春の盾 中

肩を叩かれ思わず振り返る。厩務員の村田さんが怪訝な顔をして話しかけてきた。

「どうした?何時にもましてボーッとしてべろんべろん舐められ続けて、姉さんも心配しとるぞ。」

前を見るとシャリティアが顔を傾げて鼻をブニブニ押し付けてきた。どうやらりんごをあげたままボーッとしていたらしい。

すいませんと村田さんに謝り、押し付けられた鼻をモフモフ撫でていると、村田さんからあまり見ない真顔でプレッシャー感じてんのか?と聞かれた。

まだプレッシャーはないんですが、なぜ俺に騎乗依頼がきたのかどうも腑に落ちなくて、、、言い終わる前に村田さんがゲラゲラ笑い出した。

なんで騎乗依頼がきたのかなんて考える暇ないだろと僕の背中を笑いながらバシバシ叩いてきた。

それよりコイツの引退レースだぞ、お前の初G1だし作戦でも考えろやとまだ笑い続けている。

しまった!その通りだ!!思わず叫んだ。自覚したら急にお腹が痛くなってきた。腹を押さえて便所に走る。背後の笑い声は更に大きくなっていた。


彼女の最終追い切りが始まった。オヤジさんからの指示通りに坂路を駆け上がる。具合いは良い、昨年の万葉ステークスを勝った時と同じ息遣いだ。

最近は調子を落としていたがここにきて復調してきた。ダイナミックな走りが戻ってきている。鞭を入れるとグンと体が沈み込み、蹄が大地をしっかり捉えているのがハッキリと分かった。

「どうだ?良さげだな。」オヤジさんが笑顔で聞いてきた。

「はい!随分良さそうです。万葉ステークスの時程度には仕上がってます。これなら力は充分出せます!!」

自信を持って答えるとオヤジさんはデカい口を更に大きく開けて、ちがうわ!おまえの腹の具合いじゃと笑われた。


その日の夜、彼女の様子を見に厩舎に行くと先客がいる様で声が聞こえる。引き戸に手をかけた時その正体が分かった。オヤジさんだ。

普段は馬鹿デカい声のオヤジさんがシャリティアに優しく声を掛けている。

彼女は多難な競走馬生活だった。入厩当初は脚部不安があり中々満足いく調教が行えず。成績が上がらなかった。ようやく未勝利を抜けた3歳の酷く寒い冬に彼女は疝痛を起こした。競走馬は体の構造上胃のガスや腸に問題を起こしやすい。疝痛は腹痛の総称なのだが場合によっては死に至る。運の悪いことに病状は重く、獣医さんは首を横に振った。生死を彷徨うこと数日間、担当厩務員の村田さんとオヤジさんは寝る間を惜しんで看病した。懸命に声をかけ、ストーブを出し馬服を着せ、体温が下がらぬ様務めた。獣医さんに頼んで点滴による抗生剤や鎮痛剤を入れ、何とか峠を越した時、オヤジさんと村田さんの泣き笑いの無精髭の表情は忘れらない。奇跡的に回復してからも復帰までは随分時間がかかった。並の調教師なら匙を投げていたと思うし、馬主の成瀬さんの理解あってのことだった。

古馬になると期待に応えて本格化、万葉ステークスやダイヤモンドステークスを続けざまに制し、天皇賞春に挑んだのが昨年のこと、惜しくもタイム差なしの4着だった。休養を挟んで秋から始動したものの成績は下降の一途、繁殖に上がるべくこの天皇賞春がラストランと決まったのだった。

オヤジさんの邪魔したら悪いと思い、僕は踵を返した。


後日彼女にりんごをあげてから天皇賞に向けての最後の段取りの為に事務所に訪れると既にオヤジさんも村田さんも待っていた。

時間通りの筈だが、思わず遅れてすみませんと頭を下げると村田さんが、気にすんなあいつの所にいたんだろ?と笑いながら声を掛けてきた。オヤジさんはタバコを灰皿に押し付けながら作戦でも出来たか?と聞いてきた。

「ハイっ!いつも通りの先行策で行きます!1000メートルは59秒、多少ハイペースでも前で踏ん張ります!!

向こう正面の坂のあたりから、、、」

途中で村田さんが麦茶を吹き出した。ゲラゲラ笑っている。

オヤジさんもむせていた。慌てて布巾を持ってくるとオヤジさんは馬鹿野郎!!お前にそんな細かい作戦ができんのか?!そう言うのはトップジョッキーのやることじゃ!!と笑い半分怒り半分何とも言えぬ表情で怒鳴られた。せっかく懸命に考えたのに…と思っていると村田さんには無事に回ってこい。初G1なんだから、無茶すんなよと声をかけられた。

オヤジさんからは、じたばたせずに内でじっとしてろ!!

ここが勝負と思ったら思い切って行け!以上!

これで作戦が決まったのだった。

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