深遠に潜む井戸
白雪花房
恐怖の井戸と静寂の森
深い森の空気は重い。梅雨は終わったはずなのに、湿っぽさが立ち込めている。
日陰の道を進むと、木々に囲まれた開けた場所が見えてきた。
中央には古びた石の井戸がある。恐ろしげなものを封印していそうな雰囲気であり、今も警戒色のテープを張り巡らせてあった。
「本当は近づかないほうがいいだろうけど」
私は井戸の底を覗き込んだ。深淵が広がっているだけで、なにも見えない。
帰ろうかと思った矢先、鋭い風があたりを駆け抜ける。びくっと肩が震えた。肌が泡立ち、なぜか胸が騒ぎ出す。
でもいったいなんだというの? 不穏な気配の正体すら、今はつかめない。
首をひねり、背を向ける。とにかくここにいたくない。さっさと走り出す。まるで心霊スポットから逃れるように足早だった。
私、暗いところが苦手なんだ。お化け屋敷とか一人で行けないし、停電が起こるとビクビクして、縮こまっていた。
ほら、闇は不気味でしょう。おばけが出そうで、気が気ではない。まあ、そんなもの、いるわけがないのだけど。
軽い気持ちで振り返ると後ろには、広大な森があって緑がこんもりとしている。まるでなにかを隠しているみたい。あの中に偉大な人の墓でもあるかのだろうか。
目をそらして前を向く。私は二度と振り向かないつもりで、足を進めた。
歩道を進んで角を曲がる。隅には《ここは旧辰巳村》と看板が立てかけてあった。ほかにはなにも書いていない。
せめて観光客へアピールできる点でもあればよかったのだけど、いかんせん辺鄙な場所だ。なにが盛んなところなのかも分からない。いったいぜんたい、こんなところになんの価値があるのやら。
ただ妙な話はやけに聞く。たとえば先週、休み時間に友達の詩織と話していた時のこと。
「例の湖には龍がいてね、昔は美人を生贄にしてたんだって。希実も気をつけてね、きれいなんだから」
「余計なお世話よ」
そっぽを向く。今どき、変な伝説なんて信じても仕方がない。第一、私の容姿が優れているからなんだ。こんな田舎で持ち上げられたって嬉しくはない。どうせ都会にいったらその他大勢にカウントされるだけなんだから。
私は相手から目をそらし、自分の席と向き合った。
当時は彼女の話をスルーしていたのだけど、今になって気になってくる。この村にはいったいなにがあるんだろうか。ぼんやり考えながら眉を寄せ、空を見つめる。曖昧に曇った色。まだ薄暗い夕闇だった。
次の日の昼休み。
授業が終わると私はすぐに学食でパンを買ってきて、席に戻った。
となりには同級生の詩織の姿。彼女はきれいな暗髪をセーラーカラーの背中に流し、膝下丈のスカートで脚を揃えて座っている。机には弁当を広げて、ちびちびと食べている。色とりどりで美味しそうだ。
いいなと見つめつつちょうどいい機会なのでと、口を開く。
「うちの井戸、なんで厳重に管理されてるの? まるで汚染物質かなにかみたいな扱いじゃない」
「みたいじゃなくて、実際にそうなんでしょ」
軽い調子で口にする。私は眉をひそめながらそちらを見た。ちょうどパンを弄んでいる最中。詩織はゆっくりとこちらに視線を合わし、続きを述べる。
「井戸といったら異界に繋がってるって有名だよ。水の精とも関わりがあるみたいでね、もしかしたらこの村の龍もあそこから湧いてきたのかもね」
「龍が実在するような言い草はやめてってば」
この世に神秘の類なんているわけがないのに。
「それで、実際に井戸の底に着いた人はいないの?」
詩織は静かに首を横に振った。
「誰も試しに行かないから真相は誰も知らない。ただ、こんな噂があるの。井戸の底は闇に繋がっている。あるとき誰かが深淵に繋がる扉を開けて、そこから厄災が漏れ出た。だけど、底には希望が残ったっていう」
「パンドラの箱? 盗作は駄目でしょう」
「神話なんてどれも似たようなものだよ」
軽い調子で言い捨て、詩織は箸を動かし始めた。
フレッシュなサラダやジューシーなウインナーを食べる彼女を見つつ、こちらもパンをもさもさと咀嚼する。
「まあ龍の話は今は関係ないから、聞き流してくれて構わないんだけど」
詩織の話は半信半疑。創作として聞き流す。
災厄が云々と聞いたけれど実際になにも起きていない。つまり、大丈夫ということだよね。私は天井付近を眺めながら、首をかしげる。
「ああそうだ。五時限目体育でしょ」
「それがどうかした?」
「バレー部のホープとしての力、見せ所じゃない。頑張ってね」
にっこりと笑みを見せ、また弁当と向き合う詩織。
当の私は今日の体育ってバレーだっけ? と上の空。なにがきても頑張るつもりだからなんでもいいけど。
昼休みが終わる。体操着に着替えて体育館集合。私たちを待ってていたのはバスケの授業だった。そこはバレーであれよ。
ツッコミたいがぐっとこらえて体育に集中する。コートで二つのチームに分かれて、試合開始だ。
私は枠線の内側を駆け抜け、ボールをゲット。ストレートにゴールまで走り、シュート。
まずは一点。さらに二点。
次々と決めていく。
「ひゅー! さすがはホープ!」
歓声が上がる。見ると観客席で女子生徒たちが拳を突き上げ、応援していた。
めちゃくちゃ褒められている。嬉しいけど、恥ずかしい。変な仇名をつけられた気分だ。
とはいえ、実際にバレー部のエースを張らせてもらっているのも事実。去年は県大会まで出場した。全国大会まで行かないところが中途半端だけど、こんな田舎からよい成績を残せただけ、十分だろう。
さあ、夏休みは近い。今年も気合を入れていかないと。
午後の授業の後の部活もさらっと完了。特に疲れも感じずに一日を終える。むしろ活力が湧いてきたところだ。
家に帰って入浴を済ませてから、宿題に取り組む。勉強机に向き合い、スタンドライトに照らされながら、ノートをめくる。白いページにシャープペンシルと色ペンを走らせ、ふと思い出すのは昔話だった。
井戸は異界に繋がっていて、厄災が封印されていて、底に希望がある。
普段ならスルーしているのに気になってしまうのは、実際に現場に足を踏み入れたせいだろうか。そして妙な気配――ひんやりとした感覚が肌を包んだ。まるで霊感が働いたみたいに、ハッとなって。
いやいや、ありえない。オカルトにまじになってどうするの。
ブンブンと頭を振ると短くカットした毛束が頬を叩いた。
早いところ勉強を終わらせて寝よう。私は現実逃避をするように高速で宿題を終わらせ、パタンとノートを閉じた。
パジャマに着替え、ベッドへゴー。体には薄い布団をかけ、目を閉じた。視界は黒く染まる。私は沈むように夢の世界に旅立った。
森は闇に染まって、空は薄暗い。昼間なのにまるで夜のような雰囲気だ。
井戸の前に立っているけれど、石の周りにはなにもない。始めはその違和感に気づかなかった。
小鳥たちの鳴き声が騒がしい。警報を鳴らしているかのようだ。
先ほどから風が荒ぶっている。嵐でも迫りつつあるのか。怯えた気持ちになりつつ前を見据える。
眉を寄せていると、急に井戸から禍々しい気配が立ち上った。暗い底からなにかがはい出てくる。それはこんもりとした形の影で、ホラー映画に出てくるあやかしのようだった。
黒い物体には木の実のような目がついていて、きょろきょろとあたりを見渡す。その信号みたいな赤が、こちらを向いた。目が合う。
びくん。
なぜか盗みがばれたような感覚。心臓が停まるかと思った。衝撃が胸を突き上げ、恐怖が全身を支配する。
叫び出したい衝動に駆られ、思わず目をぎゅっと閉じて、大きく口を開けた。
「きゃあ!」
ガバッと起き上がる。
部屋。薄暗い。朝。ベッドの上。手元には薄い布団。パジャマ姿の自分。
大丈夫。無事だ。でも、心が震えている。生きた心地がしない。夢、だよね。あやかしなんて創作みたいな話、あるわけがない。
顔を引きつらせて口の端をつり上げたそばから、頬の端を大粒の汗が伝って、滑り落ちていく。冷たい感覚が背中を上り、思わず身震いした。
先ほどから鳥肌が止まらない。心拍数が高まり、ぞわぞわと胸騒ぎがする。
落ち着け落ち着け。何度も自分に言い聞かせ、首を振る。
全てをなかったことにして起き上がろうとした。
ふと時計が目に入る。午前七時。通常なら明るくなっている時間帯だ。冬でもないのに空は夜明け前のように薄青い。こんなのってあり?
心がざわつく。思い浮かぶのはやはり井戸。古びた石造りで、中央には暗い穴が開いている。
脳裏に焼き付いたビジョンを拭いたい。首を横に振る。幻想は消えない。
蘇るビジョン、脳に焼き付いて離れない。ブンブン、首を横に振る。幻想を打ち消そうとしても、無駄みたい。
早くしなくちゃ。逸る気持ちが胸を締め付ける。私は深呼吸をした後、心に火をつけ、カッと目を見開いた。
体に力を入れ、ガタッと身を起こす。私は突き動かされるように、飛び出した。
パジャマから私服に着替える。急いでいたから適当なものを選んだ。
家を出る。住民はすでに外にいて話していた。
「ねえ、なにこれ。日食でもないのに」
「おかしいよね」
ざわざわとした声が耳をかすめる。
思い出すのはやはり、詩織から聞いた伝説。厄災が現れ、世界が闇に包まれる光景が頭に浮かぶ。
目の前には薄い灰色の空が広がっていて、夜明け前の静けさが村を包み込んでいる。本当に伝説が現実に侵食しているみたいだ。
でも、どうしてこんなことに……。
思い当たることがあるとすれば私が森に入ったこと。もしかしたら、それがトリガーだったのかもしれない。
うっかり、当事者になってしまっただけに責任を感じる。
心がざわざわ、落ち着かない。不安定さが地面から立ち上る。
いつの間にか汗をかいていた。手のひらを握るだけで滑りそうになる。まるで大切なものが失われていくかのような、恐怖。
足元からも力が抜けた。地面が傾き、暗転しそうな感覚。思わず崩れそうになるところ、ぐっとこらえて。
なんとか保つ、自分の芯。跳ね上がる鼓動を収めるため、気持ちを無にする。
目を閉じ、暗転した視界。
暗闇の中に明確な炎が灯る。
行かなくちゃ。
なんとか踏ん張り、顔を上げる。私は彼方を向き、アスファルトを蹴った。
人気のない場所から奥へと進み、緑の中へ突入する。先日来た道と同じようにローファーを進めると空いた空間にたどり着いた。
薄暗い影の真ん中に井戸がある。
うわぁ……。テープが取れている。嫌な予感しかしなくて顔が歪む。これは行けと言われているようなものではないか。
覚悟は決めたつもりだけど実際に相対すると緊張するな。
ひとまず深呼吸。心を鎮める。
ぱちっとまぶたを開け、前を見据えた。堅い決意を胸に、一歩踏み出す。井戸の石へと触れ、上から垂れるロープを掴んだ。
体はすっと闇の中へと入る。
ロープを頼りに一歩一歩下へ降りる。慎重に底を目指す。あたりが暗い。足元すら見えない闇。恐怖が込み上げてくる。
やっぱりやめたほうがよかったかな。早く上がろう。今ならまだ間に合うよ。
弱音を吐きそうになる気持ちをぐっと飲み込む。
震えだした私の心。思考すら曖昧になる。
頭をよぎったのは、クラスメイトたち。なんでもない私に期待を寄せてくれたみんな。彼らのことを思うと暮れがかった心に勇気がにじむ。
そうだ、私は負けない。なんてったってホープなのだから。世界に光を届けに行くことくらい、造作もない。
漆黒の恐怖を心の光が払う。禍々しい気配がじりじりと引いていく。なんとか取り込まれずに済んだようだ。
ほっと息をつくや、ローファーが地についた。闇の中にほんのりと黄色く色づく光がある。それは蛍のように周りを照らし、ぽわんと漂っていた。
掴み取ろうと手のひらを広げてみる。光はきちんと収まった。私服が淡い色に染まる。本当に幻想的。まるで夢の世界に飛び込んだみたいだ。
思った瞬間、視界に靄がかかる。意識はベールを被ったように薄れていった。
気がついたら外にいた。背の低い民家が立ち並ぶ通り。辰巳村の中だ。狭い道路をくすんだ色の自動車や軽トラックが走り、配達員のオートバイが行き来している。こじんまりとした庭では主婦が朝の挨拶を交わしていた。何事もなかったかのように稼働する人々。私だけが夢に取り残されたように、ぼうぜんとしている。
「どうしたの? 大丈夫?」
声を掛けられる。振り向くと、暗髪の女子高生。膝下丈のスカートをはいた詩織だ。彼女はスクールバッグを肩に下げ、訝しむようにこちらを見ている。
「今、井戸に行ってたのよ。闇を祓って希望の光を灯してきたってわけ」
説明すると彼女は困った顔で首をかしげた。
「本当よ。いいからついてきて」
私は詩織の腕を引っ張って、森の奥まで連れて行く。
木々の隙間を縫うようにして進む。木漏れ日が差し込む明るい雰囲気。黄緑色が視界にちらつき、暖かな空気が肌を包んだ。
軽やかに歩を進めてみれば目的の場所までたどり着く。
「こんな場所に連れてきて秘密基地でも作るつもり?」
「だから言ってるでしょ。私は光をすくい取ったんだって」
「さっきからなに言ってるのか分からないんだけど」
詩織は眉を寄せて口を曲げる。
確かに荒唐無稽な話。信じられないかもしれない。だけど自分の為したことは夢ではない。分からないなら見てみてよと後ろを指そうとして、停まる。
「だって井戸なんて、この村にはないでしょう?」
ぞっと冷たい感覚が頬を撫でた。目を大きく見開き固まる。恐る恐る見てみれば空っぽの土地が広がるだけ。あるはずのものがない。思わずギョッとした。
「ほら、行こう」
友達が去っていく。
私はすっかり立ちすくんじゃって、なかなか動き出せない。凍りついた肌を生ぬるい風が包む。無造作にセットしたショートヘアがただ、なびいていた。
あれから井戸を探したけれど、それらしいものは見つからなかった。まるで闇と一緒にかの伝説すら洗い流されてしまったかのように。
クラスメイトにも話を聞いたけれど、皆首をかしげるだけだった。井戸の件はおろか世界が闇に包まれたことすら、誰も知らない。
それっきり私は口を閉じた。
あの話は自分だけのもの。自分の胸に収めておくべきだと。
平穏なまま毎日が過ぎている。空はあいも変わらず青く澄み渡り、太陽は柔らかく大地を照らしていた。
深遠に潜む井戸 白雪花房 @snowhite
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