最初は寓、愛顧でしょ。

『某チョコレート計画を中止します』

 柳瀬から届いたメッセージには、簡潔に、しかし全く意味のわからない文字列が鎮座していた。某チョコレート計画なんてものは聞いたことがないし、聞いたこともない計画の中止をいきなり宣言されてもどう返信したものか謎だ。

「送り先を間違えていませんか、っと」

 無難に取り繕っておいた。某チョコレート計画ってたぶん、僕の想像しているので合っていると思うけど柳瀬が月面着陸を目指しているという話もまた聞いたことはない。と、突然画面が暗転し警報音が鳴り響いた。電話の着信とはどうしてこうも心臓に悪いんだろう。僕が歳を重ねたら着メロにびっくりして心肺停止しそうなんだけど。呼吸を落ち着かせてから非常口のような緑色の通話ボタンを押す。

「もしもし?」

「もしもし。オレだけど」

「オレオレ詐欺じゃん」

「柳瀬です」

「そうだろうけど。オレオレ詐欺のくだり要る?」

「もちろん要らないよ。でも櫛見にはもっとユーモアが必要だし」

「うるさいんですよねえ」

「で、何の用?」

「かけてきたのはそっちだろ」

「そうだっけ」

「そうだよ……」

 柳瀬のことをわかろうと思ったことがそもそもないのだが、わかろうとしたら壊れると思う、頭が。

「あーそか、メールね」

「はい」

「話してなかったっけ?」

「だから、何を」

「あ、いたいた」

 左耳と右耳から同時に声が聞こえる。スマホは、左。右を向くとオーバーサイズのブルゾンから、すらりと長い足をのばした柳瀬がひらひら手を振っている。

 柳瀬の背からは、あの白く美しい羽がなくなっていた。


 外ハネの金髪をくるくると指に巻きつけながら、柳瀬ミノリはメロンソーダをじゅるじゅる啜っている。思い出したように不器用な手つきでホットサンドにかぶりつき、しわくちゃに丸めた紙ナプキンで何度も指を拭う。

「キミの幸せについて考えていたんだ」

「これまた唐突な」

「鈍感なだけ。櫛見が」

「違うね。神のみぞ知るってやつだ」

「もう神じゃないし」

「今は、神だった頃の思考の話をしてる」

「だから今、これから、それをキミに話そうと思ったんだって」

 氷にこびりついたバニラアイスをストローで掘削する柳瀬のつむじを眺める。たしかに髪の艶はあれど、そこに物体として輪っかがあるわけではなかった。以前も。背中はどう、痛くないかとか、訊くべきなんだろうか。本人(そう、本人)が平気なフリをしたいなら、それに乗せられてあげるのも優しさだとは思う。でも、僕は柳瀬に優しくするべきなんだろうか。

「僕は柳瀬のこと天使だと思ってて。比喩じゃなく」

「嘘だって言ったじゃん」

「うん、そういえば、そうだ」

「アイは正直、キミの人間関係をかなり恣意的に掻き回してきたことをここにお詫びしようと思う」

 柳瀬の一人称のことをずっと変だと思っていたし、アイって名前なのかと思っていた時期もあったが、Iと愛をかけているのだろうかなどと要らんことを考える余裕も出てきた。

「認識できていない罪について謝られましても」

 すっかりぬるくなったホットコーヒーに口をつける。酸っぱい豆だ。

「謝罪というものは自己満足だからね」

 ぴすーとストローを吸いつつ、ホットサンドからこぼれ落ちたキャベツの破片をちまちま拾い、小さな前歯の間に挟んでいく。

「でも謝罪した以上、それについて説明をもらえるんでしょう」

「ざっつらい。と、言いたいところだが」

「なんだよ」

「キミの故郷は?」

「生まれならY六七県一二八区だけど」

「違うね」

 柳瀬は使ってないのかと見紛うほど綺麗に食べ上げられた皿を最後にぐるりとひと拭きしてから、グラスの淵を人差し指でキュッとなぞった。

「いや、違うも何もそこで生まれたんだけど」

「書類上のことだよ」

「どういうこと」

 ガラステーブルの下で柳瀬の足が忙しなく踊り、僕の爪先を押し退け、椅子の足を蹴飛ばし、虫に擬態させた盗聴器を踏み潰した。

「キミは、不法滞在者ってこと」

 柳瀬ミノリの青い目は、百万分の一なんかではなくて、それは特別な色だということを僕は常々感じていた。柳瀬は実際特別なんだ。だった、ですらなくて。

「不法、滞在者」

「そう。キミの本当の故郷は」

「いや、言わなく、ていい」

 柳瀬は友達の友達をみんな引き合わせるタイプで、そうして連れてきた人々が判で捺したように皆月人だった。柳瀬が月にゆかりがあるものとばかり思っていたが、特有の訛りもないし、重そうに肩を落として足を引きずっているわけでもない。柳瀬の特異さが故、僕はその点何も不思議に思っていなかった。柳瀬ミノリが月人なのではない。

「櫛見」

 柳瀬は半分溶けたサンデーを自分のほうへ引き寄せ、山型のチョコレートをつまみとる。

「櫛見は帰らなくていいよ」

「どうして」

「そのようにした、からさ」

 柳瀬の整然と並んだ白い歯がそれを、噛み砕くのを見ていた。

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月が綺麗だと思える場所にいたいと、思っている。 硝水 @yata3desu

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