第51話 事故
——絶対絶命だ……。
蒼壱は控室で一人、ドレスを握りしめて青ざめていた。
王妃教育の最中に王后が乱入してきたのは先ほどの事だ。彼女はヒナと蒼壱を見るなり、にこやかな笑みを浮かべ、「お茶会を開催しましょう」と言い出した。ヒナは無邪気に「素敵ですね!」と受け入れたが、王后の腹黒さを知っている蒼壱は「今は勉強の時間ですので」と拒否した。
「国母となるヨハン第一王子の妃として、どちらが優れているか、私に示しなさい」
王后が鋭く突きさす様な視線を向けて言い放ち、蒼壱は優雅にお辞儀をしながら瞳を伏せた。
「お言葉ですが、ヒナ様は聖女であり、ヨハン第一王子殿下の妃候補としてこちらにおられるわけではございません」
蒼壱が反論すると、王后はわざとテーブルの上に置かれていたティーカップを床に落とした。当然ながらカップは粉々に砕け散り、中に入って居たお茶は蒼壱のドレスを汚した。
「まあ、その恰好では王妃教育を続けるのは難しいのではありませんか? 替えのドレスを用意させましょう」
王后の言葉に蒼壱は慌てて「結構です! 邸宅に戻りますから!」と拒否したが、王后はそれを赦さなかった。強引に蒼壱を着替え部屋へと押し込んで、使用人を数名手伝いにつけさせたので、なんとか理由をつけて使用人を部屋から追い出したものの、着替えに用意されていたドレスを見て、蒼壱は血の気が引いたというのが現状だ。
王后が用意していた替えのドレスは、肩や胸元が開いているデザインだった。男の蒼壱に着れるはずがない。いつも首元から肩も隠れる様なドレスを着て、胸には大量のパットを詰め込んでいるのだ。細身とはいえ筋肉もそれなりについている男らしい肩を見せようものなら、一瞬のうちに男性であることがバレてしまうことだろう。
——どうしよう。窓から逃げるか!?
蒼壱は混乱し、華さながらの行動を取りそうになりながらも、狼狽える事しかできなかった。
コツコツと扉がノックされ、蒼壱は飛び跳ねんばかりに驚いた。
「まだ着替えが終わってません!」
と、上ずった声を発すると、「蒼壱? 大丈夫!?」と華の声が扉の外から響いた。
——救世主!?
「華っ!! 助けてっ!!」
涙声で叫んだ蒼壱の声を聞き、華はフォルカーと共に室内へと入って来た。
「うわ、酷い状態」
華は蒼壱の着ているドレスを見て顔を顰めた。お茶はドレスの裾だけではなく、膝の辺りからたっぷりと掛けられている。どう見ても故意に掛けた事が明白だ。
フォルカーもうんざりしたように肩を竦め、「確かにこりゃひでぇ」と眉を片方下げた。
そして蒼壱に対し、フォルカーは袋を放り投げた。中には男性物の服が入っている。
「とりあえずアオイはそれに着替えな。嬢ちゃんがドレスを着ると良い」
「選手交代だね!」
華は蒼壱が途方に暮れながら握りしめていた着替え用のドレスを手に取ると、衝立の奥へと行き、着替えを始めた。
「おいおい、そんな衝立一つで……」
顔を赤くしてフォルカーが思わず衝立から目を逸らしたが、華は「いいからコルセット締めるの手伝って!」とフォルカーを呼びつけた。
「俺にやらせる気か!?」
「蒼壱は蒼壱の着替えがあるもん。大丈夫、剣技大会の時ミゼンにも手伝って貰ったし!」
「何がどう大丈夫なんだ!? 俺はちっとも大丈夫じゃねぇぜ!?」
「ほら、早く。遅くなると王后陛下に怪しまれちゃうじゃない」
「ちょ!? いや、そいつぁ……えーと」
「別に裸見せるわけじゃないんだからさっさとしてよね!」
フォルカーは渋々衝立の方へと行くと、なるべく華を見ない様にと顔を反らしながらコルセットの紐を締めた。
「ぐえっ! 締めすぎ!! 殺す気!?」
「いや、だってよぉ!?」
「バカ力なんだから少しは加減してよ!」
「んなこと言ったって!」
「ほら、次。こっち持ってて。結ぶから」
「う、うーむ……」
「ああもう! あれこれめんどくさい服だよね、ドレスって!」
衝立の奥でフォルカーと格闘でも繰り広げているかのような会話をしている横で、蒼壱はドレスを脱ぎ、フォルカーから受け取った男性用の服へと着替えをした。
フォルカーはというと、できるだけ見ない様にとしていたものの、つい欲望に駆られてチロリと華の様子を見た。
白くすべすべとした背中を、ひとかけらの警戒心も無く見せつけるその様子を見て、思わずムラムラとしてくる自分に焦った。
「じょ……嬢ちゃん」
「何?」
「少し触っても……」
「あ、ドレス取って」
「お、おう!」
「うわあ、パッド詰めまくらないとおっぱい足りないっ! フォルカー、パッド5~6枚取って!」
「………」
——嬢ちゃん、俺。男なんだぜ……?
「ふぅ。なんとか着れた!」
華が衝立の後ろから戻って来ると、蒼壱はその姿を見て思わず噴き出した。
「華、髪がボサボサじゃないか」
「うあっ!? しまったっ! 私ポニーテールしかできないっ! 額の傷もどうしよう!?」
フォルカーがため息をつくと、「仕方ねぇなあ!」と、華の髪をすっと持ち上げた。首筋に手が触れたので思わず「ひゃっ!」と声を発すると、「ちょっと動くなよ」と何故か器用に華の髪を整え始めた。
長身でがっしりした体躯の男が、女性の髪を器用に整えている姿はどうにも異様である。
「ふぉ……フォルカー、どうしてこんなことできるの!?」
「いいから黙ってろって」
唖然とする華の髪を素早く整え終えると、今度はメイク道具を引っ張って来て手際よくメイクを施していった。
「よし、上出来だ!」
満足そうにフォルカーはニッと笑うと、華に鏡を差し出した。
綺麗に整えられた髪と薄化粧は華の容姿にぴったりと合っており、蒼壱が女装する為に塗りたくる厚化粧とはまるで別物だった。額の傷も前髪で上手く隠している。思わず華本人も「おお!」と、感嘆の声を洩らし、蒼壱も「華が化けた」と言ったので、華にポコンと殴られた。
「嬢ちゃんは元が良いからな」
「ねぇフォルカー! どうしてこんなことができるの!? あんた、まさか女装趣味があるんじゃ……」
「バカ言え!!」
フォルカーは慌てて否定すると、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ハリュンゼンは女王国家だろ? 女王の夫である王配は、女王の身の回りの事も多少は出来るようにと教育を受ける事になってるんだ。だから、これはその王配教育の一環で教え込まれたってわけだ」
「フォルカーが奥さんの身の回りのお世話をするの!?」
「いや、実際は専属の侍女がつくから、俺が世話をすることは無いだろうが、女性筆頭のお国柄そういう決まり事があるってこった。まあ、気にするな。役立って良かったじゃねぇか」
蒼壱はポカンとしてフォルカーを見つめた。
——それってつまり、ヨハンの妻になるよりも、フォルカーの妻になった方が女性にとってはよっぽど幸せって事じゃないか……?
そう考えて、それは安易な考えだと首を左右に振った。つまりはそれほど女王としての役割が重要で、多忙な毎日を送る事になるということなのだ。どちらにせよ、華は現実世界に帰る身なのだから、あまりフォルカーと関わらせない方がいいかもしれない。
華に現実世界に帰りたくないと思わせるわけにはいかないのだから。
「華、早く行かないと。王后はお茶会を意地でも開催したいらしいから」
「分かった! 蒼壱、またあとでね。ありがと、フォルカー。」
お礼を言って急ぎ扉に向かおうとした華の手を、「ちょっと待った」とフォルカーが掴んだ。
「俺へのご褒美を忘れてねぇか?」
「ご褒美? そういえば、剣技大会で蒼壱を運ぶのを手伝ってもらった借りもあったよね。今度じゃあ何か美味しいもの……」
「ほっぺにチューしてくれりゃあ大満足だ」
フォルカーの申し出に華は「……え?」と、固まった。だが、フォルカーは満面の笑みで頬を出すと、「軽くチュっとしてくれたらいい」と、期待感露わに言うので、華は戸惑って顔を真っ赤にした。
「え!? そ、そんな! 恥ずかしいんだけどっ!!」
「そういう照れた感じもご褒美の一環だなぁ。嬢ちゃんの初々しさは男を誑し込む最高の武器だな」
「た、誑し込むってどういう意味!?」
蒼壱は二人のやりとりを見つめながら、『ほっぺにチュー程度で借りを返せるだなんて、女の子って役得だな』と、苦笑いを浮かべた。
「華、早くしないと王后が不審に思うよ? ビズの練習だと思えばいいじゃないか」
「そ、そうだけど!!」
蒼壱に促されて、華は意を決してフォルカーの肩を掴み、その頬へと顔を近づけた。キスをする手前で躊躇し、ピタリと顔を止める。
——ど、どうしよう! フォルカーの香水の匂いかな? ワイルドなくせに何気に良い匂いするし。恥ずかしくて死にそうなんだけどっ! ほっぺにチューもできないだなんて、私って女の子として終わってる? フランス人は子供の頃からビズをするのにっ!
長い間硬直し、フォルカーの肩を掴む華の手が震えている事に気づき、フォルカーはなんだか申し訳なくなった。
「あ……嬢ちゃん、無理言って悪かった。俺は……」
ちゅ……と、フォルカーが華の方へと顔を向けた瞬間、華が口づけをした。それは頬ではなく、唇へ、だ。
フォルカーは驚いたものの、自分の気持ちを止める事ができなくなり、思わず華の背に腕を回し、濃厚なキスをした。
それを見ていた蒼壱は目玉が飛び出そうな程に驚いた。
「最高のご褒美だ」
フォルカーは頬を紅潮させて幸せそうに笑った。ピシリと硬直している華を見つめて慌てたように「わ、悪い! 止まらなくなっちまって!」と、弁解しながら眉を下げた。
「……フォルカーさん、姉は多分、ファーストキスだと思います」
「は!? いやいや、キスなんて挨拶みてぇなもんだろ?」
——残念ながら、日本人の俺達にとって、挨拶とは随分かけ離れた行為だ。華はフランス人の知人が遊びに来た時のビズでさえ恥ずかしがってしないのに……。
華の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「いや、意味わかんねぇ! 着替えを俺に手伝わせておいて、ファーストキスだと!?」
「意味わかんなくて悪かったね!」
華は顔を真っ赤にしたままフォルカーを睨みつけた。
「もう、最低っ! フォルカーの馬鹿っ! 舌嚙み切ってやれば良かったっ!!」
「そ……そんなに嫌がらなくたっていいじゃねぇか!」
「嫌がるに決まってるじゃないっ!! 大嫌いっ!」
華は部屋から出て行くと、バン!! と、扉を激しく閉じた。
「嘘だろおい……やっちまったっ……」
フォルカーがこの世の終わりだとでも言わんばかりにがっくりと膝をつき、項垂れた。蒼壱はその様子を何とも言えない気持ちで見守った後、おずおずとフォルカーの側へと近寄った。
「そんなに落ち込まなくても大丈夫だと思いますけど」
「絶対軽い男だって思われたっ!」
——実際軽いんじゃ……?
「でしょうね……。でも、普段からあんなノリじゃないですか」
「いや、俺は本気で嬢ちゃんを嫁に迎えたいって思ってるんだが、どうも伝わらねぇ」
「え!?」
ぎょっとした蒼壱の前で、フォルカーは深々と頭を下げた。
「アオイ、俺は嬢ちゃんに本気で惚れてんだ。さっきのキスだって、気持ちが抑えきれなくてつい……。だが決して軽い気持ちでなんかじゃねぇんだ」
「俺にそんなこと言われても……」
「分かってる。ただ、これだけは分かって欲しかったんだ。俺が嬢ちゃんに本気だってことだけは。嬢ちゃんの気持ちは重々承知だ。ヨハンの奴が好きだってこともな」
アオイはため息をつくと、「俺はヨハンよりフォルカーさんの方がいいとは思いますけど」と、頬を掻いた。
「あの通り姉は猪突猛進型なので、フォルカーさんの様な大人の男性の方が似合っていると思います。ヨハンは、余裕が無い様子ですから、姉には合わないと思います」
——どっちにしても、俺達は現実世界に帰らなきゃならない。それなら、苦しい恋をする必要なんかないじゃないか。
蒼壱はぎゅっと拳を握りしめると、ニコリとフォルカーに笑みを向けた。
「姉も、あれでいてフォルカーさんを嫌ってるわけでは無いと思いますから、大丈夫ですよ。少し驚いただけでしょう」
もしかしたら、これをきっかけに華の気持ちがフォルカーに向くかもしれないと蒼壱は思った。
乙女心というものは本当に複雑だ。特に華の様に男性に対して免疫が無ければ、ときめく身体の様子と心とが最初のうちは不一致でも、相手の事をよほど嫌いでない限りは恋心へと転換しやすいものだ。
だからこそ、あれほど嫌っていたヨハンにも、いつの間にか気持ちが向いてしまっているのだろう。吊り橋効果とはよく言ったものだ。
「善は急げだ。謝ってくる!」
と、フォルカーが立ち上がったが、蒼壱は「行かせません」と首を左右に振ってそれを止めた。
——恐らく、今フォルカーが華を追いかけてぎゅっと抱きしめたりでもすれば、華は瞬く間にフォルカーの虜になることだろう。
この世界はゲームの中だ。これ以上華の気持ちを翻弄されて堪るか。
双生の悪役令嬢 ふぁる @alra_fal
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