春の盾 下

天皇賞春当日、雲一つ無い快晴だ。久しく雨も降っておらず、緑の綺麗なターフが見える。まさに競馬日和である。今日僕にはもう一つ騎乗依頼があった。普段ローカルが主戦場で騎乗依頼も少ない僕には珍しい事極まりないが、オヤジさんと仲の良い青田先生がコースの感触を確かめる為にと用意して下さった馬だ。普段から何かと目を掛けて下さる気さくな先生だ。

パドックで馬に跨ると青田先生がジェスチャー混じりに

「ダーンと行って!楽にいけ。あとはドーンだ。な?」

毎度の事であるが、よく分からない作戦が指示される。ハイっ!と返事をして返し馬へ向かう。

厩務員さんから引き手網を外されて馬場へ出るとスタンドには見た事が無い程の人の山である。太陽光に照らされて時折キラキラ光っている。ファンのざわめきもヤジも経験した事の無い光景が広がっていた。まだメインレースでも無いのに…

内心とんでもない所に来たと股のあたりがヒュンとした。

レースは離された4着だった。なんだかふわふわして落ち着かないまま終わってしまった。検量室へ戻ると青田先生からはOKOKと声を掛けられた。2桁人気の馬だったので上々のようである。最も長島さんらトップジョッキーが乗れば上位人気するだろうと思うと口惜しくて堪らない。悔しいけどこれが現実だとメインに向けての準備に入った。


刻々とメインレースが近づいてくる。天皇賞のパドック周回も始まった。あれから僕は何度便所へ駆け込んだか分からない。吐き気と下痢のオンパレードだ。前門の虎後門の狼である。汚い例えで虎と狼には申し訳ないが、この場にいられないほど僕は参っていた。いっそ逃げてしまいたい。心臓は物凄い勢いで早鐘を打つ。なんだかいくら吸っても酸素が足らない感じもする。苦しくてじっとして居られず、グルグル回ったり太ももを叩いてみたり、心底参っていた時に整列の合図があった。

反射的に飛び出し並ぶ、口の中はカラッカラで張り付き、呼吸も浅い。もう吐くもの無いのに吐き気が止まらない。頭がグルグルする、、、


止まーれーーー!!


騎乗合図が掛かった。なんとかシャリティアの元へ駆け寄る。村田さんがおどろいた顔で大丈夫か?!乗れんのか??と声をかけてきた。ハイっ!返事は裏返った。その時だった。シャリティアが僕をべろんべろんと舐めましてきた。レース前馬は気合いが入りカリカリする物だ。馬によっては殺気すら感じる。でもシャリティアの目は優しく僕を見つめている。

不思議と緊張が和らぐのが分かった。胃がすぅーっと元の位置に下がる感触を覚えると、呼吸も普段通りで頭も冷静さを取り戻した。

「大丈夫です。1人じゃないですからね。シャリティアと目一杯暴れてきます。」

自分でもビックリする程強気な言葉が出ていた。

オヤジさんがすっと腕を出してくれた。僕はそこに足をかけシャリティアに跨る。正装でビシッと決めたオヤジさんは僕を見て、頑張れよ。一言だけかけると去って行った。

村田さんもそれからは何も言わなかった。ただ馬達の蹄の音がよく響いていた。村田さんは返し馬の直前彼女の耳元で何か呟いて首筋をポンポンと2度叩くと引き手網を離した。勢い良く僕らはターフへ駆けていた。


返し馬、競走馬にとって最後の準備運動だ。楽に流しながら彼女の肺に空気を入れる。春の爽やかな空気と競馬場の熱気を胸いっぱいに吸い込む。少し高揚感に包まれていた。

待機所へ向かうと馬達が騎手を背にグルグル回っている。ある人は騎手同士で談笑し、ある人は愛馬の首筋を撫でる。僅かな時を各々レースへ向けて気持ちを整えている。僕も周回に加わると前を回るベテランの森騎手に声を掛けられた。

「良い顔しとるな!それなら大丈夫やろ。さっきは心配したで~ 整列の時えらい顔しとって声掛けても何もいわんしな」

どうやら声を掛けられていたらしい。全く分からなかった。

すいませんと頭を下げると別にええよーと笑顔で手を振られた。

恐縮しながらゲート裏へ向かう。スタンドには大観衆が見えた。直前待機の輪乗りが始まる。

騎手になりたいと夢を見て、何とか騎手にはなれたものの、鳴かず飛ばずでここまで来た。もう乗れることは無いと思ったG1、なんだか良く分からないままここまで来てしまった。

シャリティアの首筋を撫でながら頑張ろうね。と声をかけた。彼女がブンブンと首を縦に振る。その頼もしさに僕は自然と笑っていた。


ファンファーレが遠くから響いてきた。釣られて観衆の大歓声もここまで届いてくる。

係員さんの「さぁ行きましょー」「順番にいくよー」凄まじい熱気をよそに係員さんの軽快な掛け声に呼応して次々に各馬はゲートへ収まっていく。

2枠3番黒い帽子を触りながらゴーグルの位置を再度合わせる。係員さんに連れられてゲートに入る。程なくして目の前の係員さんがサーッと離れた。

「最後入るよー」掛け声がかかると一瞬全ての音が消えた。


ガッコン!


ゲートが開くと僕らは勢い良く飛び出した。よしっ!ロケットスタートだ!喜んだの束の間、あっという間に僕らは馬群に飲まれたのだった、、、

出来れば先行したかったと唇を噛み締めながら少しずつ再内の白い柵のラチへ近づける。オヤジさんの指示通り内でじっとする。最も周りをすっぽり包まれた以上これより他に手段もない。

前の馬から跳ねた小さな芝や土がバチバチと音を立て僕らに当たる。風切り音に混じって彼女や周りの馬の息遣いを耳にして坂を下りながらコーナーを曲がる。

スタンドを左手にストレートを駆けていく、物凄い歓声が聞こえてくる。おおっ!!これがG1か!面食らっていると何頭か前へ前へ上がっていくのが見える。思いの外僕は冷静だった。

釣られるようにペースが少し上がる。前にスペースが出来た。でもここは我慢だとがっちり手網を引いて1コーナーへ入って行く。ペースは少し早い、正しく言えば多分早い。向こう正面に入って周りのジョッキーが動いて来たのが目に飛び込んで来る。段々と余裕が無くなってきた。

落ち着け落ち着けと自分に声を掛けながら、向こう正面の坂に入る。大外から森さんが一気に仕掛けるのが見えた。思わず僕も手網をしごいた。

しかし彼女は動かない、僕は焦った。1回2回と鞭を入れた。それでも彼女は動かなかった。今までレースでも調教でもこんな事は無い、どうしようと慌てたまま最後のコーナーを下っていく。

前の馬がバテて垂れてきた、避けようとするが周りに馬が居て進路が無い。余計に焦る。ポジションが悪くなるままに直線を向いた。


ここまでか、、、また何も出来ないまま終わってしまった。彼女の引退レースなのに、せっかく乗れたG1なのに、、、色んなことが頭を過ぎる。彼女に申し訳ない、、、思わず下を向いて体が強ばる。


その時だった。ガツンとした感触が手に伝わってきた。彼女が自ら進もうとハミを噛んだのだ。思わず彼女を見ると彼女と一瞬目が合った。まだ彼女は諦めていない。先に諦めていた自分を恥じた。少し頭が冷えた気がする。落ち着いて周りを見ろとオヤジさんに怒鳴られた事を思い出した。内が少し空いてきた。何とか滑り込み少しずつ着実にポジションを上げていく。


先頭集団には追いついた。しかし前を見ると2頭馬体をぶつけ合っている。残り200mを切った。時間はもう無い。目の前の森騎手が鞭を持ち変えるのが見えた。

少し壁が開いた。僕らは迷わずそこへ飛び込む、一瞬体がグンと沈む、彼女が大きく踏み込んだのが分かった。瞬く間に2頭の間を突き抜けた。前を見るともう1頭残っている。2馬身離されている。100mは既に切った。立ち塞がるものはもう居ない、僕は遮二無二追った。

差がグングン迫る。あと少し!あと少し!!

「とどけ!とどけ!!とどけ!!!」

ゴール板直前目一杯手網を押し込む。2頭馬体を併せて飛び込んだ。

どうなったかはわからない。少しずつ手網を引いて減速する。1コーナーを超えて、2コーナー手前でようやく止まった。僕も彼女も息が上がっている。

ゆっくりとゆっくりと引き上げる。勝ったのか負けたのか、普段ならなんとなく分かる。でも今回はさっぱり分からない。最後は目を瞑っていたかもしれない。それ程全力で追っていた。

森さんが向こうから近寄ってくる。


「おめでとさん!やるやんけ」


声を掛けられようやく電光掲示板が見える場所に戻っていたとわかった。

1着3番

僕らの番号が点滅していた。


一気に体の力が抜けた、、、

シャリティアと目が合う、優しい目をしていた。



スタンド横まで来ると目を真っ赤にした村田さんが走ってきた。

「やったな!!やった!!やった!!」

僕と彼女を交互に見る。最後の方は声にならなかった。

顔を上げるとスタンドからの大歓声に気付いた。

あまりの出来事に呆気に取られていると、村田さんに歓声に答えてやれと声を掛けられた。

一生懸命頭を下げて会釈した。

「ガッツポーズでもやれバカタレ!!」

オヤジさんの雷が落ちた。ガッツポーズで歓声に応えたあと彼女から降りると帽子を目深にかぶったオヤジさんに頭を下げた。

「オヤジさん!!ありがとうございました!!!」

間髪入れずに背中に衝撃が走る。

早く検量せい!!反射的に返事をして、急いで彼女の腹帯を外し鞍を取る。シャリティアの鼻筋を撫でると、グイッと押し込まれた。催促されたように検量室へ飛び込んだ。顔を合わせる全ての人に祝福の言葉を貰いようやく勝った事を少し実感したのだった。


その夜、祝勝会やら何やらでてんやわんやだったが、事務所ではオヤジさんは一升瓶を抱えたままイビキをかいている。村田さんや厩務員のみんなも似たようものである。

僕もだいぶ飲んだ、それでもあまり酔ってはいなかった。今日の衝撃があまりに大き過ぎたようだ。

シャリティアに無性に会いたくなって、お土産を持って馬房に向かった。

傍によるとシャリティアが顔を出した。顔を撫でるとべろんべろん舐めてきた。

「ありがとう。シャリティアのおかけで勝てたよ。君のお陰で騎手としての夢が叶ったし、少しはオヤジさんや村田さん、成瀬さんや厩舎のみんなに恩返しできたと思うんだ、、、でもね今日僕はレース中に諦めてしまった、、、騎手として1番してはいけないことだった。本当にごめんなさい」

頭を下げたままでいると、鼻でグイッと押し上げられた。顔を上げると更に舐め回された。本当にありがとう。声を掛けながらお土産の存在を思い出した。

白手袋をして彼女に見せる。

「シャリティア、これが天皇賞の盾だよ。成瀬さんが明日取りに来るからその前に見せてあげようと思ったんだ。」

シャリティアは顔を傾け不思議そうに見ているが、また僕を舐め始めた。

疲れたので座って話を続けた。いろんな話をした。思い出話やこれからの夢、沢山語り合った。最もシャリティアは聞き役だったが、、、でも途中から記憶が無い。



「馬鹿野郎!!!」



オヤジさんの雷で飛び起きる。どうやら寝落ちしていたらしい。目の前には茹でダコの様に頭から湯気を出したタコ、、、もといオヤジさんがいた。

僕の手元にはシャリティアのヨダレと飼場だらけになった春の盾が朝日に照らされていた。

おしまい

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春の盾 与兵 @sugikawanoYOHEI

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