マイラブ

東雲そわ

第1話

 改札を抜ける度にすり減っていく「私」という残高を数値化することができない世界のおかげで、私は今日も白く汚れた息を吐き、誰かが吐いた無色な呼気を吸っている。




 談笑、という無為な残業をこなして帰宅した時間帯。同じ車両で毎日のように見かけるベルトの寄れたトレンチコートの後に続いて右から二番目の改札を抜けると、正面にある階段を、底の削れたスニーカーでタタンタタンと幼稚な音を鳴らしながら降りていく。駅前のロータリーに両足で降り立ち、エスカレーターをカンカンとヒールを鳴らして降りてきたトレンチコートが颯爽とタクシーに乗り込むのを横目に、誰の目にも止まることのない私は、夜の街に茫漠と広がる人々の中に紛れ込む。


 冷たい夜が長くなるにつれ、街には様々なイルミネーションが灯り始める。目を奪う程に煌びやかで、足を止める程に壮麗な電飾達。温かみのない、人工の光。


 吸い寄せられるようにその光に集まるのは、家族連れや、友人同士、そして互いの傷も知らないような、初心で儚い恋人達。温もりを求める必要のない、温かな繋がりで結ばれた、人々の群れ。


 私はそれらに目を向けることも、足を止めることもせず、毎日変わることのない帰路を歩いている。


 ポケットの奥で、冷たくなったカイロが指先に触れる。今朝の時点で役目を終えたそれを、私はまだ捨てられずにいた。そこにあった温もりが名残惜しいのか、触れる物が何も無くなるのが寂しいのかはわからない。


 駅前の交差点。赤信号を見上げる群衆に紛れ込むと、少しだけ寒さが和らいだ。


 信号待ちの間、電源を切ったままのスマホを取り出そうとショルダーバッグをまさぐり始めたところで信号が青に変わり、群衆が溶けるように動き出す中、一人、出遅れた私の足元に誰かの唾が吐き捨てられる。


 見慣れた光景。


 コンシーラーで汚れることも厭わずに無印のストールに頬まで包まり、再び歩き出した私を、左折待ちのタクシードライバーが無機質な表情で見つめていた。




 人が疎らになり始めた歩道の先に、コンビニの灯りが見えてくる。冷えた身体が暖を求めて、自然と大きくなる歩幅に自重を促し、落ち着いた素振りで店内に入ると、真っ先に日用品のコーナーへ足を向ける。使い捨てのカイロが今朝の分で終わってしまったことを思い出したのだ。


 一枚百円にも満たない、安価な温もり。もっと沢山のお金を出せるなら、人の温もりを買う事も難しくないこの街で、私は今日も使い捨てのカイロを買い求める。


 遅い夕食に常に売れ残っている幕の内弁当と、眠剤代わりの薄いアルコールをカゴに入れレジに向かうと、研修中の札を付けた中年女性がおぼつかない手つきでバーコードを読み取り始める。


 アルコールの年齢確認はされなかった。接客の手順を忘れているのか、気を使われているのか、女性の顔に貼り付いた分厚い笑顔からは読み取れない。化粧映えのしない容姿にコンプレックスを抱く成年女を、いつも腹の底で笑う若い男と、より若い女の声だけがレジ奥の空間から聞こえてくる。


 弁当の温めを断ると、何故か親身に心配された。家に着く頃には冷めてしまうし、どうせ半分も食べずに捨ててしまうのに。二度断りを入れる間に、後続の客が隣のレジに入った若い女の店員から煙草を購入して退店していった。


 お釣りを受け取るときだった。


 店員の指先が、私の掌に不意に触れた。


 くすんだ爪が短く切り揃えられた、辛苦を重ねたがさがさの指先。その温度に、私の全身が悲鳴を上げた。


 最後に差し出されたレシートを無視して、足早に店を出た私に、若い女にダル絡みしていた若い男がハスキーボイスで定型文を吐き捨ててくる。背後で自動ドアが閉まる直前、聞こえてきた中年女性の声は、なぜか少しだけ震えていた。


 店先に置かれたごみ箱から、見るからに家庭ごみと思われるビニール袋がはみ出していた。私はその光景を睨みつけ、ポケットから取り出した冷たいカイロを思いきり投げ捨てた。

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