4. 君の滅茶苦茶で最悪な歌声に

 次に目蓋を開いた時、目の前には青光りする水面みなもが広がっていた。冬の上空では、孤独な白い月が眠らない街を見下ろしている。

 エリカは慌てて起き上がろうとして、地面の不安定さに驚き身を固くし、恐々と半身をもたげて辺りを見回した。ビル屋上と思しきプールの真ん中で、フロートベッドに寝かされている。


「ようやく目が覚めたか。他のセイレーンよりも薬が効いていたな」

 声の方を見れば、高そうなスーツに身を包んだ男がにやけて煙草をしがんでいた。

「香港パパ!?」

爸爸パパ? お前たちの方が何十年も生きているくせに」

 叫んだエリカに、男は失笑して吸い殻をプールに投げ入れた。その落ちた先を覗き込んで、エリカはまた驚いて目を見開いた。


 プールの底には同胞たちが沈んでいる。人間の姿は解かれ、無様に怪物の姿を晒した彼女たちは、虚ろな目で水面を見上げている。死ねば浮かび上がってくるので、かろうじて生きていることが分かるが、エリカが驚いたのはそこだけではない。

 皆、腕や帯びれ、乳房など、至る所が欠損しているのだ。

「……この子らに何したの」

 声を低くして尋ねると、

「商品だ」

 男は束の間視線を水底に落とし、淡々と吐き捨てた。


「日本には、人魚の肉を食えば不老不死になるという伝説があるのだろう」

 エリカは彼らが何をしているのかを察して、嫌悪に顔を歪ませた。

「馬鹿なの、本気でそんなこと信じて——」

「数十年間我々のビジネスに関わっている、不死者ノスフェラトゥと呼ばれる者から持ちかけられた話だ。そして現に、お前たちは存在したじゃないか」


 あの屈託のない甘い笑顔が脳裏に蘇った。

「あのクズ……!」

 奥歯を噛み締めて呟くエリカ。目の前の男はそれに構わず、余裕な態度であった。

「お前は出来損ないなのだろう。歌われたところで害はないし、肉ではなく食品サンプルとして飼ってやろうというんだ」

「——馬鹿にしないでよね」

 どいつもこいつも。

 薬のせいで重い体が、なおも怒りでわなわな震える。エリカが身動ぎをすると、男がスラックスに引っ掛けていた拳銃を抜いた。


「音痴のセイレーンに何ができる。せいぜい魚に変身して、その手のマニアに悦ばれるだけだろ。大人しくしておけば————」

「夢見てんじゃないわ、人魚食べたって人間は人間に決まってんでしょっ」

 苛立ち任せに罵倒した刹那、小さく控えめな発砲音とともに、エリカの肩に激痛が走る。それに眉ひとつ動かさず、男を嘲笑してやった。


「アタシの歌を笑わないのがあのクズだけのまま、アタシが人間に飼い殺されるわけないでしょ!」

 エリカはプールに身を投げた。カルキ臭と、銃創から流れ出る鉄臭さ漂う水中で、艶やかな髪がライトアップを透かして揺蕩ようとうする。本来の姿に変貌し、薬効と怪我が身体から消えていくのを感じた。


 水面からくぐもった悲鳴が届いた。エリカは青く輝くプールから身を乗り上げ、腰を抜かしたまま背をむけた男にしがみつく。

「なにビビってんの。アタシが欲しいんでしょ」

「お前、何なんっ……!」

 悲鳴はプールに引き摺り込まれ、泡となって消えた。





 事を済ませたエリカは、人に化けると髪を絞り、ぼろぼろの服の代わりに溺死した男のYシャツを身に纏って、プールサイドを後にした。


 濡れた足音と滴る雫の音だけが聞こえる中、シャツ一枚の妖艶な女は、誰もいないホテルの廊下を大股で歩く。

 早急にここから離れて、あの男を問い質さなければいけない。決意を固くして、エリカは灰色の眼光鋭く濡れた唇を引き結んだ。エレベーターホールを目指していると、ふわりと血臭を感じてエリカは足を止めた。振り返り、すぐそこにあった扉のノブをゆっくり下げる。オートロックはかかっていない。僅かに扉を押しただけで、隙間から濃く錆びた臭いが吹き出した。


 暗がりでも、ハイランクの部屋であることが分かる。そんな部屋が、生臭い飛沫にまみれていた。

「こんばんは、エリカ」 

 室内中央、高月は独りソファで足を組んでいた。月光に輪郭を濃くして並ぶ影を前に、エリカは立ち呆けた。


 首、首、花瓶、高月クズ、腕、首、首、首。

 首から上を失った身体は、ベッドに折り重なっている。高月は優雅な仕草で、ガラステーブルに立てられた腕を掴むと、断面から溢れ出る濃密な血をワイングラスに注いだ。


「さすがだね。君なら私に気づくと信じていた」

「人魚の肉の噂を広めた不死者って、アンタ?」

「そうだ」

 返答と同時に、エリカは花瓶をひっ掴んで彼に振り下ろした。が、あえなく手首を捕らえられてソファの上に引き倒される。


「悪かったよ。けれど、どうしても君を探し出したくて。私の指示に従わず、こいつらが君を追いかけ回したのは誤算だった。このとおり、叱っておいたから許してくれ」

「ハァ?」

「会って確かめたかった、君が私の退屈に終止符を打つ存在かを」

 エリカに覆い被さる高月は、彼女の華奢な首元にこうべを垂れて、喉を震わせ笑いを堪えていた。


「アンタ一体何がしたいの——」

「何度も言っているじゃないか。退屈なんだ……この冗長な生に刺激が欲しい!」

 顔を上げた男の琥珀の目が、冷たい月光すら溶かすような潜熱を孕んでいた。

「その酷い歌声で私を籠絡してくれ。初めての夜のような、翻弄される日々をくれよ!」


 高月の白い顔は蒸気して艶やかだ。エリカは自分が組み伏せられていることも忘れ、勝手に興奮して独白する男を唖然と見上げた。

「ど、どういうことよ」

 狼狽気味に問うと、高月は乾いた冷たい手をエリカの濡れた喉に這わせ目を細めた。


「君の歌こそ私に残された唯一の血路ってことさ! 君の滅茶苦茶で最悪な歌声に為すすべなく、焦がれ狂って破滅する……屈辱的で刺激的じゃないか。そのためなら私は何でも協力するよ。無いならカードを作ればいいんだろう!?」

 意気揚々と滅茶苦茶を宣っているが、その情熱のままエリカをこんなことに巻き込んでいるのだから、本気なのだろう。

「……頭沸いてんの」

 それしか言えない。毒づいても高月は楽しげで、エリカはそれが気に食わなかった。


「人に勝手な夢見ないで」

「夢見がちはお互い様だ」

「あたしのは夢じゃなくて目標!」

 エリカは彼から顔を逸らして舌打ちをすると、

「早く退いて。ていうか清掃代払えないのに、どうすんのよコレ」

 血痕飛び散る室内を見回し、まんじりともせず頭を掻いた。


「問題ない。このホテルも従業員も私の所有だ」

「……ああ、そう」

 いつからどこまで、この男の手の内であったのか。エリカは考えるのを諦めた。


「どこに行くんだ、エリカ」

「帰るのよ」

「今日はここに泊まるといい。部屋を用意させるよ」

 高月は甲斐甲斐しく、部屋を出ようとするエリカの隣に纏わりついて歩いた。エリカはうんざりして、男の顔を自分から遠ざけた。もちろん、高月がめげることはなく、むしろ嬉しそうである。


「三百年生きて、まだこんな血迷った恋ができるなんて、思ってもみなかったな」

「あたしが好きなら、東京湾に沈んで愛の重さでも証明したら、今すぐに」

「いいのかい。歌わず魅了しても、セイレーンとはいえないが」

「……アンタの何もかも奪って、あたしに歌を教えたことを後悔させてやるんだから」


「それは魅力的なお誘いだ!」

 屈託なく、それでいて艶やかに高月は笑った。

「私たちの野心のために、今夜も君に尽くすよ、エリカ」

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同じ穴のムジカ ニル @HerSun

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