人と目覚め
もう一人のイグリーズが夢から覚める。
自分が分身である事を、本人は知る由もない。
「なんだ!?」
気が付いた時、イグリーズは固い地面に這い蹲っていた。
身の回りの白はいつの間にか空の青と、建物の雑多な色へと変わっている。
「体を確認……は!?」
泥のついた手は少々不健康な血色。やせ細った手足。そして、背中には何もない。
「翼がなくなってる? それにこの声は……」
状況を確認できないまま辺りを見回すと、石の道を石造りの家が囲んでいる。そして遠くから、歩いてくる人影がある。
「……誰だ?」
前からやって来る人影は複雑な色と形の布を着ていて、翼が付いていない。
イグリーズは数分を費やして、眼前の翼が無い人が自分達とは違う『人間』である事を理解する。
「翼の無い人間の住んでいる場所に来たのか。でもなんで俺の翼が――」
半ばパニック状態のまま、さらに数刻を費やす。
大半の人間は、何故か通りの途中で家に入っていき、イグリーズの立つ場所までは近づいて来る人はいない。
日が傾き始めていた。
「――こんな場所でどうしたの?」
そんなイグリーズに声をかけてきたのは、白い、簡素な装飾の服を着た少女。
肩まで伸びた整った髪に、琥珀色の目。落ち着いた、どこか暗い雰囲気があった。
「俺は、俺は……」
イグリーズは混乱していた。間に合わせの、気の抜けた返答をする事しかできない。
対照的に、少女は慣れた様子で対応する。
「私はアンジェリカ。貴方の名前は?」
「俺は……イグリーズ。でも、今の俺には……」
名前を耳にしたアンジェリカが目を伏せる。
「もしかして、親のところから逃げてきたの?」
「親?いや……あ、そうだ。ギーグという老人に伝えなきゃいけないことがある」
アンジェリカは何かを考えながらも、微笑みを忘れない。
「うん、ついてきて。あと――その名前、あまり口に出さない方が良いよ」
「……?わかった」
特に事情を理解せずとも、イグリーズは言われた事には従った。
これまでの人生で騙されて酷い目に遭った事は一度として無かったからである。
通りを少し歩き、アンジェリカは広い庭のある大きな家の前で止まった。
イグリーズは状況を飲み込めないまま話を続ける。
「それで、さっき名前を言ってた老人に伝言があったんだよ。えっと……あれ、なんだっけ」
「残念だけど、ギーグって人は知らない。でも、君の名前……イグリーズについては知ってる」
「なんで?」
「嫌われものなの。この街、いや、この世界で」
「お、俺がか!?」
「安心して。君はただ同じ名前ってだけ。だけど、あまり名乗らない方がいいよ」
イグリーズには情報を理解する力が十分に備わっているが、短時間で物事を整理する事は出来ない。
さらに、会話の中で生じたある違和感が頭の回転を遅くしていた。
「俺は……いや、何だ?何を伝えるんだったっけ?ギーグ、魂、三つの体……なんだ、分からない、どうしてだ」
イグリーズに起きた肉体の変化は翼だけに留まらなかった。
一挙一動が周りをかき乱す様なエネルギーもなければ、数万年を生きる寿命も無い。夢の内容を完璧に覚えている頭脳も無い。
残ったのは、提示された情報と、思い出せない夢の言葉と、蓄積した疲労。
イグリーズは目を閉じてその場に倒れ込む。
そこで初めて、自分が『人間』になっていた事を理解したのだった。
――
白い空間。
『聞こえますか、イグリーズ』
「あれ、またここに来たのか。あれ――翼が戻ってる!」
イグリーズの背中には、かつてと同じように隼の翼があった。
それだけではない。現実では気が付かなかったが、目線の高さや体の大きさが戻っていた。
『残念ですが、ここは夢の中です。目覚めたら、貴方はまた翼の無い体に戻ってしまいます』
「そんな……俺はどうすればいいんだ」
『不便かもしれませんが、貴方が人間の体になったおかげで私も合わせやすくなりました。
繋ぎ続けるのはまだ難しいですが、こうして話す事が出来て何よりです』
「なぁ、お前は誰なんだ?」
『私はセム。魂――といっても伝わりませんね。体が無い人間です』
「体が無いのか。見えないし聞こえもしない……なんで聞こえるんだ?」
『聞いているのは貴方です。見ているのも貴方です。私はこの世ではない場所に在るだけ。貴方に起こった問題を解決するために、少々在り方を変えましたが』
「うん、よくわからないな。ところで、俺に起こった問題ってなんだ?伝言ができてないことか?」
『伝言は届きました。今の貴方の問題は、これから翼の無い人間として生きなければならないという事です。
イグリーズ、今の貴方には翼がありません。それでも貴方はイグリーズなのです』
「翼がなくても俺はイグリーズ……あれ、でも名乗らない方がいいんだっけか」
『翼が無いという事は――おっと、目が覚めてしまうようです。
貴方が出会ったアンジェリカは優しい子です。暫く彼女と共に過ごしてみてください』
「またこの感覚か――」
――――
イグリーズが起きると、そこは簡素なベッドが並ぶ部屋だった。
他には誰も居ない。小さな窓から朝日が差し込んでいる。
「また知らない場所か。翼はないけど俺はイグリーズ……よし」
独り言ちていると、扉がノックされる。
イグリーズは物音に反応し、不思議そうにそちらを見る。
「……?」
「大丈夫?私。アンジェリカ」
「ん? ああ、大丈夫」
イグリーズはノックというものを知らない。そもそも扉を知らない。
よく分からないまま、入室を許可していた。
「入るね」
アンジェリカは昨日とは違う服を纏っているが、変わらず質素なものだった。
それでもイグリーズが身に纏っていた襤褸切れより上等なものだった。
「具合はどう?急に倒れたから驚いたよ」
「ああ、俺は――どうしたんだっけ」
「名前だけ教えてもらったよ。何か、話せる?」
「なにか?えーっと、俺は、夢にいて、翼が無くなって、夢にいて、イグリーズで……」
「その名前、気に入ってる?」
「名前って言われても、俺はイグリーズだし……名乗らないようにはするけど」
アンジェリカは物憂げな表情になり、会話が途切れる。
一晩の睡眠がイグリーズをまったく変えてしまったなどという事は無かった。時間感覚も社会常識も不死身の人外のそれのままである。
一般的に気まずいといえるこの状況に対する関心は無く、打開する必要性に思い至る事すら無かった。
だが、沈黙を裂いたのはイグリーズであった。
腹が鳴ったのだ。
「そういえば、なんだか」
「うん。朝食は用意してあるよ。下に降りよう」
「チョウショク……」
理解しているわけではないが、指示には従う。朝食の意味を考えながらゆっくりと後を追った。
階下には長い廊下があり、部屋が多数存在していた。窓から差す光は弱く、少し暗い。
派手な装飾は無かったが、イグリーズにとっては見るもの全てが新鮮であった。
「暗い場所は見えにくいままだし、匂いもほとんどわからないな。
あ、でもこの匂いは――」
匂いの元で目にしたのは、光の差す大広間。
そして子どもたちが席に座って食事する光景であった。その殆どは今のイグリーズよりも背が低く、健康体ではあるものの痩せていた。
「みんな、ゆっくり食べてね。一気に食べ過ぎると体に悪いからね」
「こ、これは!?」
「君の席はここ。喉につまらせないように、水もしっかり飲んでね」
イグリーズは放心したまま席に着き、しばらく何も手に付けなかった。
だが、体に自然に動き始める。周りの子どもたちが料理を口に運ぶのを見て真似をするように。
「なんだこれ、なんだこれ!?」
口にするや否や、味とともに、かつて感じたことのない感覚が体に走った。体の本能がその感覚を求めている。
皿の上のパンやソーセージがみるみるうちに消えていった。
「なんだこれ!」
「おいしいってことだよ」
「そうなのか!おいしいぞ!」
イグリーズはこれまで人間の上質な料理を食べた事が無かった。
そもそも前の体には、味覚から幸福感を得るという機能が無かった。
生きる為の食事を全うし、脳から報酬を受け取る。その経験が初めてだったのだ。
周りの子どもたちよりも後から手を付けながら、食べ終わりが同じになる程の勢いで平らげた。
「もうなくなってしまった」
「みんな食べ終わったね。はい、ごちそうさま」
アンジェリカが手を合わせると、子どもたちが続く。イグリーズはその後に続いた。
子どもたちは立ち上がって、食器をどこかへ運び始めた。
「もし気分が悪くなったら遠慮せずに言ってね。
説明が遅れたけど、私の家は身寄りがない子どもたちの面倒を見てるの。
君、外国から来たんでしょ。最近はそういう子も増えてるから、安心して」
「ガイコク?」
「遠い所、かな」
「遠い……まあ、そうかもしれないな」
「色々話す必要があるみたいだけど、まずはそれ、片付けようか。向こうへ持っていってほしい」
「わかった!」
イグリーズはすぐに食器を指定された場所へ持っていく。
アンジェリカは表情がころころ変わるイグリーズの様子を見て少し笑った。
「なんだか君、面白いね」
「そうか?あ、ところで、イグリーズって名乗れないなら、俺はなんて名乗ればいいんだ?」
「そうだね……ヴィアトルって名前、どう?」
「よし、俺はイグリーズだが、これからはヴィアトルだ!」
人間のイグリーズはヴィアトルと名乗る事になった。
新しい体の生活に追われ、長くものを考える時間は無い。
自分の身に起きた問題を解決する日は果てしなく遠くにあった。
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