人魚の友人

柚木呂高

人魚の友人

 花布芙蓉はなぎれふようは仕事の帰りに友人の璋子たまこと飲みに行った。酔郷譚に倣ってシュでもヨウでもなく、ましてはレイでもない、待賢門院たいけんもんいんの璋子と書く。コロコロと鳴るように笑う女で、高校時代から大学まで一緒だった親友である。会社は残念ながら別々になってしまったが、似たような業界だからか、互いに生活のリズムは似ており、こうやって共だって酒を遊びに行くのは珍しいことではなかった。


 二人は酒に強いわけではなかったが好きであった。行きつけのバーでピスタチオとチーズをつまみながら旬のフルーツを使ったカクテルを楽しんでいた。高校時代の話や仕事の愚痴、最近聴いた音楽、気になるデザイナーの話など、二人の間の話は色を変え音を変え行き来した。ふと璋子は神妙な顔つきをして手を口に当てると、周りをキョロキョロと伺いながら小声で芙蓉に話しかけた。


「私、実は人魚なのよ」


 彼女の青白く妖艶で真珠のように美しい顔は妖怪の類と言えば確かにそうだと信ぜられる風情があった。それがおかしくて芙蓉はくっくっと笑い、璋子の肩を平手で軽く打った。璋子もくっくっと押し殺したように笑って、次第わっと花開くように二人声をあげて笑った。氷がからんと音鳴って酒が揺れた。


 宵も酔い、足元のおぼつかぬ足取りで二人は転ばぬよう手を繋ぎながら帰路を進む。そこの電灯の先でコートの男がひとりぼうと闇の中に立っていた。その姿が不気味なので避けながら通り過ぎて暫く歩いていると、先程の男が声をあげながら走って来るではないか。ぎょっとして二人は逃げ出すが、璋子は足がもつれて勢い前につんのめるようにうつ伏せに倒れてしまった。手があっと離れてしまい、芙蓉は立ち止まって振り向いた。璋子に手を伸ばそうとしたところ、男は手に持っていたくわのようなもので、璋子の首と手をもろともにぶつんと切り落とした。血がチョコレートフォンデュの噴水のように切り口からあふれ出る。


「きゃああああっ」


 芙蓉は腰が抜けてその場にへたり込んでしまった。殺人鬼たる男は鍬で倒れている璋子の四肢をがつん、ぶつんと丁寧に切り分けていく。芙蓉は恐怖の余り震えが止まらない、何をすれば良いのかもすっぽりと空っぽになってしまい、体はジッと脳の命令を待っていた。男は畑仕事を終えたかのようにふうと一息つくと、芙蓉の方をチラリと見る。もうひと仕事やらなくてはならないことに煩わしさ見せつつもやりがいを感じている風な足取りで彼女に近付く。その瞬間、居眠り運転のトラックが男を轢き、そのまま壁に激突してしまった。男は水風船が割れたようにバラバラに散らばり、運転手は気を失っていた。芙蓉はやっと足が動くようになり、その場から逃げ出そうと立ち上がると、璋子の首がパクパクを不気味に動いているのを見た。


「ちょっと、待って、私も連れて行ってよ」


 そう言われたら放っておくことはできないので、芙蓉は璋子の首を小脇に抱えると、そそくさとその場を去り自宅へと戻ったのだった。



 璋子は「あー、びっくりした」と言うとため息を一つついた。芙蓉はウォターサーバーから水をグラス一杯に満たしてぐいと飲み干すと、もう一杯を璋子の首に飲ませてやった。


「ありがとう、血が沢山流れたから喉が乾いていたのよ」

「璋子が意外と元気そうで私は驚いているよ」

「言ったでしょう、私は人魚だから。そう簡単には死なないのよ」

「不死身なのは肉を食べた人だと思っていた」

「人は人魚のことなんて大して知らないじゃない、私たちはそういうものなのよ」


 確かに実際に人魚の研究記録など科学的なものはそうそうお目にかかれないし、人魚にそういうものだと言われてしまったら信ずる他ない。芙蓉は「なるほど」とわかったようなわからないような曖昧な返事をした、特に納得は重要ではなかったのでこれは「ふうん」とか「へえ」とかと置き換えが可能な言葉である。これからどうしたら良いものかと考えあぐねいていると璋子がとりあえず水の中に入れて欲しいと言うので、少し前まで飼っていたベタの水槽に水を張ってその中に璋子の頭をとぷんと沈めた。


「はあ、生き返るようだわ」

「生きている方が不思議だよ」

「会社どうしようかなぁ」

「あ、耳、ファンタスティック・プラネットのドラーグ族みたいになってる」

「ああ、水の中で動くために耳をヒレのようにすることができるのよ」


 長年付き合っていてもお互いに知らないことは結構あるものだなぁと芙蓉はしみじみに思った。水槽の中で璋子はちょっと窮屈そうであったが、泳いでいる姿は堂に入っておりいっそ優雅だった。


「とりあえず、会社に連絡して明日から暫く出られないことを伝えないと。あと家賃の振り込み、一応貯金はそれなりにあるから大丈夫だとして、家のガスとか電気とかインターネットとか止める手続きしなきゃ」

「会社へのメールなら代わりに打ってあげるよ」

「ありがと、ついでに頼まれてほしいんだけど、明日私の家からノートPCとAlexa持ってきて。あと通帳とか貴重品類。ガスとか電気とかは私が自分で電話しておく」


 そう言って璋子は口からべっとスマートフォンを吐き出すと、器用に舌で操作しながら音声入力でインターネットの停止の手続きを行っている。


「んで、本当にごめんなんだけど、体が生えてくるまで暫く芙蓉の家で養ってくれない?必要なお金は私の貯金から使ってくれれば良いから」

「それは構わないけど、体って生えてくるもんなんだ」

「人間だって首だけになっても死ななければ生えてくるかも知れないわよ」

「前提が難しいね。そう言えば栞と紙魚子に生首の飼い方があったね」

「私は生首だけれど、人魚だから条件が違うわよ、普通に朝食とかは一緒にテーブルで取らせてもらうから。食事内容も今までと変わらないわよ」

「じゃあ明日の朝はベーコンとチーズのサンドイッチなのでよろしく」


 人心地ついて、芙蓉も落ち着きを取り戻してきた。友人が生首になったとしても、こう普段どおりに振る舞われると、なんだか騒ぐのも馬鹿らしくなってしまう。芙蓉はため息をついて着替えを出して風呂を貯めに行った。


「ねえ、お風呂入るなら私も一緒に入れてよ。助けてくれたお礼もしたいし」

「うん、いいよ。あ、お礼はいいからね」


 友人の首を小脇に抱えて入浴するのは不思議なものだ、多くの人の人生で余りお目にかかれない経験である。芙蓉は璋子の髪を洗ってやり、メイク落としと洗顔をし、浴槽に沈めた、そして自分の体や髪を洗うと後に続いた。


「ね、ちょっと姿勢を低くして体をもっと湯船に沈めて、顔が浸かるくらい、そうそう」


 すると璋子は芙蓉の顔や耳、鼻や唇をついばむように口を這わせた。そして肩やデコルテ、胸、お腹、下腹部に太もも、足の先までを丁寧に口づけをしていく、それは実にエロティックであったが、同時にさながらドクターフィッシュのようでもあった。芙蓉は少し変な気分になりながらも璋子のお礼とやらを受け取った。女二人、こんなこともあってもいいだろう、これから一緒に生活をするのだからこれくらいの色も許されるだろう。


 さて、風呂を上がってボディクリームを塗ろうとしたところである。鏡を見ると明らかに肌の色艶が良い。肌は繊細だが血色が良く、ぷるんとした瑞々しい弾力に水がはじかれるようである。これはどうしたことかと思ってみると、先程の口づけの嵐が原因であるような気配である。


「これも人魚と入浴した効能なのかしら」

「私と一緒に入るだけでも効果は出るけれど、口づけで丁寧に染み込ませると一層効果覿面よ。でも私は自分の体にそれをすることができないから、自分はちゃんとスキンケアをしなきゃいけないのよね」

「すごいわ、ちょっと感動しちゃった」

「これくらいで良ければ毎日するわよ」


 人魚と言っても人のようなものだから、常に水の中にいなくても良いとのことで、璋子は芙蓉と一緒にベッドに入った。衣擦れでかき消えてしまうくらいの小さな音で音楽を流しながら二人はよく眠った。先程遭った事件のことなど忘れてしまうような安心感に包まれて。



「花布さん最近すごい綺麗になったよね。彼氏でもできた?」

「いやいや、そんなんじゃないって」


 あれから数週間、芙蓉の肌は輝くばかりに美しくなった。会社の人にもよく褒められ、使っている化粧品などを聞かれるが、毎夜人魚に口づけをされているなどと言うわけにはいかず、笑って誤魔化す。美しくなると仕事も上手くいくようで、社内外案件問わず、人を介する物事は殊にスムーズに進むようになった。


 家では璋子がAlexaや音声入力を使って映画を観たり、音楽を聴いたり、簡単なライターの仕事をやっている。家に帰ると毎晩のようにお酒を飲んで、高校時代の話や仕事の愚痴、最近聴いた音楽、気になるデザイナーの話など、様々な話題に花を咲かせた。惜しむらくは一緒に外食をすることが難しくなったことだ。璋子としては生首でも特に構わないからたまには美味しいものが食べたいなどとぼやいているが、周りからの視線を考えると芙蓉はとてもじゃないが連れて行く気にはなれなかった。とはいえ、一緒に散歩くらいはするようになった。大きなボストンバッグに彼女を入れて運ぶのだ。たまに人通りのないところでは生首を膝に置いてのんびりと過ごしたりする。そうやって缶コーヒーを一緒に飲むのも良いものだった。


 そして夜は一緒に風呂に入る。全身をくまなく口づけを受け、その快楽に身を任せる。そのたびに逆上のぼせるような気持ちである。芙蓉はあがるときに璋子の首を抱いて額に軽いキスをする。体があったときよりも二人の距離は近づいたようで、芙蓉も璋子も嬉しかった。首を切り落とされて嬉しいというのもおかしな話であるが、そんなふうに心が近付く友人関係もあるということだ。

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