第116話 湖畔のひととき

 救急搬送された総合病院で鈴音とマスターは診察を受けたが、診察に当たったドクターは鈴音の両手のしもやけ以外は大きな問題はないと結論付けた。

 診察を終えた鈴音は病院の待合室でやっとマスターと合流することができたが、今度は警察官に同行を求められた。

 小林部長の殺人未遂事件に関連して前後の状況を聞かれて解放されたが、鈴音は自分が犯人として尋問を受けているくらい疲れてしまった。

 警察署の出入り口では同じように事情を聴かれていたマスターが待っており、疲れた表情で鈴音に言う。

「大谷製薬のかたが僕の車をここまで運転してきてくれました。この後も運転すると言ってくれたのですがそれはさすがに断りました。今日は「スモーク」を臨時休業にして休養しましょう」

 マスターは自分のミニバンに乗り込み、鈴音も自宅まで送って行くつもりのようだが、鈴音は普段自分が使っている二列目シートには乗らずに一列目の左側のドアを開けてマスターの隣に座った。

「マスター、ディープフリーザーの中で私が言ったこと憶えていますか?」

 マスターが落ち着きを取り戻して窮地から脱出できたのはよいが、日常に戻って自分の告白もそのまま流されてしまいそうな気がして鈴音は聞かずにはいられなかった。

 マスターは鈴音の瞳を見つめて穏やかな表情で答える。

「もちろん憶えていますよ。僕は鈴音さんの言葉で今まで自分を苦しめていた呪縛が消えたような気がしました」

 マスターが自分の背中から肩に手を回して引き寄せるのを感じて鈴音は微妙に慌てた。

 ここは警察署の駐車場なのだから、もう少し落ち着ける場所に移動してほしいものだと思ったが、マスターは意に介す様子はなくその唇が鈴音の唇に触れる。

 小鳥のような口づけは鈴音の胸をときめかせるのに十分ではあったが、鈴音の頭の中には真美がマスターを評した言葉が浮かぶ。

 マスターは自信たっぷりなようでいて自己肯定感が低いタイプだから鈴音が押さなければだめだと彼女は言っていたのだ。

 鈴音はマスターの首に手を回すと、マスターの口を押し広げて自分の舌を進入させた。

 そして、前歯の後ろに隠れていたマスターの舌に強引に絡ませる。

 微妙に身を固くしていたマスターはやがて鈴音に応えて抱きしめる腕に力を込めたのが感じられた。


 大谷製薬の一件があってから数日後、鈴音は愛用のロードバイクでヒルクライムに挑戦していた。

 通称山中越えと呼ばれる峠道は京都市街の北白川から山を越えて滋賀県に抜けており、最高地点の標高は三百七十メートルに達する。

 文字通り自転車で峠を超えるヒルクライムは、鈴音にとってはチャレンジだった。

 コーナーが連続する坂道を登りながら、鈴音は小刻みに息を吸って呼吸を整える。

 一気に息を吸い込むと疲れやすいといわれて、呼吸法を工夫しているのだが、真美と一緒にトレーニングをしている時に「ヒッヒッフー」とリズミカルに呼吸していたら、「鈴音ちゃん理論的には合っているけどそれはちょっと違うわよ」と爆笑されたので、鈴音は呼吸音を少し変えたのだった。

 コーナーが連続する坂道を登りながら、鈴音の頭には様々なことが思い浮かんだ。

 製薬会社の社長殺人事件に巻き込まれて危うく殺されそうになったことや、どさくさにマスターに告白して受け入れられたことが頭に浮かび、次いで昨夜のマスターの抱擁を思い出して鈴音は思わず足を止めてしまった。

 鈴音はロードバイクにまたがったまま、思い出し笑いをしている自分に気づき、周囲に人目が無かったことを確認すると素早く再スタートした。

 大谷製薬の小林部長は逃亡を図ろうとして警察に身柄を抑えられ、マスターと鈴音をディープフリーザーに閉じ込めた疑いで動機を追及され、観念して社長の点滴チューブに空気を混入して殺害を図った事まで自供し逮捕された。

 鈴音は人当たりの良い雰囲気の小林部長が、平然と自分たちディープフリーザーに閉じ込めて殺害しようとしたことで人間不信になりそうだったが、マスターや真美達常連客が気遣ってくれ、どうにか仕事を続けていた。

 山中越えの道は登り詰めるとむしろ斜度が緩くなり、丘陵の上には平たんな地形も広がり新興住宅地が造成されている。

 鈴音はマスターの探偵業を初めて手伝った時もこの辺りで張り込みを行ったことを思い出し懐かしい気分になる。

 やがて道路は田ノ谷峠と呼ばれる峠に差し掛かり下り坂となって琵琶湖のある滋賀県に下っていくのだ。

 鈴音はクローズされている展望台の駐車場に入り込み、周囲に視線を走らせると、看板の陰に隠れるように停車しているマスターのデリカD5を見つけた。

 ミニバンのテールゲート側に回り込むと、鈴音に気づいたマスターが駆け寄ってくる。

「すごいですね。本当にここまで登ってきたんだ」

 マスターは鈴音からロードバイクを受け取るとテールゲートに取り付けたキャリアに固定する。

「マスターにこんなにバックアップしてもらって申し訳ない気がする」

 鈴音がつぶやくと、マスターは無言で鈴音の肩をきゅっと抱きしめた。

 マスターのハグは小さな子供のように好きという気持ちがすんなりと伝わってくる。

 鈴音は自分の頭をマスターの胸に預けてされるままに身を任せていたが、マスターは鈴音から身を離すと落ち着いた口調で言う。

「それでは予定通りバーベキューに行きましょう」

マスターは鈴音と一緒に自分のミニバンに乗り込むと近江舞子のキャンプ場を目指した。

 鈴音がヒルクライムを完走したら、デイキャンプでバーベキューをしようとマスターが提案していたのだ。

「実は、キャンプ場で義人君がバーベキューの準備をしているのです。美津子さんやちえりさんも一緒ですよ」

「え、そんな話は聞いてなかったですけど」

 鈴音は人と会うつもりがなかったので少し慌てたが、マスターは穏やかな表情で鈴音に告げる。

「僕たちが冷凍されかけた件で鈴音さんがショックを受けたのではないかとみんな心配しているのです。今日は鈴音さんに楽しんでもらおうと皆が準備しているのですよ」

 鈴音はここ数日間、普段と変わりなく仕事をしているつもりだったが、周囲の人達がさりげなく気を使っていることには気づいていた。

 しかし、サプライズでパーティじみたことをするとは思っていなかったのも事実だ。

「どうしよう。私汗まみれだけど、みんなが待っているなら早くいかなきゃ」

 鈴音がちょっとしたパニックを起こしているとマスターは事も無げに言う。

「予定通りに、近江舞子のスーパー銭湯で汗を流してください。早く登場されると料理の手順が狂って義人君が慌てますよ」

 鈴音はどうやら彼の言うとおりにした方がよさそうだと気づき、言われるままにすることにした。

 キャンプ場のバーベキューサイトに到着すると、マスターの言葉通り義人がバーベキューパーティーの準備を整えていた。

「マスター、言われた通り、京地鶏をローズマリーと黒コショウ、岩塩で味付けして、ダッチオーブンでローストにしました。それとは別にちえりさんが雅ビーフを差し入れしてくれたのですがどちらからお出しましょうか」 

 マスターは一瞬迷った様子の後で義人さんに告げる。

「それでは、雅ビーフからいただきましょう。ちえりさんお気遣いありがとうございます」

「いいえ先日はマスターと鈴音さんを大変な目に遭わせて申し訳ありませんでした。心からお詫びいたします」

 ちえりは開口一番に深々と頭を下げて詫びを言うので、鈴音は本音で答えた。

「いえ、少し霜焼けみたいになった程度でしたから、もうお気になさらなくていいですよ」

 鈴音にとって事件はショックではあったが、PTSDが起きるような気配は無かった。

 むしろマスターとの関係が進展したことがうれしい。

「ありがとうございます。そう言っていただけると気が楽になります」

 鈴音は旧知の社員が社長である父を殺した事件で最もショックを受けたのはちえりではないかと思うが、彼女はいたって気丈に振舞っている。

 鈴音はマスターがフルートグラスにスペイン産のカバを注いで皆に回し始めたのを見て言った。

「マスター、帰りは私が運転しましょうか」

 鈴音はもともとお酒には弱いので申し出たのだが、マスターは首を振った。

「今日は義人さんが運転手も申し出てくれたので鈴音さんは存分に飲んでください」

 鈴音が口を開く前に、美津子が先回りして言う。

「今日のよっちゃんがあるのは、マスターと鈴音さんのおかげなのだから、それくらい当然よね」

 義人は無言でうなずき、鈴音にカバが満たされたフルートグラスを押し付けた。

 グラスがいきわたったところで皆が乾杯し料理を食べ始める。

 ちえりが差し入れした雅ビーフは炭火表面を炙った後にアルミフォイルで養生したと義人が説明するが、口の中に肉汁が広がるのと同時に溶けていくような美味しさだ。

 ダッチオーブンから取り出された京地鶏は和牛とは対照的にしっかりした歯ごたえの中に、確かな旨味が感じられる。

 鈴音は「スモーク」で仕事を始めたことでマスターと知り合い、新たな仲間が増えたことを思い返して、人生は何が幸いするかわからないと考えていた。

 やがて、食事が一段落したときにちえりがマスターに告げる。

「マスターの観察や推理が確かなことがよくわかりました。もしよろしければこれからも私の友人が事件に遭遇して困ったときにご助力いただけませんか」

 マスターは嬉しそうな顔で彼女に答えた。

「もちろん手伝わせていただきますよ。いつでもご連絡ください」

 鈴音はマスターの軽い返事に微妙に不安を感じたが、自分がマスターを手伝ってどんな事件でも解決しようと前向きに考える。

 キャンプ場から見える冬の琵琶湖は青く澄んでおりまるで海のようだ。

 やがて、琵琶湖一周のサイクリングと上の西丸夫妻が合流し、パーティーは賑やかさを増した。

 真美が鈴音とマスターの関係の進展を冷やかすとマスターは穏やかに笑って受け流す。

 鈴音は周囲の光景を眺め、仲間と過ごす楽しい時間を忘れないように、心に刻み込んだ。

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京都木屋町姉小路通西入、カクテルバー「スモーク」の物語 楠木 斉雄 @toshiokusunoki2018

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