ゾンビが俺を捕食しない!? 無敵な俺が世界を救う!?いやいや、そんなことより大事なことがあるんで!!
汀
第1話
「ッ!!」
人って、驚きすぎると声が出ない生き物なようで。喉の奥に大渋滞している俺の叫び声とは裏腹に。緊張した体からは、冷たい汗がドッと吹き出す。
背中越しに感じる冷たいコンクリートの壁に、なんとも言えない頼り甲斐を感じて。震える膝を見なかったふりをした。そして、俺は薄暗い路地裏を力一杯走り出す。
体を無理矢理壁から剥がしたせいか、それとも緊張しているせいか。体がふわふわして。懸命に走っているのに、全く前に進んでいる気がしない。
ヤバい……ヤバいぞ! めっちゃヤバいヤツじゃん、これ!!
本当は本能のままにめちゃくちゃ叫んで、パニクってしまいたいのに。厭に頭は冷静で。敢えて考えなくても無意識に俺は〝生きること〟選択している。
なんで……? なんで、こうなった!?
揺れる視界。
振り返ると路地裏の向こう側には、たくさんの影が蠢いていた。
正気を失ったたくさんの人。血塗れなのに、四肢に力はないのに。まるで〝生きる屍〝が如く。イッちゃった表情をした人たちは当てもなく、フラフラ歩いているのが見える。
そして〝屍じゃない人〟を察知すると、それまでの動きとは想像できない速さで追っかけて。血飛沫を浴びながら、喰らいつくんだ。
路地裏にいても分かるくらい。至る所で、耳を塞ぎたくなるような叫び声があがって。瞬く間に〝生きる屍〟の数は増えていく。
あれだ……あれ。ゾンビ映画の、まさにあれ!
油断した! いや、油断してなくても、こんな状況なんて想像できなかっただろ、俺!!
まさか、本当に!! ゾンビが現実に現れるなんて!!
「よーい、ドン」の掛け声もなく、生死をかけたサファイバルが始まるなんて!!
そんなの、誰だって思ってもみないことなんじゃないのかよッ!!
そんな切羽詰まった状況下なのに。
俺の脳裏にはさっきからアイツの姿が、アイツの笑顔が離れなかった。一刻も早く会いに行きたいのに、目の前のゾンビが邪魔して二進も三進も行かない。俺は大きく息を吐いた。
ビルとビルの隙間をぬって走る。陽光が目に染みるくらい明るい袋小路。錆びたフェンスの先には、電車も往来しない線路が見えた。
レールを擦る車輪の音も、遮断機の音も、何もない。
本当に時間が止まったんじゃないかってくらい、明るくて。穏やかで。
俺はフェンスに背を預けた。
そして、胸に支えた言葉をこぼれすように。今一番会いたい人の名を口にする。
「颯斗、大丈夫かな……」
俺は天を仰いだ。
地上の騒動なんて、まるで無いみたいに。いつもどおり空は真っ青で、澄んでいて。だから、より一層。胸に残る昨日の後悔が、余計にぶり返して。俺を苦しくさせるんだ。
「颯斗、無事でいろよ」
--ガシャン!!
胸中を吐露した瞬間。間近に聳えるビルの窓ガラスが派手に飛び散った。
ドクン、と。一つ胸が鳴る。恐怖すら感じない刹那。真っ暗なビルの中から、二つの影が放り出されるように、目の前に飛び出してきた。
「ッ!?」
「ゔぁぁぁ! 助け……ぎゃぁぁぁ!」
投げ出され地面に打ち付けられた一つの影から放たれた断末魔。ビルとビルの隙間にこだまして、俺の耳に強く突き刺さる。
ヤバい……逃げなきゃ!!
逃げて、早く颯斗に会わなきゃ!!
気持ちは急いでいるのに、体が逃げる行動を取らない! 空回り。なかなか進まない、自分の足が他人の足みたいに意思が伝わらない!
肉を断つ不快な音と、次第に小さくなる叫び声と。俺は立ち尽くして、見たくないスプラッタな光景から、何故か目を逸らす事が出来なかった。
『ア〝ァァァァ』
その時だった。
覆い被さるもう一つの影が、こちらを凝視する。俺は思いっきり、捕食系ゾンビと目が合ってしまった。
「おい! 君! 早く逃げろ!!」
背後から! 線路の向こう側から、逃げろって、声がする! その声が、俺には厭に近く大きく聞こえた。
ダメだ、そんな大声を出すなって!!
そんな声出したら!!
こっちに……ゾンビがこっちに来るんだよ!!
『ア〝ァァァァ!!』
ほら、見ろ!! 俺めがけて走ってきたじゃねーか!!
かつて人だったとはとても思えない咆哮をあげて。目が合っていた影が、こちらに近づいてくる!
やばい……やばい、やばい!!
「ヒィッ!」
迫る血まみれの顔と剥き出しの牙。俺は小さく悲鳴をあげた。
颯斗、俺。お前に謝らなきゃならないのに。
ごめん、颯斗。
俺、お前にまだ伝えたいこと、たくさんあったのに。
ごめん、ごめん……颯斗。
俺はぎゅっと目を閉じて、次に来る痛覚を想像して体を固くさせたんだ。
* * *
「ふざけんなって!!」
すごい大声がでたって、自分でも驚いた。
でも、それくらいショックで悲しくて。目の前の颯斗を責めなきゃ気が済まなかったんだ。
「カズくん……」
颯斗は悲しげに言った。大きくて色素が薄い颯斗の瞳が、涙を孕んでゆらゆら揺れていて。何も言わずに、俺を見つめ返す。
反論してくれた方が、まだ良かった。
言い訳でもいい。どうしようもなく感情が昂った俺にぶつかってきて欲しかった。でも、颯斗は何も反論せず、言い訳もせず。ただただ、俺を見つめ返すだけで。
そんな態度が、俺の怒りを肯定しているみたいに思えてしまったんだ。
「なんで!? どうして一言も俺に言わなかったんだよ!!」
「……」
「なんで一人で抱えちまうんだよ!! 友達だろ!? なんで一人で勝手に決めんだよ!!」
「……」
「なんか言えって!!」
押し黙る颯斗に、感情が抑えられなくなった俺は。手にしていたペットボトルを、投げつけてしまった。
--ガツン!!
中途半端に中身が入ったペットボトルが、顔を伏せた颯斗のこめかみに当たる。
こんなこと……したいんじゃないのに。
俺より颯斗の方が苦しいはずなのに。何故か、俺の方が傷ついていると錯覚して。全く悪くない颯斗に八つ当たりなんてして。
だから、颯斗の胸にある〝感情〟を俺にぶつけて欲しかったのに……それなのに。
「ごめん、カズくん。ごめんね……」
こめかみを押さえる白い手。泣きそうな顔に、無理矢理笑顔を貼り付けてる颯斗に余計怒りが増して、余計苦しくなって。
俺は逃げたんだ。
颯斗に背を向けて、走り出した。
なんで、勝手に学校を辞めるなんて言うんだよ!?
なんで、一言も相談してくれなかったんだよ!!
なんで!? 俺は颯斗の友達じゃないのかよ!?
颯斗のバカ!! ふざけんなよッ!!
俺は……俺は! 颯斗の事が……好きなのに。
好きなのに……なんで、止める権利さえ。
与えてくれなかったんだよ、なんで……!
* * *
「あ、あれ?」
痛覚が働かない。
ゾンビの息づかいはするのに、何も感じない。俺は閉じた目をゆっくりと開けた。
間近に迫るゾンビの顔。俺のことはガン無視して。フェンスの向こう側にいる人に向かって、ウガウガ吠えまくっている。
「え? 何?」
俺、噛まれてない!? なんで!?
フェンスに寄りかかる体を滑らせて、俺は密着するゾンビから体をずらした。
え……俺、ゾンビから無視されてる?
俺、ひょっとして!? もうゾンビなわけ?
いやいや! 俺、噛まれてねぇし!!
ゾンビが本能的に揺らすフェンスがギシギシと悲鳴をあげる。倒壊しそうな程激しく揺れるフェンスの向こう側の誰かが、何かを叫んでいたけど。俺は振り返らずに、路地裏を走り出した。
何がなんだか、全くわからないけど!
とにかく!
力が戻った足を懸命に動かして、俺は路地裏から飛び出した。闊歩するゾンビの間をすり抜けて走った。すれ違うゾンビ全て、俺を無視してフラフラ歩いている。
偶然?
あのゾンビが俺を認識してなかっただけじゃなくて?
多少……いや、かなり恐怖はあるけど!
これはひょっとして、ひょっとしたことがあるんじゃないか!?
「うりゃぁ!!」
俺は気合いと共に強く地面を蹴った。思いの外体が軽く感じて、大きく高く宙を舞う。足元の不安定さすら、気持ちいい!!
俺は! 俺ってさ!!
これが夢じゃないとしたら!!
だとしたら……だとしたら、俺は!!
「無敵だぁぁぁーッ!!」
〝未知のウィルスか? 世界各都市で流行の兆し〟
路上に散らばった新聞紙。
日付は三日前。一面に踊る見出しが、こんなに空々しいくらい軽く感じるなんて思ってもみなかった。
また、新型系のウィルスだろうって。消毒とマスクを徹底しなきゃって。でも、まさか。僅か三日の間に、人類滅亡の危機に陥るだなんて。
俺だって「またマスク生活かぁ」程度にしか思ってなかったし。きっと、総理大臣も大統領も、各国の偉い人も。絶対に想像なんてしてなかった筈だ。
さらに言えば。極々平凡な、普通の高校生である俺が〝対ゾンビ〟の何かしらを保有しているなんて。神様でさえ、思いもよらなかったに違いない。
本来、というか。既定路線なら。
映画に出てくる主人公よろしく。人類滅亡の危機を救うスーパーヒーローになるところなんだろうけど。そんな大それたことより、俺には最優先にやらなきゃならない事がある。
ヒーローになるのは、それからでもいいんじゃね?
日もだいぶ西に傾いて、俺は手にしていたペットボトルの水を口に含んだ。
走ったせいの喉の渇きなのか、未だ解けない緊張のせいなのか。根本的な渇きは癒やされない。
フラフラ街中を歩くゾンビの隙間を縫って、俺は颯斗の家の方に向かって歩いていた。
ゾンビに無視されまくっているにも拘らず。いつ俺の存在に、ゾンビが気づいてしまうのか? なんて余計なことが積み重なって、緊張と恐怖が増してくる。
結構小心者なんだよ、俺は。
平気なフリしてるけど、心臓は破裂するんじゃないかってくらいバクバクしてるし。ゾンビとすれ違うたびに、喉の奥から「ひぃっ」って小さな悲鳴が出てきそうになる。
そういや……颯斗は俺のビビりを笑ってたっけ。
〝カズくんは、意外とビビりだもんなぁ〟
修学旅行で行った遊園地でもそうだったよな。お化け屋敷に二人で入ってさ。俺、散々颯斗に「腰抜かすなよ」って言ってたくせに。クオリティがイマイチなオバケに対して、不覚にも腰を抜かしたのは俺でさ。
忘れもしない。オバケに「大丈夫ですか? 出口はあちらですよ」って言われたの、初めてだったよ。
「なんで、あんなのでビビるわけ!?」
「う……うるせぇって!」
「あはは! 可愛すぎるよ、カズくんは」
「な!? おい!! ふざけんなって!!」
「あはは!」
大爆笑しながらも、颯斗は動けなくなった俺を最後までおぶってってくれたっけ。
なんだかんだ言って、優しいんだよなぁ。
そうだ……そうだよ。優しいんだよ、颯斗は。
優しいから、ちゃんとした理由を俺に言えなかったんだ。
俺が泣くから、俺が颯斗を困らせるから。
だから、俺に言えなかったんだよ。
「颯斗……」
西の空が、夜と昼の境目を見せる頃。俺はようやく颯斗の家の近くに辿り着いた。街の方とは打って変わって、やたら静かなのに。
街並みは異様に荒廃していて。俺は思わず息を呑んだ。
あちこちで上がる黒煙。街路樹や壁にぶちあたって、ひしゃげてる多数の自動車。
それなのに、誰もいない。ゾンビすらいない。
一瞬で人が消え去ったみたいに。一段と暗さを増す夜の始まりが、そうさせているのかもしれないけど。何もかもが色味を失って、足がすくんでしまった。
一歩がなかなか踏み出せない。
颯斗に会いたいのに、会うのが怖い。なんで怖い? 怖くなんかないだろ? 日和るな、俺!!破裂しそうな心臓の鼓動を抑えるように、俺は胸を一つ拳で叩いた。
大丈夫。颯斗の家まであと少し。
きっと会える! 絶対に会える!!
アンクルリフトを着けてるみたいに重たい足。俺は無理矢理、一歩前に踏み出した。
「……颯斗、どこだ?」
無施錠の玄関ドアを、俺はゆっくりと開ける。そして、途中コンビニから拝借した懐中電灯のスイッチを押下した。丸くぼんやりと照らし出される暗い室内。目を凝らして、中を見渡す。
思いの外、荒らされた形跡のない颯斗の家。床も壁も綺麗で、鼻をつくゾンビ特有の厭な臭いもしなかった。
無事、かもしれない。
きっと大丈夫。
心の中で言い聞かせるように何度も唱えて。俺は一歩また一歩と。颯斗の家に足を踏み入れた。部屋を隈なく照らす懐中電灯の小さな灯り。
あまり遠くまで届かない頼りない光は、狭い空間にいるはずの颯斗をとらえない。
「颯斗? いるんだろ? 返事しろよ」
「……る、な」
「颯斗!?」
「カズく……来るな」
忘れられない。
忘れられるはずもない。
颯斗の声が小さく、途切れ途切れに俺の耳を掠める。
「颯斗ッ!! 颯斗ーッ!!」
厭な予感しかしなかった。
僅かに漂う颯斗の声をたよりに。俺は無我夢中で部屋中の扉を開けまくった。木の軋んだ音が、激しく響く。同時にあの特有の匂いが鼻を刺激した。
「ッ!?」
押入れの、暗く小さな空間。俺は思わず声を、言葉を失った。
首を失い痙攣するゾンビと、その奥に。壁を背にぐったりと座り込んだ颯斗がいた。手には真っ二つに折れたギターが握りしめられていて、首から肩にかけて真っ赤な血が流れている。俺が一つ、呼吸をするたびに。裂けた服を瞬く間に、赤く染め上げていった。
「来るな……って、いったのに」
「颯斗……!」
「バカだな、カズくんは」
息をするのもやっとな状態の颯斗は、声を振り絞って言った。
いつもどおりの。
俺が知ってる颯斗の声なのに。口角の上がった優しい笑顔なのに。俺の知らない哀しげな目をしてる。颯斗は眩しそうに目を細めて、俺を見上げた。
「颯斗! 今、助けるから!!」
「もう、無理だって」
咄嗟に俺はシャツを脱いで、颯斗の首の傷を抑える。ドクドクと手に伝わる止まらない血の感触。とにかく必死にだった。颯斗にしがみついて、その体を起こす。
冷たい、氷のような颯斗の体が。俺の中の全ての我慢を吹っ飛ばして。俺の目から、止めどなく涙が溢れ出した。
「カズくん、泣かない……でよ」
「ごめん。ごめんな、颯斗ぉ」
「なんで、謝んの? オレ、カズくんに会えて嬉しいのに」
「颯斗……」
「オレの目が、頭が、感覚が。全部〝生きてる〟うちに、笑ってよ。カズくん」
何を……言い出すんだよ、お前は。
颯斗と意外すぎる言葉に。頭が真っ白になった俺は、呆然と颯斗を見つめ返した。後悔も、涙も、全部忘れちゃったみたいに。何も考えられなくなった。
穏やかに笑った颯斗は、震える冷たい手で俺の頬に触れる。
「最後はカズくんの笑った顔が……見たいな、オレ」
「バカ……は、どっちだよ!」
「じゃ、二人ともバカで、よくね?」
俺は、この一瞬が。
颯斗の笑顔も、手の冷たさも。
声も言葉も、全部。
一生終わらなければいいのにって。
対ゾンビの特殊能力なんかいらないから、颯斗とのこの時間が一生続けばいいばいいのに、って。
神様に祈らずにはいられなかったんだ。
颯斗が〝変わって〟しまって、二日目の朝がきた。
もう言葉も発しなくなっちまったし。顔色もどん底に悪いし。見るからにゾンビそのものになった。
こういう言い方、変だとは思うけど。
なんていうか、颯斗はめちゃくちゃ穏やかなゾンビでさ。
颯斗を救えなかった無力さに打ちのめされて。何の力も入らずに座り込む俺の横に、颯斗は座っててさ。
俺をちゃんと〝認識〟してるのに、襲いもせずに、ただジッと寄り添ってくれててさ。冷たいはずの颯斗が妙に暖かくて、心地よくて。俺はそのままぼんやりと。そこに二日も居座ってしまった。
「どうしよ……かなー」
このまま、じゃ。
いけない、いけないんだけど。
ここにずっといても、しょうがないのは分かってる。でも、俺は。どうしても颯斗から離れることができなかったんだ。
『ア"……アァ』
ゾンビになって、初めて颯斗が小さく呻く。
ここ数日の世界変動のせいで、極度の緊張感と蓄積された疲労のせいか。不覚にも爆睡して眠りこけていた俺は、颯斗の声にめちゃくちゃ驚いて。文字通り飛び起きてしまった。
眉間に皺を深く刻み、色味の薄くなったの目が薄暗い室内で光る。玄関の方に向かって颯斗は、威嚇するように低い声を発して、猫みたいに体を丸くした。
「どうした、颯斗!?」
『ァァア"』
険しい目つき、口の端からはみ出た鋭い犬歯。
知らない颯斗を目の当たりにして俺が息を呑んだ、刹那。
『『『ア"アァ!!』』』
叫んだ颯斗の声と、厭というほど聞いてきたゾンビの声が室内にこだまし、重なる。
瞬間、強い独特の匂いが鼻をついた。
「まさか……!?」
ドクン、と。
心臓が不安気に音を立てた瞬間。体を丸くした颯斗が弾けるように飛び上がる。同時に、黒い大きな影が、俺たちのいる部屋に雪崩れ込んだ。
「う、うわぁぁ!!」
なんで!? 何でコイツ、ここに!?
ひょっとして、俺の特殊能力無くなっちまったのか!?
いや、違う……!
颯斗が……俺を守ってるんだ!!
颯斗は俺を〝ゾンビじゃない〟って認識してる。だから、フラフラ侵入してきたコイツから俺を守ろうとしてるんだ……!!
「颯斗ッ!! やめろ!! やめろッて!! 俺は大丈夫だから!!」
颯斗を止めなきゃ!
止めなきゃなんないのに! 俺ときたら、颯斗とゾンビの凄まじい攻防にすっかり腰を抜かしちまって。手足をバタバタさせながら、叫ぶことしかできない。
その時、ポトリと。
颯斗のズボンのポケットから、何かが落ちた。
軽く乾いた小さな音。
几帳面に折り畳まれた白い紙片が、俺の目の前に浮かび上がる。俺はグラグラする腰を引きずって、咄嗟にその紙片を手にとった。うっすらと透けて見える、見慣れた字。
「手紙……?」
颯斗の字だ。俺は反射的に紙片を開いた。
---あの時の、最後にカズくんが怒ったあの声がさ、まだナイフみたいに胸に突き刺さっちゃってる。
めっちゃ痛かったな、マジで。
頭に当たったペットボトルの痛みより、胸の方がよっぽど痛くて。オレはそれ以上何も言えなくなっちゃったんだ。
だって、言えなかったんだよ。
学校辞めるって、カズくんと離れるって。それ言ったらさ、オレの方がその現実に耐えきれないって。
そう、思った。でも、本当は。ちゃんと言いたかったんだ。
家庭がゴタゴタしちゃってさ。
詳しくは言えないんだけど、遠くに引っ越しもしなきゃならなくなって。
本当はカズくんと、高校は一緒に卒業したかった。
一緒に大学も行きたかったな。
もう一緒にいられなくなっちゃうけど、ずっと忘れないからって。
ちゃんと言いたかったんだ。
でもさ、泣きそうな顔をして、オレに背を向けて走るカズくんに何て声をかけていいか分からなくて。
そんなカズくんを思い出すと、胸がすごく痛くなって。それっきり電話もメッセージも億劫になったんだ。
そしたら、さ。
迷って、迷いまくっているうちに、世界が大変なことになっちゃった。
やっぱりダメだなぁ、オレは。
だんだん周りの人達がおかしくなってる。押入れに隠れて、慌ててこの手紙を書いてるけど。
何よりこの手紙がカズくんに届くかどうか分からない。
できれば、おかしくならないうちにカズくんに会いたかったな。でもきっとオレは。ちゃんとしたオレでカズくんに会えないと思うから。だから、ちゃんとオレであるうちに、カズくんに伝えたかったんだ。
ごめんね、カズくん。
そして、大好きでした。
ありがとう。
カズくんに会いたい、会いたいよ。
P.S カズくんへ。
もしオレがおかしくなっちゃってたら、真っ先に殺してほしい。頼んだよ。
カズくん、元気で。 颯斗より---
「ッ……!」
なんで、なんだろう。気持ちが……颯斗の気持ちが知れて嬉しいはずなのに。
凄く、胸が苦しい。
でも、読まなきゃよかった、のかも。
なんで、俺はいつもこうなんだろう。
いつもわがままで、ちゃんと颯斗の話も聞いてあげられなくて。謝りたいって思っても、時は既に遅しで。何一つ、颯斗にしてあげられなかったのに。
颯斗はゾンビになっても、俺をちゃんと覚えていてくれて!! 俺を守ろうとしている……!!
俺は冷たい手の中の小さな紙片を、強く握りしめた。
このままじゃ、俺……ダメなヤツのまんまじゃん!!
「うぉぉぉーッ!!」
床に転がっていたギターのネックを掴んで、気合いと共に叫んだ俺は。颯斗に襲いかかる黒い影に突進したんだ。
「颯斗、もうちょっとだからな。もうちょっと我慢しろよ」
俺の背中の上にいる颯斗からは、返事はない。
生活音が消えた荒廃した街中を、俺は颯斗をおぶって歩いていた。道路のど真ん中を堂々と歩いているけど。相変わらず、俺はゾンビには無視され続けている。
「とりあえず、感染症研究所を目指そうと思うんだ。そこなら、俺のことも颯斗のことも、何とかしてくれそうじゃね?」
『……』
「それまで頑張ってくれよ」
『……』
「なぁ、颯斗。颯斗がまた元に戻ったらさ。またお化け屋敷行こうな。あ、お前さ! 水族館も行きたいって言ってたよな!! 水族館も行こうぜ!」
『……』
あの時、俺が無我夢中で振り回したギターのネックは、黒い影の頭部にヒットした。
思い出すのも、胸が苦しくなって嫌なんだけど。ゴロンと、頭部が床に落ちて、俺は初めて〝かつて人だったソイツ〟を殺めたんだ。
颯斗はさ。
ソイツに噛まれたり、引っ掻かれたりして。こっちが泣きたくなるくらいボロボロになっちまっててさ。俺は咄嗟に颯斗をおぶって、家を飛び出した。
厭に軽い颯斗をおぶって歩いていたら、頭の中で、颯斗の手紙の最後の一文が瞼の裏に貼り付いてチラチラする。
---P.S カズくんへ。
もしオレがおかしくなっちゃってたら、真っ先に殺してほしい。頼んだよ。
カズくん、元気で。 颯斗より---
バカだな、颯斗。
俺にはできない。そんな願いなんて、絶対に聞けないよ。
「颯斗! あれ! バイクがある!! アレでニケツ(※二人乗り)しようぜ!!」
『……』
相変わらず。俺の背中の上にいる颯斗からは、返事はない。
それでもいい。
颯斗と一緒にいられるなら、颯斗がまた〝颯斗〟に戻れる可能性があるなら。俺はもう二度と颯斗の手を離さないし、決して背を向けて走らないと決めたんだ。
俺は、お前と生きていくって決めたんだ。
ゾンビが俺を捕食しない!? 無敵な俺が世界を救う!?いやいや、そんなことより大事なことがあるんで!! 汀 @migimigi000
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