、あじわい深い珈琲だった。


 外では雨が降り続いている。雨粒が窓を叩き、ゆがんだ色硝子を伝い落ちていく。女給と客が話す声。密やかな笑い。それらの間を縫うように、けだるい雨音がカフェーに忍び入ってくる。


 同じ調子で続いていた雨が、少しトーンを変えた。

 窓の外を、じゃの目をさした人影がよぎっていく。小学校に上がるか上がらないかくらいの、幼い少女だ。赤い綿入れに白いエプロンをつけ、髪はおかっぱにしている。ゆがんだ硝子のせいで、少女は水中の金魚のように、ゆらゆらと揺らいで見えた。


 窓を通り過ぎた少女は、カフェーの扉を開け、店内に入ってきた。布巾ふきんでおおったかごを片腕に掛けている。

 布巾とその下の油紙を外してから、少女はホールに向かって声を張り上げた。


「あわじしまー、かよう千鳥の恋のつじうらー」


 愛想笑いすら浮かべず、少女は無表情でカフェーの中を歩き回った。寒い外から来たためか、鼻の頭と頬が林檎りんごのように真っ赤だ。

 横を通るときにちらりと見やると、籠の中にはパラフィン紙で作られた小袋が、山のように入っていた。


(子どもの辻占つじうら売りか)


 少し興味を引かれ、珈琲をすすりながら観察する。

 赤い綿入れにはぎが当たり、下駄履きの素足も寒々しい。エプロンも、女給たちのものとは違い、どこか薄汚れていた。

 こんな身なりのまま、堂々と店に入りこんでいるところを見ると、少女は許可を得た上で、カフェーで商売をしているのだろう。


「ねえ。あれ買ってちょうだい」

「わたしも欲しいわ」


 あちこちから女給たちの甘ったるい声がする。客に辻占をねだっているのだ。

「カフェーの許可を得る」どころか、少女と女給たちは、グルなのかもしれない。

 綿入れとエプロンで着膨れた少女は、琉金りゅうきんのようにホールを漂い、小銭と引き換えに辻占を渡している。

 うた子が、佑の背広の袖をつまんだ。


「ね、あたしにも買ってくれないかしら」

「辻占なんて、しょせんは子どもだましだろう」


 苦笑しながらやんわり断ると、うた子は「あら。あの子の辻占は、とってもよく当たるんですからね」と口をとがらせた。


「それにね、あの子はかわいそうな子なんです。おとっつぁんは船乗りで、もうずっと家に帰ってないの。あわれな子を助けると思って、どうぞ買ってやってちょうだい」

「おっかさんは?」


 佑の問いに、うた子は物憂ものうげな表情になった。


「あの子のおっかさんは、ひどい女なんですよ。子どものことなんてほったらかし。毎日盛り場をふらふらしているのよ」

「ほう……。それは気の毒な」

「そうでしょう? かわいそうな子なの。買ってあげましょうよ。あなたはこうして温かい珈琲を飲めるけれど、あの子は辻占が売れなけりゃ、今日のおまんまも食べられないんですからね」


 何度も「かわいそう」と繰り返されては、財布を出さない訳にはいかない。

 佑が手招きすると、少女はエプロンの紐をひらひら揺らしながら、卓に歩み寄ってきた。


「あなたの分とあたしの分と。それから、少しよぶんに買って、お土産にするといいわ」


 佑が財布を出したのに気を良くしたのか、うた子はさらに要求を上乗せしてくる。あやしげなサーヴィスをするカフェーでは、これくらい厚かましくないと生き残れないのだろう。


「でも、僕は所帯を持っていないし、下宿の身だ。土産を渡す相手なんていないよ」

「じゃあ、下宿屋のおかみさんや近所の子どもにでもあげればいいじゃない。きっと喜ばれるわよ」


 うた子の押しの強さに苦笑いし、佑は少女の方に向き直った。


「じゃあ、五つもらおうか」


 少女はとくに嬉しそうな顔もせず、「ひとつ十銭、ぜんぶで五十銭です」と答えた。

 値段を聞いて、ため息をつく。


「辻占にしては、ずいぶん高いね」


 ふてぶてしい少女の態度に呆れつつ、ちくりと抗議する。

 高級な珈琲一杯と辻占ひとつが、ほぼ同じ値段なのだ。ふっかけられるだろうと覚悟はしていたが、あまりにも法外な値段である。


「よく当たります。おまけもきれいです」


 少女は抑揚のない声で、淡々と答えた。「買ってくれ」とさんざんせがんでおきながら、うた子はそっぽを向いて、少女と佑のやりとりから目をそらしている。

 二度とこの店には来るまい。苦々しく思いつつ、佑は言われたとおりに五十銭を払った。

 お愛想のひとつも言わず、少女はさっさと他の卓へ移っていく。


(ちょっと雨宿りするつもりが、とんだ災難になったな)


 運の悪さをひそかに嘆く佑の隣で、うた子がパラフィンの小袋に手を伸ばした。


「あの子の辻占はとても素敵なのよ。開けてもいい?」


 返事も待たず、うた子は細い指先で封を開けた。パラフィン紙がパリパリと音を立てる。

 袋の中から、おみくじと小さなかたまりが転がりだした。うた子は薄荷はっか色のかたまりをつまみ、卓上のランプに透かす。


「ね。きれいでしょう」

「これは、鉱石かい?」

「ええ。あの子の辻占は鉱石いし占いなの。ねえあなた、これはなんて読むの? 教えてちょうだい」


 うた子は同封されていたおみくじを開き、佑に示す。結晶の挿絵の下に、「末小吉 翡翠【Jade】」と書かれている。


「ひすい、ジェイドと読むみたいだね」

「そうなの? あなた、物知りなのねえ」


 何度も客に辻占を買わせ、読み方も知っているだろうに。彼女はわざと物を知らないふりをして、客をおだて、気持ちよくさせているのだ。これもきっと、サーヴィスの一環なのだろう。

 翡翠の結晶を佑の手のひらに乗せ、うた子は「食べてごらんなさいよ」と勧めた。


「食べられるのかい?」

「ええ」


 おそるおそる歯を立てると、しゃくっと結晶が砕ける。優しい甘さが口に広がり、薄荷の香りが鼻を抜けていった。少しざらついた歯ざわり。かじり取った断面が、電燈の光を反射して、きらきらと輝いていた。


「これは……、琥珀糖こはくとうかい?」

「そうよ。寒天で作った琥珀糖の鉱石いし。きれいでおいしいでしょう?」


 うた子はにこりと微笑ほほえんでから、おみくじに視線を落とした。


「でも、残念だわ。『待ち人来たらず』ですって」


 うた子はうつむき、目をしばたたかせた。伏せたまつげが、深い憂いを帯びている。その様子はとても儚げで、先刻までのしたたかな女とは、まるで別人のようだった。


「なんだい、そんなにがっかりして。君、いいひとでもいるのかい?」

「いいえ、まさか。そんなひと、いやしませんよ」


 一瞬見せた寂しそうな表情はすぐに消え、うた子はまたあだっぽく笑った。


「ねえ、あなたも開けてごらんなさいよ」

「ああ、そうだね。せっかくだから開けてみようか」


 小袋をひとつ取り、パラフィン紙を破る。

 中には灰色っぽいマーブル模様の結晶が入っていた。うた子の翡翠と比べ、お世辞にも美しいとは言えない。

 おみくじには、「大吉 金魚石/水入り瑪瑙めのう【Water Agate with goldfish inside】」と書かれていた。


「すごいわ。『金魚石』じゃないの」


 うた子が驚いたように声を上げた。つられておみくじの挿絵を見る。半分に切断した水入り瑪瑙の中で、小さな金魚が泳いでいる様子が描かれていた。


「珍しいのかい?」

「そうよ。大当たり。めったに出ないんだから。琥珀糖の中に金魚の寒天が入っているの。凝ってるのよ」


 興奮した様子で、うた子は佑のおみくじを覗き込んだ。


「あなた、運がいいわ。金魚石を当てたひとは、なんでも願いが叶うんだから」


 心底うらやましそうに、うた子は言った。これだけ金をむしり取っておいて「運がいい」など、怒るより先におかしくなってしまう。


「そうかい。僕には、特に叶えたい願いもないけれど……」


 笑いをかみ殺し、佑は手のひらで結晶を転がした。

 ふと視線を上げると、商売が終わったらしく、辻占売りの少女が外に出ていくところだった。窓の外を、蛇の目をさした赤い人影が、ゆらゆらと通り過ぎていく。


 硝子の向こうをぼんやり眺めるうちに、ふっと天井の電燈が消えた。ぽつぽつと雨垂れに似たノイズを立て、蓄音機が音楽をかなではじめる。

 客と女給たちが席を立った。ペアになった者たちは、胸と胸を密着させ、ゆっくり体を揺らしはじめる。

 いかがわしいサーヴィスをするカフェー。こうして男の腕に抱かれることで、女給たちはチップを稼いでいるのだろう。


「ダンスタイムよ。あたしたちも踊りましょう」


 立ち上がったうた子が、佑に手を差し出した。

 佑はかぶりを振って、彼女の誘いを断る。


「いや。雨も小止みになって来たようだし、僕はそろそろ失敬するよ」


 うた子は不満げに眉を寄せた。

 肩をすくめ、佑は財布を取り出す。


「ご婦人に触れるのは、少々苦手でね。その代わりこれを」


 チップと一緒に、金魚石とおみくじを彼女の手のひらに乗せた。


「船乗りの――君のいいひとが、はやく帰ってくるといいね」


 うた子はちょっと目を見張ってから、花がほころぶように笑った。

 ほのかな卓上ランプの灯りが、彼女の頬を赤く染めている。

 世間ずれした女の中に、金魚のような幼い少女を見た気がした。

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