深遠に潜む井戸

白雪花房

第1話


 深い森は神秘で満ちている。ローファーでふかふかとした土の上を通るだけで爽やかな緑が視界を覆い、涼しい風が吹き抜けていった。

 なのに空気が重い。梅雨は過ぎたはずなのに湿っぽさが全体に立ち込める。

 日陰になった道を進む。木々に囲まれた先にはぽかんと開けた空間があった。

 中央には石造りの井戸がある。古びた印象だけど堅牢さは確かなようだ。きっと隕石が落ちてきたって砕けやしない。それだけに災いの元を封印しているかのような恐ろしさがあった。見るからに厄ネタ。今も、警戒色のテープを張り巡らされている。まるでここになにかありますよと伝えてくるようじゃない。

「本当は近づくべきじゃないんだろうけど」

 私は井戸の底を覗き込むように、目をこらす。先には深淵が広がっているだけで、なにも見通せない。

 しばらくじっと眺めてみるけれど。

 しーん。なにも起こらない。

 帰ろうか。思った矢先、鋭い風があたりを駆け抜ける。びくっと肩が震えた。肌が泡立っている。なぜか胸騒ぎがした。

 でもいったいなんだというの? 不穏な気配の正体すら、今はつかめない。

 首をひねり、背を向ける。とにかくここにいたくない。さっさと走り出す。まるで心霊スポットから逃れるように足早だった。


 私、暗闇って苦手なんだよ。お化け屋敷とか一人で行けないし、停電の際もビクビクして、縮こまっていた。

 ほら、闇は不気味でしょう。おばけが出そうで、気が気ではない。まあ、そんなもの、いるわけがないのだけど。

 軽い気持ちで思いつつ、振り返る。後方には広大な森。こんもりとした緑色。まるでなにかを隠しているよう。あの中に偉大な人の墓でもあるかのだろうか。

 目をそらすように前を向く。私は一生振り向かないつもりで、足を進めた。


 歩道を通り、角を曲がる。隅には《ここは旧辰巳村》と看板が立てかけてあった。ほかには言うことはないのか、空白。実に殺風景な案内だ。

 せめて観光客へアピールできる点でもあればよかったのだけど、いかんせん辺鄙な場所だ。なにが盛んな場所なのかも分からない。いったいぜんたい、こんなところになんの価値があるのやら。

 ただ妙な話はやけに聞く。たとえば先週、休み時間に友達の詩織と話していた時のことだ。


「例の湖には龍がいてね、昔は美人を生贄に怒りを鎮めてたんだって。希実も気をつけてね、きれいなんだから」

「余計なお世話よ」

 そっぽを向く。今どき、変な伝説なんて信じても仕方がない。第一、私の容姿が優れているからなんだ。こんな田舎で持ち上げられたって嬉しくはない。どうせ都会にいったらその他大勢にカウントされて、埋もれるのでしょう。

 私は相手から目をそらし、自分の席と向き合った。


 当時は彼女の話をスルーしていたのだけど、今になって気になってくる。この村にはいったいなにがあるんだろうか。ぼんやりと考えながら眉を寄せ、空を見つめる。曖昧に曇った色。まだ薄暗い夕闇だった。


 次の日の学校。授業を終わらせ昼休みに突入する。私は即、学食でパンを買ってきて、席に戻った。

 隣には同級生の詩織の姿。彼女はきれいな暗髪をセーラーカラーの背中に流し、膝下丈のスカートで脚を揃えて座っている。机には弁当を広げて、ちびちびと食べている。色とりどりで美味しそう。

 いいなと見つめつつちょうどいい機会なのでと、口を開く。


「うちの井戸、なんで厳重に管理されてるの? まるで汚染物質かなにかみたいな扱いじゃない」

「みたいじゃなくて、実際にそうなんでしょ」

 軽い調子で口にする。私は訝しむようにそちらを見た。ちょうどパンを弄んでいる最中。詩織はゆっくりとこちらに視線を合わし、続きを述べる。

「井戸といったら異界に繋がってるって有名だよ。水の精とも関わりがあるみたいでね、もしかしたらこの村の龍もあそこから湧いてきたのかもね」

「龍が実在するような言い草はやめてってば」

 この世に神秘の類なんているわけがないのに。

「それで、実際に井戸の底に到達した人はいないの?」

 詩織は静かに首を横に振った。

「誰も試しに行かないから真相は誰も知らない。ただ、こんな噂があるの。井戸の底は闇に繋がっている。あるとき誰かが深淵に繋がる扉を開けて、そこから厄災が漏れ出た。だけど、底には希望が残ったっていう」

「パンドラの箱? 盗作は駄目でしょう」

「神話なんてどれも似たようなものだよ」

 軽い調子で言い捨て、詩織は箸を動かし始めた。

 フレッシュなサラダやジューシーなウインナーを食べる彼女を見つつ、こちらもパンをもさもさと咀嚼する。

「まあ龍の話は今は関係ないから、聞き流してくれて構わないんだけど」

 詩織の話は半信半疑。創作として聞き流す。災厄が云々と聞いたけれど実際になにも起きていないのなら封印は成功しているということ。いずれにせよ自分には関係のない話だ。

「ああそうだ。五時限目体育でしょ」

「それがどうかした?」

「バレー部のホープとしての力、見せ所じゃない。頑張ってね」

 にっこりと笑みを見せ、また弁当と向き合う詩織。

 当の私は今日の体育ってバレーだっけ? と上の空。なにがきても頑張るつもりだからなんでもいいけど。


 昼休みが終わる。体操着に着替えて体育館集合。待ち受けていたのはバスケの授業だった。そこはバレーであれよ。ツッコミたいがぐっとこらえて体育に集中する。コートで二つのチームに分かれて、試合開始だ。

 私は枠線の内側を駆け抜け、ボールをゲット。ストレートにゴールまで走り、シュート。まずは一点。さらに二点。次々と決めていく。

「ひゅー! さすがはホープ!」

 観客側から歓声が上がる。見ると女子生徒たちが拳を突き上げ、応援していた。

 めちゃくちゃ褒められている。嬉しいけれど、恥ずかしい。変な仇名をつけられた気分だ。とはいえ、実際にバレー部のエースを張らせてもらっているのも事実。去年は県大会まで出場した。全国大会まで行かないところが中途半端だけど、こんな田舎からよい成績を残せただけ、十分だろう。

 さあ、夏休みは近い。今年も気合を入れていかないと。


 午後の授業の後の部活もさらっと完了。特に疲労もなく一日を終える。むしろ活力が湧いてきた。

 家に帰って入浴を済ませてから、宿題に取り組む。勉強机に向き合い、スタンドライトに照らされながら、ノートをめくる。白いページにシャープペンシルと色ペンを走らせ、ふと思い出すのは昔話だった。

 井戸は異界に繋がっていて、厄災が封印されていて、底に希望がある。

 普段ならスルーしているのに気になってしまうのは、実際に現場に足を踏み入れたせいだろうか。そして妙な気配――ひんやりとした感覚が肌を包んだ。まるで霊感が働いたみたいに、はっとなって。


 いやいや、ありえない。オカルトにまじになってどうするの。

 ブンブンと頭を振ると短くカットした毛束が頬を叩いた。

 早いところ勉強を終わらせて寝よう。そして先日のことはきれいさっぱり忘れてしまうのだ。

 私は現実逃避をするようにシャープペンシルを動かす。板書をコピーするように書き、問題集を解き終え、パタンとノートを閉じた。

 パジャマに着替え、ベッドへゴー。体には薄い布団をかけ、目を閉じた。視界は黒く染まる。私は沈むように夢の世界に旅立った。


 森。暗い。薄黒い空。昼なのに夜みたい。井戸の前に立っている。石の周りはなにもついていない。その違和感に一瞬気づかなかった。

 背後では小鳥たちの鳴き声。騒がしい。警報を鳴らしているみたい。

 先ほどから風が荒ぶっている。嵐でも迫りつつあるのか。怯えた気持ちになりつつ前を見据える。

 眉を寄せていると、急に井戸から禍々しい気配が立ち上った。暗い底からなにかが這い出てくる。それはこんもりとした形の影で、ホラー映画に出てくるあやかしのようだった。

 黒い物体には木の実のような目がついていて、きょろきょろとあたりを見渡す。その信号みたいな赤が、こちらを向いた。目が合う。

 びくん。

 なぜか盗みがばれたような感覚。心臓が停まるかと思った。衝撃が胸を突き上げ、恐怖に支配される体。

 叫びだしそうになる。たまらず目をぎゅっとつぶり、大きな口を開けた。


「きゃあ!」

 ガバッと起き上がる。

 部屋。薄暗い。朝。ベッドの上。手元には薄い布団。パジャマ姿の自分。

 なんだ夢か。そうだよね。あやかしなんて創作みたいな話、あるわけない。心を落ち着かせ、首を何度も振る。

 全てをなかったことにして起き上がろうとした。

 ふと時計が目に入る。午後七時。通常なら明るくなっている時間帯だ。冬じゃないのに夜明け前みたいな空の色。こんなのってあり?

 また、心がざわめく。脳裏をよぎったのはやはり、井戸だった。古びた石造り。真ん中にぽっかりと空いた暗黒。

 ビジョンを振り払おうとしても無駄みたい。

 突き動かされるように私はベッドを出た。


 パジャマから私服に着替える。急いでいたから適当なもの。

 家を出る。住民はすでに外にいて話していた。

「ねえ、なにこれ。日食でもないのに」

「おかしいよね」

 ざわざわとした声が耳をかすめる。

 思い出すのはやはり、詩織から聞いた伝説。厄災が現れ世界を闇が包むビジョンが浮かぶ。

 でも、ありえない。今回はたまたま太陽が隠れていて、薄暗く感じるだけだ。

 ブンブン首を横に振り、顔を上げる。目をパチっと開け、固まった。視界に入ったのは薄灰色の空。雲の影はなく夜明け前の静けさだけが、村を包んでいた。

 嘘……。

 本当に伝説が現実に侵食しつつあるわけ? でも、どうしてこんなことに……。

 思い当たることがあるとすれば私が森に入ったこと。それがトリガーだったのかもしれない。当事者になってしまっただけに気が気でない。頬にはいつの間にか汗に雫が浮かぶ。

 行かなくちゃ。

 加速する焦りに拳を握り込み私は彼方を向き、アスファルトを蹴った。


 人気のない場所から奥へと進み、緑の中へ突入する。先日来た道と同じようにローファーを進めると空いた空間にたどり着いた。

 薄暗い影の真ん中に井戸がある。

 うわぁ……。テープが取れている。嫌な予感しかしなくて顔が歪む。これは行けと言われているようなものではないか。

 覚悟は決めたつもりだけど実際に相対すると緊張するな。

 ひとまず深呼吸。心を鎮める。

 ぱちっとまぶたを開け、前を見据えた。堅い決意を胸に一歩を踏み出す。井戸の石へと触れ、上から垂れるロープを掴んだ。

 体はすっと闇の中へと入る。

 ロープを頼りに一歩一歩下へ降りる。慎重に底を目指す。あたりが暗い。足元すら見えない闇に、恐怖が込み上げてくる。

 やっぱりやめたほうがよかったかな。早く上がろう。今ならまだ間に合うよ。

 弱音を吐きそうになる気持ちをぐっと飲み込む。

 震えだした私の心。思考すら曖昧になる中頭をよぎったのは、クラスメイトたちだった。なんでもない私に期待を寄せてくれたみんな。彼らのことを思うと暮れがかった心に勇気がにじむ。

 そうだ、私は負けない。なんてったってホープなのだから。世界に光を届けに行くことくらい、造作もない。

 漆黒の恐怖を心の光が払う。禍々しい気配がじりじりと引いていく。なんとか取り込まれずに済んだようだ。

 ほっと息をつくや、ローファーが地についた。闇の中にほんのりと黄色く色づく光がある。それは蛍のように周りを照らし、ぽわんと漂っていた。

 掴み取ろうと手のひらを広げてみる。光はきちんと収まった。私服が淡い色に染まる。本当に幻想的。まるで夢の世界に飛び込んだみたいだ。

 思った瞬間、視界に靄がかかる。意識はベールを被ったように薄れていった。


 気がついたら外にいた。背の低い民家が立ち並ぶ通り。辰巳村の中だ。狭い道路をくすんだ色の自動車や軽トラックが走り、配達員のオートバイが行き来している。こじんまりとした庭では主婦が朝の挨拶を交わしていた。何事もなかったかのように稼働する人々。私だけが夢に取り残されたように、ぼうぜんとしている。

「どうしたの? 大丈夫?」

 声を掛けられる。振り向くと、暗髪の女子高生。膝下丈のスカートをはいた詩織だ。彼女はスクールバッグを肩に下げ、訝しむようにこちらを見ている。

「今、井戸に行ってたのよ。闇を祓って希望の光を灯してきたってわけ」

 説明すると彼女は困った顔で首をかしげた。

「本当よ。いいからついてきて」

 私は詩織の腕を引っ張って、森の奥まで連れて行く。


 木々の隙間を縫うようにして進む。木漏れ日が差し込む明るい雰囲気。黄緑色が視界にちらつき、暖かな空気が肌を包んだ。

 軽やかに歩を進めてみれば目的の場所までたどり着く。

「こんな場所に連れてきて秘密基地でも作るつもり?」

「だから言ってるでしょ。私は光をすくい取ったんだって」

「さっきからなに言ってるのか分からないんだけど」

 詩織は眉を寄せて口を曲げる。

 確かに荒唐無稽な話。信じられないかもしれない。だけど自分の為したことは夢ではない。分からないなら見てみてよと後ろを指そうとして、停まる。

「だって井戸なんて、この村にはないでしょう?」

 ぞっと冷たい感覚が頬を撫でた。目を大きく見開き固まる。恐る恐る見てみれば空っぽの土地が広がるだけ。あるはずのものがない。思わずギョッとした。

「ほら、行こう」

 友達が去っていく。

 私はすっかり立ちすくんじゃって、なかなか動き出せない。凍りついた肌を生ぬるい風が包む。無造作にセットしたショートヘアがただ、なびいていた。


 あれから井戸を探したけれど、それらしいものは見つからなかった。まるで闇と一緒にかの伝説すら洗い流されてしまったかのように。

 クラスメイトにも話を聞いたけれど、皆首をかしげるだけだった。井戸の件はおろか世界が闇に包まれたことすら、誰も知らない。

 それっきり私は口を閉じた。

 あの話は自分だけのもの。自分の胸に収めておくべきだと。

 平穏なまま毎日が過ぎている。空はあいも変わらず青く澄み渡り、太陽は柔らかく大地を照らしていた。

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深遠に潜む井戸 白雪花房 @snowhite

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