第50話 わだかまり
華は剣の素振りをしながら、ふぅと小さくため息を吐いた。ヨハンは公務が立て込んでいると言って、稽古に遅れて来ると連絡があった。一人ではどうもやる気が起きないと、剣を置き、その場に座り込んだ。
——さっきのスコーン、美味しかったなぁ。ミゼンは蒼壱にも優しくていいな。それに比べてヨハンはハンナに冷たすぎるもの。婚約者なのに、わざとらしいくらいに素っ気ないし、出来るだけ関わらない様にしているみたい。
『くだらないことで貴重な時間を割くものではない』
華は、孤児院でヨハンに言われた言葉を思い出し、ズキリと胸が痛んだ。
——自分の婚約者が、弟に口説かれる事が、ヨハンにとっては『くだらない事』なんだ。確かにミゼンは私を揶揄ってただけだけど、それでもあんな風に言われたら傷つくよ。
この先もハンナになるのは憂鬱過ぎる。どうせまた、ヨハンは冷たいんだもの……。
そう考えて、華はハッとした。
——私、王妃教育が嫌なだけじゃなく、ヨハンに冷たくされるのが嫌だから、ハンナになりたくないんだ……。
どうして……?
私、ひょっとして……
華はぶんぶんと首を左右に振ると、両頬を叩いた。
嫌われて嬉しい人なんて居ないんだから、別に普通のことだし! 特別な事なんか何もないっ!
「アオイ、サボっていては師に怒鳴られるぞ?」
ヨハンが稽古場へと入って来ながら笑って言い、華は慌てて立ち上がった。
「ちょっと考え事してただけ!」
慌てたせいで上ずった声が出てしまい、華は恥ずかしそうに口を押えた。
「ははは、遅れてすまなかった。一人での稽古が気乗りしないのは私も同じだ」
ヨハンは上着を脱いで稽古場の隅に掛けると、準備運動を始めた。サラサラと長い前髪が揺れ、日の光を浴びて黄金色に輝く髪を綺麗だと思い、華はじっと見惚れた。
エメラルドグリーンの輝く瞳に、長い睫毛。キリリとした眉。すっと通った鼻筋に形の良い唇。現実にこんな美しい王子様が居たのなら、アイドルの様に大人気で、ヨハンは公務どころでは無くなってしまうだろうと、華は思った。
「偶には手合わせでもしてみるか?」
自分をじっと見つめる華に、ヨハンは不思議そうな顔をして声を掛けた。
「へ!? い、いいよ。王子様に怪我なんかさせたら大変だし!」
「自信満々だな。私に負けるとは微塵も思っていないとは。確かに剣技大会ではそなたに惨敗だったからな」
「そ、そういうんじゃなくてっ!!」
——だってあれは、ヨハンが躊躇したから……。
「そなたに一つ確かめたい事があるのだが、良いだろうか」
「へ!? な、何!?」
ドキリとした華に、ヨハンは少し躊躇うように視線を外し、華へと戻した。
「額の傷痕を、見せてはくれぬか?」
ヒヤリと華の心が冷たく冷やされた気がした。
「……どうして?」
震える声でそう言うと、ヨハンは申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
「ヒナ嬢の治癒魔法が不安定であると報告があってな。ミゼンの傷痕も検めたが、その不安定さの原因を解く為に、そなたの傷も検めたいのだ。アオイは、傷をそうやって隠しているということは、他人に見られる事に抵抗があるのだろう? 大臣達の目に晒すより、私が検める方が良いだろうと思ったのだが」
——傷痕をヨハンに見せるだなんて、そんなの嫌だ……!
華は唇を噛みしめた。
でも、アオイ・ランセルならきっとそんなこと気にしないはず。傷は男の勲章だって、快く見せるのが普通なんだよね……?
「……わかった。いいよ」
華はバンダナの結び目を解くと、その場に座った。ヨハンに傷痕が見えるようにと前髪を掻き上げる。
ヨハンは華の側に膝をつき、額に触れた。華はこの時間が早く過ぎればいいと、耐える様にぎゅっと瞳を閉じた。
「……痛みはもう無いか?」
「うん。全然」
「大事に至らなくて良かったが、そなたは本当に無茶をする」
——こんな傷痕がある女の子なんか、ヨハンの婚約者として相応しくないよね……?
ズキリと華の心に痛みが走った。痛みに耐えながら、華は震える声でヨハンに問いかけた。
「ねぇ、ヨハン……。もしも……もしもだけど。ハンナが私みたいな傷があったとしたら、どうする?」
ズキズキと痛む心を押さえつけるように、華は胸の辺りでぎゅっと拳を握り締めた。
ヨハンは僅かに笑うと、溜息を吐いた。
「身体に傷痕がある令嬢を、妃として迎え入れるのは困難だろう」
————。
「私はともかく、周囲が認めぬだろうな。尤も、彼女にはそのような傷は無いとは思うが。最近のハンナ嬢はお転婆な時もある様だが、それでもそなたの様に剣の稽古をしているわけでもあるまい。私は以前の澄ました彼女よりも、今のハンナ嬢の方が好感が持てる。剣技大会で観覧席から飛び降りた時は驚いた。それほどにミゼンを心配していたのだろうが、正直少し妬けた」
華の脳内にヨハンが先に言った『身体に傷痕がある令嬢を、妃として迎え入れるのは困難だろう』という言葉がエコーの様に響き、その後に言った言葉など全く耳に入って来なかった。
「おーい!! アオイ、ヨハン!」
フォルカーが叫びながら手をぶんぶんと振り回し、駆け寄って来ると、余程慌ててきたのか、切らせた息を必死で整えた。
「何かあったのか?」
不思議そうに問いかけたヨハンに、フォルカーは「あったのなんのって!」と王宮を指さした。
「ハンナ嬢とヒナ嬢の王妃教育の様子を見たいってんで、王后陛下が二人の教室まで突然訪問したらしいんだけどな? そこでなんだかよくわからねぇが、能力比べをさせようってことになっちまったらしい!」
——蒼壱が?
華は心配になって眉を寄せた。蒼壱が普段通りにこなせばヒナに負けはしないだろう。けれど優しい蒼壱が、王后の前で本気を出してヒナに勝つ事などできるはずがない。わざと手を抜くか失敗するかして、自分の価値を低く見せてしまうに決まっている。
「そんなことか、別に好きにやらせておけば良いではないか」
ヨハンがつまらなそうに言うと、フォルカーはうんざりしたようにため息をつき、華を見つめた。華は首を左右に振り、ヨハンへと視線を向けた。
ヨハンはどうしても、ハンナへのわだかまりが強いのだ。生誕祭での出来事をハンナとして弁明する機会も無ければ、ミゼンとまるで恋人のように仲良く過ごして様子についても、否定する時間が無かったのだから仕方の無い事だ。しかし、意地を張っていて得する事などひとつもない。
フォルカーがやれやれと肩を竦め、フォローの言葉を吐いた。
「王后陛下は、『妃としての能力比べ』と言った。つまり、ヒナ嬢をただの少女としてなんか見てねぇってこった。ヒナ嬢は剣技大会で、アオイの恋人として認知されてるはずだってのによ」
「アオイの努力が無駄に終わってしまったというわけか。それは申し訳ないな」
サラリと答えたヨハンに、フォルカーは苦笑いを浮かべた。
「おいおい、お前の伴侶を決めようってんだぞ? それでいいのか? 言いたかねぇが、あの王后陛下のことだ、目的の為には相手を傷つける事だって厭わねぇぜ?」
フォルカーはヨハンのハンナに対する蟠りを解消しようと、一生懸命にフォローした。が、ヨハンはふいと顔を背けた。
「私に妃の決定権はない。最も優れた者が、未来の国母となるのは間違った見解ではないはずだ。民もそう望むことだろう」
——ヨハンにとって、私と結婚しようとヒナと結婚しようとどうでもいいことなの?
「しかしフォルカー。何故そなたはそのような情報を知ったのだ? まさかハンナ嬢やヒナ嬢のストーカーをしているわけではあるまいな?」
「アホか!? 使用人達が着替えだなんだって騒いでたから聞いただけだっつーの!」
「着替え?」
華の質問に、フォルカーは「おう!」と頷いた。
「反論したハンナ嬢のドレスに、王后陛下が茶を零したとかでな。代わりのドレスに着替えるってんで、今使用人達に連れていかれたところだ。着替えを終えたら、王后陛下主催の茶会に強制的に連れていかれるだろうな」
華はサァっと血の気が引いた。使用人達は態よく追い払えたとしても、替えのドレスのデザインがいつも蒼壱が着るような、身体の線がなるべく分からないものとは限らない。
「ヨハン、助けに行ってやれよ。お前が一言言えば、王后陛下も無理にどうこうしねぇだろ?」
「そういったことに構っている暇はない」
「この石頭めっ!!」と、怒鳴りつけたフォルカーの肩を、華がそっと触れた。
「ハンナのところに行こう。案内してくれる?」
「アオイ、剣の稽古中だぞ? もうすぐ師もみえるというのに、私用で外すというのか?」
引き留めようとするヨハンに華は眉を寄せてジロリと睨みつけた。
「ヨハンは興味が無いみたいだから、ここでそのまま剣の稽古でも続けていれば? 私は家族のことだもん、心配だよ。あんたみたいな冷血王子と私を一緒にしないで」
華はそう言い捨てて、フォルカーと共に稽古場から立ち去った。
「……そなたまで、私を『冷血』と呼ぶのか?」
ヨハンは一人取り残されたまま、ポツリと呟く様に言い、俯いた。
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