三世界・羅刹降誕
人界記・貧者の都カムベラ
労働条件
人間となったイグリーズは、行く宛てもなく彷徨っていた所をアンジェリカという少女に助けられ、ヴィアトルと名乗る事になった。
彼女の家では、孤児や貧乏な家の子どもたちに食事を与えたり、仕事場を斡旋しているのだという。
御多分に漏れず、ヴィアトルもそこで食事と寝床を得る事になった。
朝食後、ヴィアトルは後片付けを手伝うアンジェリカを待ちながら考えた。
定命の人間になり必要になった事。食事、排泄、睡眠、その他。
朧気ながら前世で動物を観察して得た知識が残っていた為、最低限の生活を送れる状態ではあった。
しかし常識や人間らしい感覚はまだ無い。
幸運だったのは、観察する技能が衰えていなかった事と、その対象の年端もいかない子どもが大勢いた事だった。
トイレの機能や必要性等を理解せずにいれば、一悶着あった事だろう。
なおその間も目に届く範囲で行動していたので、アンジェリカの呼び出しにはすぐ応じた。
「じゃあ、外に行って仕事を探しにいこう」
「仕事ってなんだ?」
「人の役に立つこと。食べものや寝るところは仕事をしないと手に入らないの」
「なるほど。人の役に立つ、か。なにをすればいいんだ?」
「ちゃんと話せるし、年齢も私と同じくらいみたいだから、雇ってくれる場所はいっぱいあると思う」
ヴィアトルはアンジェリカと共に街へ繰り出した。
通りの向こう側では忙しなく動く身形の良い大人が見えるが、それを横目にヴィアトル達は木造の建物が雑然と並ぶ場所へ入っていく。
表の通りと違い、若干清潔感の欠けた空間。すれ違う人の多くはシンプルで飾り気の無い服装をしていた。
通りがかる人々は皆、アンジェリカに親しげであった。
ヴィアトルは度々自分の名前を間違いつつ、真似をして挨拶をした。
「君くらいの体格があれば、木こりでも大工でもできそうだけど」
「木を倒して、組み合わせればいいんだな?それなら――」
ヴィアトルは木を見つけ、飛んで行って蹴り倒そうとした。
当然、数メートルを駆ける跳躍力は無いので、空回りしてその場で転ぶ。
「だっ……!?」
ヴィアトルは擦りむいて血が滲む膝をまじまじと観察する。
「怪我したの?――擦りむいたのね。近くに川があるから、そこで傷口を洗おう」
「ああ。……んんっ!?」
ヴィアトルは体に走る衝撃に驚く。初めて経験する痛みであった。
平気な顔をしながらも、動く度に過剰反応するヴィアトルを見かねて、アンジェリカが肩を貸す。
「?」
「川はすぐそこだけど、これで歩ける?」
ヴィアトルは曖昧に頷きつつ、膝をじっと眺めていた。
自分の体が非常に弱く、脆い状態である事を理解する。
川に到着すると、傷口を軽く洗って布を巻いてもらった。
「水は十分にあるから心配しなくていいよ」
「ああ、水もこまめに飲まないとだったな」
「飲むのもそうだけど、この国は体や物を洗うだけの水があるから。体をきれいにするのも忘れないでね」
一日に水を何度も飲み、体格に見合った移動しかできず、ちょっとしたことで怪我をする。
ヴィアトルはなんとなくではあるが、感覚のずれがある事に危機感を覚える。
「こんなんじゃ木を倒すなんてとても無理だな。もっとこう、力がいらないことはないのか?」
「力が要らない仕事ね。炊事とか洗濯とかはもっと小さい子がやってるから……でも」
アンジェリカはヴィアトルの体をまじまじと見る。
不安そうな目だった。
――
ヴィアトルはアンジェリカに連れられて、川沿いにある石造りの建物へやってきた。
耳を澄ませると、周期的に甲高い音が響いているのが聞こえる。
「オリバ、いる? アンジェリカだけど」
アンジェリカの呼びかけへの反応は無い。
「朝から働き者ね。確かこの辺に――」
建物の入口と思しき場所は開けていて、中に雑多なものが入った木の棚が並んでいる。
その脇に、円盤状に加工された金属製の物体と、先が丸い棒が置いてある。
ヴィアトルからすればどれをとっても初めて見るものだ。
おもむろにアンジェリカが棒を手にして、円盤を勢いよく叩いた。
低く大きな音が鳴り響き、ヴィアトルは思わず後ろへ飛びのく。
「なんだなんだ!?」
それに呼応するように甲高い音が消え、騒々しい足音が聞こえてくる。
「いらっしゃい!――おお、アンジェ!どうした?」
走ってきたのは、特徴的な帽子と革のエプロンを身に付けた少年だった。
背はヴィアトルよりも高く、細身ながら腕はがっしりとしている。
「新しい子。ここがいいと思って」
「なるほどなるほど。師匠なら余裕で断るだろうが、俺がなんとかする!」
そう言うと、少年はせかせかと中へ戻っていった。
「彼はニコラス。ここで鍛冶仕事をしているの。
歳も近いし君と雰囲気が似てるから、相性はいいと思う。たぶん」
「カジってのはどういう仕事なんだ?」
「金属を使って道具を作る仕事なんだけど――」
「バッカモーーン!!」
突如、建物の中から円盤の音に匹敵する怒号が飛んできた。
呆れ顔のアンジェリカをよそに、ヴィアトルは入口から様子を窺う。
膝をついて頼み込むニコラスに、白い髭を生やした老人が怒っていた。
「弟子なんぞ取るか!わしは自分のペースでやりたいのだ!さっさと追い払え!」
「師匠!そこをなんとか!」
「だめだ!」
「そこを!」
「……」
「なんとか!」
「お前はそれしか言えんのか……」
老人は大きな溜息をつくと、細く鋭い目でヴィアトルを睨んだ。
ヴィアトルは敵意と怒りを感じ取りながらも、特に恐怖は無かった為、目線を返す。
しばらくの間その状態が続いたが、入ってきたアンジェリカが均衡を崩した。
「おはようオリバ。この子は新しく来たヴィアトル。ニックと似てて危なっかしいから、ここで面倒を見てほしいんだけど」
「アンジェ……もう受け入れはしないといったろう。
ただでさえこの坊主に手がかかってる。わしの寿命を縮めないでくれ」
「街の人はスラムの子を嫌ってるし、外から来た子は他の仕事だと馴染めないと思うんだ。駄目かな?」
「ぐぬぬ……」
老人オリバは眉間にしわを寄せながら唸っている中、ニコラスが小声で話しかけてきた。
「師匠はアンジェの家に良くしてもらってたから強気に出れないんだ。いつものことだから、今に折れるさ。
あ、俺はニコラス。よろしくな!」
「俺はヴィアトルだ。その人がシショウ?オリバ?」
「ああ、師匠のオリバだ。気難しい爺さんで、人を嫌って街の方からスラムの方へわざわざ越して来たんだってさ。変な人だよな」
「ニコラス!聞こえとるぞ!」
ヴィアトルの頭の中では、オリバと師匠どちらが名前なのかという疑問が暫く漂っていた。
オリバはその間、自らの強硬な意思を表すかのように目を固く閉じていた。
そして大きな溜息と共に目を開いて告げる。
「わかった。一日だけじゃ。それで最低限の事を教えてやるわい。それ以降は野垂れ死のうがほっぽり出すからな!」
オリバはそう言い残して背を向けた。
アンジェリカとニコラスは笑みを浮かべている。
「俺の時なんて三ヶ月だとか言っときながら、もう五年も経つんだぜ。とすると、えーっと?」
「少なくともあと二十日は大丈夫ね」
「そうなのか?」
ヴィアトルは素直でない彼の態度をうまく理解できなかった。
単なる嘘や誤魔化しとは違った複雑な感情の機微。前世での他人との関わりには無かったものだ。
この場においては、オリバは性格に難があるが群れから放逐されない何かがある不思議な人間なのだと感じた。
「早くせんか!当分はわしの言う事に従ってもらうから、キビキビ働け!」
「ああ、わかった」
「それじゃ、私は家に戻るね。気兼ねなく訪ねてきて」
足早に立ち去るアンジェリカの後ろ姿を眺めるヴィアトル。その肩に、ニコラスが腕を回す。
「おうおうヴィー、他人に気ィ向けてる場合じゃないぞ!師匠は厳しいから最初は大変だぜ」
「ヴィー?」
「ヴィアトルだろ?名前。これから一緒に仕事するってのにいちいち呼んでられねえ。
俺もニックでいいからさ、よろしく頼むぜ!」
「よろしくニック。そういえば、名前を短めに呼ぶなんてことなかったなぁ。
長いのだとアヴェロシュヴェルツィーユってのがいて――」
「まじか……外国は大変だな」
ヴィアトルは人間として生きる為に仕事場と最低限の人間関係を手に入れた。
今はまだ流れるままに暮らし、言われた事を遂行するのみ。しかし、壁に当たり変化を強いられるまで時間はかからなかった。
パンデモニック・トリニティ 桑畑 絃 @MulberryString
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