燃える夜

world is snow@低浮上の極み

ある男の浅はかな正義

 書斎の窓から月明かりが漏れる夜。


 僕は読んでいた重たい歴史書を、乱暴に引き裂いた。真っ二つになった本の隣では、さきほど粉々にしたばかりのスマートフォンが小さなスクラップ場を築いている。


 一日中あの分厚い本に齧り付いていたせいで、肩が痛い。

 僕は両手を組んで天に向け、伸びをしながら思った。


 そうだ、人でも殺しに行こう、と。


 僕は椅子から跳ねるように立ち上がると、ロングコートを身に纏い、縄とマッチと肉切り包丁を引っ掴んで外に出た。夜。人気ひとけのない通りに、僕は降り立つ。黒い革靴の足元には下り坂の石畳、見上げれば満点の星空。見回せば美しい邸宅。坂の下には賑わう夜の都会。冬らしく冷えた追い風が街路を吹き抜ける。


 僕は坂をくだり始めた。


 もとはといえば、インターネットをぶっ壊してやりたかったのだ。なぜなら本に、インターネットは戦争で発展したシステムだと書かれていたからだ。しかしそれは諦めた。実態のないものは破壊するのが難しい。


 だから僕は歩きスマホで坂を登る通行人の右手首を、肉切り包丁で切り落とした。ついで声が出ないように喉笛も切り裂いてやった。


 僕は正義感に浮き立つように坂を降りた。


 次に出会った通行人は知り合いだったので、親しげに声をかけたあと縄を首に巻きつけて、限界まできつく縛ってやった。その縄に向けて、マッチを擦って火を放つ。縄から服へ、服から髪へと、舐めるように炎が広がる。


 僕はその光景に、今日一番の安らぎと安堵を感じた。そう、我が友人はかくあるべきだったのだ。


 燃え盛る縄は風になびいて、ゆらゆら優雅な曲線を描く。僕はそれをうっとりと眺めて、微笑んだ。両脇に建つ家々からも優美な炎が噴き出せば、今夜はもっと美しくなるに違いない。この寒い時期、どの家にだって暖房器具の燃料ぐらいは置いてある。それを探してぶちまけては、一軒一軒マッチの火球を投げ入れた。


 今夜はずっと追い風だった。一つ火の手が上がった途端、二階建ての炎の華が次から次へと咲き乱れた。道を両側から照らす炎が、坂を下り切った先にある繁華街へと僕を誘導しはじめる。


 炎の中から寝巻き姿の男が転がり出て、ちょうど僕の目の前で止まった。指揮棒のように振るった包丁が、赤い雫を飛ばしながらまばゆい炎を反射した。


 男は倒れてもなお、体を丸めて何かを抱きかかえていた。足を止めてそれを奪い取る。彼が火災の中から救出したのは絵画だった。先日落札されたと噂の、著名な画家が描いた戦勝国の指導者の肖像画だ。僕は盛大に顔をしかめた。


 歴史上の偉人というやつは、本当に気が狂っているとしか思えない。


 さも尊敬に値するかのように語られているあれらの人々が、もし本当に尊敬に値するのならば、なぜ戦乱だの戦争だのに加担することができただろう。奴らは敵と見做した人間たちを命令一つで虐殺する。出撃命令を下して、自軍の兵士に命を捨てさせる。甲冑や軍服の下で、あるいは戦禍に見舞われた都市の中で、いったい幾人の罪なき人が死の恐怖に怯えただろうか!


 僕は忌々しい肖像画を炎の中に投げ捨てた。


 戦国武将も将校も、あいつらはたいてい人殺しだ。奴らの所業の闇の側面に思いを馳せてみるがいい。歴史が好きだなどと、口が裂けても言えるものか!


 僕以外の人類は、皆々揃って彼らを偉人と称える。しかし今日は追い風だ。炎が僕の味方だ。


 赤熱の業火は、嬉々として街を飲み込んだ。ネオンサインに電波塔。ここは数々の犠牲の上に成り立つ街だ。もちろんここだけではなく、世界中のどの街も。現代では、犠牲なくして街も日常もありえない。


 人類はその歴史を通して、犠牲の伴わない進歩に徹するべきだったのだ。それができないのであれば、せめて犠牲もなければ進歩もない生活に甘んじるべきだった。それだというのに人々の日常には、ネットに車に電子レンジにと、人を殺すために進歩した技術が張り巡らされている。


 そんな罪深き人間は、滅んで然るべきなのだ。


 血の跡を点々と残し、火の海を踊る。ロングコートの裾が燃えて、赤く輝く翼になる。炎で燻りだされた人間を、片っ端から切っていく。振り抜いた刃がまた一人の罪人を捉える。


「おい貴様、自分が何をしているのか分かってるのか」

 炎の中から苦し紛れの怒号が飛んだ。


 もちろん分かっているともさ。

 今日は碌でもない本を読みすぎて、肩が凝って仕方がなかったのだ。

 だからこうして肩を動かし、体をほぐしているところだ。



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 マッチと燃料だけで街ごと燃えるなんてあり得るんですかね、と首を傾げたそこのあなた。


 まずは読了ありがとうございます。

 きっとその日は尋常じゃないほどの追い風だったんだと思います。

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