カフェー・シャトンと金魚石
たつた あお
カフェー・シャトンと金魚石
カフェー・シャトンにようこそ。
ねえ、あなたも「鉱石の辻占」を買ってごらんなさいよ。「金魚石」が出たら大当たり。なんでも願いが叶うんだから。
◇
客先を回った帰り道、銀座を歩いていると、突然雨が降り出した。
通りを歩いていた人々が、慌てて建物の中に駆け込んでいく。
ふと、
白い息を吐きながら重い扉を開ける。冷え切った体に、店内のぬくもりが心地いい。
出迎えた女給に外套と帽子を預けると、すぐに窓際の卓に案内された。
いくつもの色
椅子に腰掛けるやいなや、女給が注文を取りに来た。
寒椿を大胆に配した
しばらく雨音に耳を澄ませていると、注文を取りに来たのとは別の女給が、
「いらっしゃい。この店ははじめて? あたし『うた子』って言います」
本名なのか、源氏名なのか。彼女は媚びを含んだ表情で、下の名だけを口にした。
以前立ち寄った深川のカフェーでは、女給が名乗ったりはしなかった。
銀座には、いかがわしいカフェーが多いと聞く。なるほどこの店も、そういうたぐいの店なのだろう。
うた子は、なにくわぬ顔をして、隣の椅子に腰を下ろした。卓に頬杖をつき、「勤め人なの?」「どこに住んでいるの?」と、さほど興味もなさそうにたずねてくる。
佑もてきとうな返事をしながら、カップに口をつけた。
あやしげな雰囲気のカフェーのこと、あまり味に期待はしていなかったが、意外にも香り高く、あじわい深い珈琲だった。
外では雨が降り続いている。雨粒が窓を叩き、ゆがんだ色硝子を伝い落ちていく。女給と客が話す声。密やかな笑い。それらの間を縫うように、けだるい雨音がカフェーに忍び入ってくる。
同じ調子で続いていた雨が、少しトーンを変えた。
窓の外を、
窓を通り過ぎた少女は、カフェーの扉を開け、店内に入ってきた。
布巾とその下の油紙を外してから、少女はホールに向かって声を張り上げた。
「あわじしまー、かよう千鳥の恋のつじうらー」
愛想笑いすら浮かべず、少女は無表情でカフェーの中を歩き回った。寒い外から来たためか、鼻の頭と頬が
横を通るときにちらりと見やると、籠の中にはパラフィン紙で作られた小袋が、山のように入っていた。
(子どもの
少し興味を引かれ、珈琲をすすりながら観察する。
赤い綿入れには
こんな身なりのまま、堂々と店に入りこんでいるところを見ると、少女は許可を得た上で、カフェーで商売をしているのだろう。
「ねえ。あれ買ってちょうだい」
「わたしも欲しいわ」
あちこちから女給たちの甘ったるい声がする。客に辻占をねだっているのだ。
「カフェーの許可を得る」どころか、少女と女給たちは、グルなのかもしれない。
綿入れとエプロンで着膨れた少女は、
うた子が、佑の背広の袖をつまんだ。
「ね、あたしにも買ってくれないかしら」
「辻占なんて、しょせんは子どもだましだろう」
苦笑しながらやんわり断ると、うた子は「あら。あの子の辻占は、とってもよく当たるんですからね」と口をとがらせた。
「それにね、あの子はかわいそうな子なんです。おとっつぁんは船乗りで、もうずっと家に帰ってないの。
「おっかさんは?」
佑の問いに、うた子は
「あの子のおっかさんは、ひどい女なんですよ。子どものことなんてほったらかし。毎日盛り場をふらふらしているのよ」
「ほう……。それは気の毒な」
「そうでしょう? かわいそうな子なの。買ってあげましょうよ。あなたはこうして温かい珈琲を飲めるけれど、あの子は辻占が売れなけりゃ、今日のおまんまも食べられないんですからね」
何度も「かわいそう」と繰り返されては、財布を出さない訳にはいかない。
佑が手招きすると、少女はエプロンの紐をひらひら揺らしながら、卓に歩み寄ってきた。
「あなたの分とあたしの分と。それから、少しよぶんに買って、お土産にするといいわ」
佑が財布を出したのに気を良くしたのか、うた子はさらに要求を上乗せしてくる。あやしげなサーヴィスをするカフェーでは、これくらい厚かましくないと生き残れないのだろう。
「でも、僕は所帯を持っていないし、下宿の身だ。土産を渡す相手なんていないよ」
「じゃあ、下宿屋のおかみさんや近所の子どもにでもあげればいいじゃない。きっと喜ばれるわよ」
うた子の押しの強さに苦笑いし、佑は少女の方に向き直った。
「じゃあ、五つもらおうか」
少女はとくに嬉しそうな顔もせず、「ひとつ十銭、ぜんぶで五十銭です」と答えた。
値段を聞いて、ため息をつく。
「辻占にしては、ずいぶん高いね」
ふてぶてしい少女の態度に呆れつつ、ちくりと抗議する。
高級な珈琲一杯と辻占ひとつが、ほぼ同じ値段なのだ。ふっかけられるだろうと覚悟はしていたが、あまりにも法外な値段である。
「よく当たります。おまけもきれいです」
少女は抑揚のない声で、淡々と答えた。「買ってくれ」とさんざんせがんでおきながら、うた子はそっぽを向いて、少女と佑のやりとりから目をそらしている。
二度とこの店には来るまい。苦々しく思いつつ、佑は言われたとおりに五十銭を払った。
お愛想のひとつも言わず、少女はさっさと他の卓へ移っていく。
(ちょっと雨宿りするつもりが、とんだ災難になったな)
運の悪さをひそかに嘆く佑の隣で、うた子がパラフィンの小袋に手を伸ばした。
「あの子の辻占はとても素敵なのよ。開けてもいい?」
返事も待たず、うた子は細い指先で封を開けた。パラフィン紙がパリパリと音を立てる。
袋の中から、おみくじと小さなかたまりが転がりだした。うた子は
「ね。きれいでしょう」
「これは、鉱石かい?」
「ええ。あの子の辻占は
うた子は同封されていたおみくじを開き、佑に示す。結晶の挿絵の下に、「末小吉 翡翠【Jade】」と書かれている。
「ひすい、ジェイドと読むみたいだね」
「そうなの? あなた、物知りなのねえ」
何度も客に辻占を買わせ、読み方も知っているだろうに。彼女はわざと物を知らないふりをして、客をおだて、気持ちよくさせているのだ。これもきっと、サーヴィスの一環なのだろう。
翡翠の結晶を佑の手のひらに乗せ、うた子は「食べてごらんなさいよ」と勧めた。
「食べられるのかい?」
「ええ」
おそるおそる歯を立てると、しゃくっと結晶が砕ける。優しい甘さが口に広がり、薄荷の香りが鼻を抜けていった。少しざらついた歯ざわり。かじり取った断面が、電燈の光を反射して、きらきらと輝いていた。
「これは……、
「そうよ。寒天で作った琥珀糖の
うた子はにこりと
「でも、残念だわ。『待ち人来たらず』ですって」
うた子はうつむき、目をしばたたかせた。伏せたまつげが、深い憂いを帯びている。その様子はとても儚げで、先刻までのしたたかな女とは、まるで別人のようだった。
「なんだい、そんなにがっかりして。君、いいひとでもいるのかい?」
「いいえ、まさか。そんなひと、いやしませんよ」
一瞬見せた寂しそうな表情はすぐに消え、うた子はまたあだっぽく笑った。
「ねえ、あなたも開けてごらんなさいよ」
「ああ、そうだね。せっかくだから開けてみようか」
小袋をひとつ取り、パラフィン紙を破る。
中には灰色っぽいマーブル模様の結晶が入っていた。うた子の翡翠と比べ、お世辞にも美しいとは言えない。
おみくじには、「大吉 金魚石/水入り
「すごいわ。『金魚石』じゃないの」
うた子が驚いたように声を上げた。つられておみくじの挿絵を見る。半分に切断した水入り瑪瑙の中で、小さな金魚が泳いでいる様子が描かれていた。
「珍しいのかい?」
「そうよ。大当たり。めったに出ないんだから。琥珀糖の中に金魚の寒天が入っているの。凝ってるのよ」
興奮した様子で、うた子は佑のおみくじを覗き込んだ。
「あなた、運がいいわ。金魚石を当てたひとは、なんでも願いが叶うんだから」
心底うらやましそうに、うた子は言った。これだけ金をむしり取っておいて「運がいい」など、怒るより先におかしくなってしまう。
「そうかい。僕には、特に叶えたい願いもないけれど……」
笑いをかみ殺し、佑は手のひらで結晶を転がした。
ふと視線を上げると、商売が終わったらしく、辻占売りの少女が外に出ていくところだった。窓の外を、蛇の目をさした赤い人影が、ゆらゆらと通り過ぎていく。
硝子の向こうをぼんやり眺めるうちに、ふっと天井の電燈が消えた。ぽつぽつと雨垂れに似たノイズを立て、蓄音機が音楽をかなではじめる。
客と女給たちが席を立った。ペアになった者たちは、胸と胸を密着させ、ゆっくり体を揺らしはじめる。
いかがわしいサーヴィスをするカフェー。こうして男の腕に抱かれることで、女給たちはチップを稼いでいるのだろう。
「ダンスタイムよ。あたしたちも踊りましょう」
立ち上がったうた子が、佑に手を差し出した。
佑はかぶりを振って、彼女の誘いを断る。
「いや。雨も小止みになって来たようだし、僕はそろそろ失敬するよ」
うた子は不満げに眉を寄せた。
肩をすくめ、佑は財布を取り出す。
「ご婦人に触れるのは、少々苦手でね。その代わりこれを」
チップと一緒に、金魚石とおみくじを彼女の手のひらに乗せた。
「船乗りの――君のいいひとが、はやく帰ってくるといいね」
うた子はちょっと目を見張ってから、花がほころぶように笑った。
ほのかな卓上ランプの灯りが、彼女の頬を赤く染めている。
世間ずれした女の中に、金魚のような幼い少女を見た気がした。
カフェー・シャトンと金魚石 たつた あお @tatsuta_ao
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