4. 君の滅茶苦茶で最悪な歌声に
次に目蓋を開いた時、目の前には青光りする
エリカは慌てて起き上がろうとして、地面の不安定さに驚き身を固くし、恐々と半身をもたげて辺りを見回した。ビル屋上と思しきプールの真ん中で、フロートベッドに寝かされている。
「ようやく目が覚めたか。他のセイレーンよりも薬が効いていたな」
声の方を見れば、高そうなスーツに身を包んだ男がにやけて煙草をしがんでいた。
「香港パパ!?」
「
叫んだエリカに、男は失笑して吸い殻をプールに投げ入れた。その落ちた先を覗き込んで、エリカはまた驚いて目を見開いた。
プールの底には同胞たちが沈んでいる。人間の姿は解かれ、無様に怪物の姿を晒した彼女たちは、虚ろな目で水面を見上げている。死ねば浮かび上がってくるので、かろうじて生きていることが分かるが、エリカが驚いたのはそこだけではない。
皆、腕や帯びれ、乳房など、至る所が欠損しているのだ。
「……この子らに何したの」
声を低くして尋ねると、
「商品だ」
男は束の間視線を水底に落とし、淡々と吐き捨てた。
「日本には、人魚の肉を食えば不老不死になるという伝説があるのだろう」
エリカは彼らが何をしているのかを察して、嫌悪に顔を歪ませた。
「馬鹿なの、本気でそんなこと信じて——」
「数十年間我々のビジネスに関わっている、
あの屈託のない甘い笑顔が脳裏に蘇った。
「あのクズ……!」
奥歯を噛み締めて呟くエリカ。目の前の男はそれに構わず、余裕な態度であった。
「お前は出来損ないなのだろう。歌われたところで害はないし、肉ではなく食品サンプルとして飼ってやろうというんだ」
「——馬鹿にしないでよね」
どいつもこいつも。
薬のせいで重い体が、なおも怒りでわなわな震える。エリカが身動ぎをすると、男がスラックスに引っ掛けていた拳銃を抜いた。
「音痴のセイレーンに何ができる。せいぜい魚に変身して、その手のマニアに悦ばれるだけだろ。大人しくしておけば————」
「夢見てんじゃないわ、人魚食べたって人間は人間に決まってんでしょっ」
苛立ち任せに罵倒した刹那、小さく控えめな発砲音とともに、エリカの肩に激痛が走る。それに眉ひとつ動かさず、男を嘲笑してやった。
「アタシの歌を笑わないのがあのクズだけのまま、アタシが人間に飼い殺されるわけないでしょ!」
エリカはプールに身を投げた。カルキ臭と、銃創から流れ出る鉄臭さ漂う水中で、艶やかな髪がライトアップを透かして
水面からくぐもった悲鳴が届いた。エリカは青く輝くプールから身を乗り上げ、腰を抜かしたまま背をむけた男にしがみつく。
「なにビビってんの。アタシが欲しいんでしょ」
「お前、何なんっ……!」
悲鳴はプールに引き摺り込まれ、泡となって消えた。
事を済ませたエリカは、人に化けると髪を絞り、ぼろぼろの服の代わりに溺死した男のYシャツを身に纏って、プールサイドを後にした。
濡れた足音と滴る雫の音だけが聞こえる中、シャツ一枚の妖艶な女は、誰もいないホテルの廊下を大股で歩く。
早急にここから離れて、あの男を問い質さなければいけない。決意を固くして、エリカは灰色の眼光鋭く濡れた唇を引き結んだ。エレベーターホールを目指していると、ふわりと血臭を感じてエリカは足を止めた。振り返り、すぐそこにあった扉のノブをゆっくり下げる。オートロックはかかっていない。僅かに扉を押しただけで、隙間から濃く錆びた臭いが吹き出した。
暗がりでも、ハイランクの部屋であることが分かる。そんな部屋が、生臭い飛沫にまみれていた。
「こんばんは、エリカ」
室内中央、高月は独りソファで足を組んでいた。月光に輪郭を濃くして並ぶ影を前に、エリカは立ち呆けた。
首、首、花瓶、
首から上を失った身体は、ベッドに折り重なっている。高月は優雅な仕草で、ガラステーブルに立てられた腕を掴むと、断面から溢れ出る濃密な血をワイングラスに注いだ。
「さすがだね。君なら私に気づくと信じていた」
「人魚の肉の噂を広めた不死者って、アンタ?」
「そうだ」
返答と同時に、エリカは花瓶をひっ掴んで彼に振り下ろした。が、あえなく手首を捕らえられてソファの上に引き倒される。
「悪かったよ。けれど、どうしても君を探し出したくて。私の指示に従わず、こいつらが君を追いかけ回したのは誤算だった。このとおり、叱っておいたから許してくれ」
「ハァ?」
「会って確かめたかった、君が私の退屈に終止符を打つ存在かを」
エリカに覆い被さる高月は、彼女の華奢な首元にこうべを垂れて、喉を震わせ笑いを堪えていた。
「アンタ一体何がしたいの——」
「何度も言っているじゃないか。退屈なんだ……この冗長な生に刺激が欲しい!」
顔を上げた男の琥珀の目が、冷たい月光すら溶かすような潜熱を孕んでいた。
「その酷い歌声で私を籠絡してくれ。初めての夜のような、翻弄される日々をくれよ!」
高月の白い顔は蒸気して艶やかだ。エリカは自分が組み伏せられていることも忘れ、勝手に興奮して独白する男を唖然と見上げた。
「ど、どういうことよ」
狼狽気味に問うと、高月は乾いた冷たい手をエリカの濡れた喉に這わせ目を細めた。
「君の歌こそ私に残された唯一の血路ってことさ! 君の滅茶苦茶で最悪な歌声に為すすべなく、焦がれ狂って破滅する……屈辱的で刺激的じゃないか。そのためなら私は何でも協力するよ。無いならカードを作ればいいんだろう!?」
意気揚々と滅茶苦茶を宣っているが、その情熱のままエリカをこんなことに巻き込んでいるのだから、本気なのだろう。
「……頭沸いてんの」
それしか言えない。毒づいても高月は楽しげで、エリカはそれが気に食わなかった。
「人に勝手な夢見ないで」
「夢見がちはお互い様だ」
「あたしのは夢じゃなくて目標!」
エリカは彼から顔を逸らして舌打ちをすると、
「早く退いて。ていうか清掃代払えないのに、どうすんのよコレ」
血痕飛び散る室内を見回し、まんじりともせず頭を掻いた。
「問題ない。このホテルも従業員も私の所有だ」
「……ああ、そう」
いつからどこまで、この男の手の内であったのか。エリカは考えるのを諦めた。
「どこに行くんだ、エリカ」
「帰るのよ」
「今日はここに泊まるといい。部屋を用意させるよ」
高月は甲斐甲斐しく、部屋を出ようとするエリカの隣に纏わりついて歩いた。エリカはうんざりして、男の顔を自分から遠ざけた。もちろん、高月がめげることはなく、むしろ嬉しそうである。
「三百年生きて、まだこんな血迷った恋ができるなんて、思ってもみなかったな」
「あたしが好きなら、東京湾に沈んで愛の重さでも証明したら、今すぐに」
「いいのかい。歌わず魅了しても、セイレーンとはいえないが」
「……アンタの何もかも奪って、あたしに歌を教えたことを後悔させてやるんだから」
「それは魅力的なお誘いだ!」
屈託なく、それでいて艶やかに高月は笑った。
「私たちの野心のために、今夜も君に尽くすよ、エリカ」
同じ穴のムジカ ニル @HerSun
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