集積の檻
秋月 影隻
集積の檻
人間には、生きているうちに熱中できるものが一つ、二つ程度できるものだ。その熱が収まることなく、幼少期を経たのなら、それが夢になる者も稀にいる。僕はそんな人たちをとても尊敬できる。残念ながら、僕が熱中したものは夢にはなり得なかった。しかし、その熱はいまだに燻っている。
結論から言うと僕は読書というものに熱中していた。初めて読んだ本は今や朧げな記憶となっているが、その時得られた感情は、いまだにはっきりと残っている。
現実ではありえない世界。そうとわかっていても、本を開くたびに僕を現実から引き離し、そんな世界へと夢中にしてくれた。言葉にするのは非常に難しいため、僕の抱いている感情を十全十美に表すことはできない。いわゆる、物語に触れることで得られる、ある種の浮遊感が僕の熱を冷ましてはくれないのだ。すなわち、僕の熱中しているものが夢になるのではなく、夢こそが僕の熱中しているものであるのかもしれない。
だからこそ、僕は今こんな夢を見てしまっているだろう。僕は今本棚の迷宮にいた。眩い光が見えぬ天からあたりを照らし、幾つものキャンドルが宙を浮いている。見上げても天井のようなものはなく、ただ目の前にある、天の果てまで伸びる数々の本棚が目についた。珍妙な光景に呆然としていると目の前を黒い何かが通過した。目で追ってようやく正体がわかったものの、それは蝶のように舞う数多の書物で、とても正気な光景ではなかった。ひどく香る色褪せた紙の匂いにむせて、ようやく頭が動く。咄嗟に頬を摘んでみた結果、痛みがあった。どうやら、とても信じられないが現実である、あるいは明晰夢というものなのだろう、ということがわかった。
何か行動するよりも前に、なぜ僕がこんな場所にいるのか考える。自分がひどく冷静なように思えたが、内心とても焦っており、この不思議な場所にいることが信じられないという気持ちで満ちていた。僕が覚えていたことは、夢を見る直前に本を読んでいたことだ。いつものように授業を全て終えてから図書室に駆け込んで、前々から気になっていた本を手に取ったはずだ。そのまま眠ってしまったのだろうか。しかし、本の内容については最初から最後まで記憶があった。だから、ますます僕がこの場にいる見当がつかなかった。
「やっほー。大丈夫そう?あたしとしては、君があたしの元に来てくれるまで待とうと思ったんだけど、いつまで経っても動かないから心配になって来ちゃったよ」
その場で胡座をかいて考え込んでいると、状況に則さない陽気な声が背後から飛んできた。突然のことだったので、僕はびくりと跳ねてしまう。振り返ると、熟れたオレンジのような色の髪をしたとても小柄な女の子が僕の顔を覗くように膝を折って屈んでいた。
「……えっと、ここはどこで君は誰?一体絶対どうなっているんだ!?」
「うわわ、思ったよりも元気だね。よかったよ」
自分以外に人がいたという安心感よりも先にどうしようもない焦りが僕を包んだ。咄嗟にその小柄な少女の両肩を掴みかかっては、息も絶え絶えになって次々と湧いて出る疑問で責め立てる。後から思い返すと、この状況にかなり参ってしまっていたようだ。対して少女はそんな僕を突き放すなんてことはせず、苦笑いを浮かべていた。
「ごまかさないでくれ!僕にはもう何が何だかわからないんだ!」
「とりあえず、落ち着いて。……まずは深呼吸をしよう。話はそれからね」
僕の焦りは抑えようのないものとなって、少女の身体を強く揺さぶってしまう。少女はされるがままで、しかし、まるで我が子に言い聞かせる母のように優しく語りかけてきた。その言葉は僕のうちに響いて、自然とあの焦りが引いていった。少女の言う通りゆっくりと息を吸えば、あの年季のいった紙の香りと古いインクの香りが鼻腔をくすぐって、一息も吐かずにあの不安は小さくなった。
「……ごめん」
「あはは。いいよ、別に」
落ち着いてから、一言謝った。見ず知らずの彼女にあのような態度をとってしまったことがとても恥ずかしくて、目を合わせることができなかった。だが、彼女は全く気にしないと言う様子で僕の無礼を許してくれた。
「……えっと、まずあたしが誰かだっけ?あたしは……特に名乗る名前はないかな、うん。この場所の管理者としか言えないね」
しばらくして、彼女は僕の前でしゃがみ込んで、自分のことについて語り始めた。それに釣られて、彼女の顔をようやく見る。人形のように綺麗な碧色の瞳に吸い込まれそうな感覚に落ちて、しかし、耳を傾けて彼女の弾むような声を聞く。
「管理者?」
「うん。新しい本を仕入れたり、破れた本の補修をしたり、人々から忘れられた物語を書き留めたり……まあ色んなことをしているよ」
小柄で華奢な少女は、自分の指を折りながら僕の素っ頓狂な声に応える。まだ混乱で頭が動いていないが、彼女の話を聞くに連れてここが現実の図書室ではないことがわかった。同時に、ありえない可能性の方が高いが、しかし、どうしても拭いきれない考えが頭をよぎった。
「じゃあ、ここって」
「それもまあ、説明が難しいかな。本の世界、とでも言えば伝わるかな?」
その考えが正しいか否か確認するために少女に問いかける。少女は僕の問いかけにひどく困ったような顔を浮かべながら、ありえないと決めつけていた真実を肯定した。
___
本の世界はどこまでも続いていた。この世界を上から見渡すことは、残念ながらできなかったが、少女に連れられて色々な風景を見ることができた。だから、この世界が本棚だけの一辺倒な風景しか持ち合わせていない、ということもないことを知れた。不思議なことに本を手に取るごとに辺りの風景が変化するのだ。
勇気を持って明るい未来のために立ち上がる主人公の物語を手に取れば、空は夕焼けに覆われて、場面が変わるごとに主人公を祝福するかのように陽気な音楽が流れた。
救いのないひどく悲しい物語を手に取れば、忽ち暗い光があたりを包み、場面が変わるごとに雨が降ったり、風が吹いたりした。
世界を歩き、物語に触れるたびに、あの少女の言う『本の世界にいる』ということをますます信じられるようになっていった。また、少女に連れられて、幾つもの面白い物語に触れることができた。
「どうかな。気に入ってもらえたかな、あたしの世界は?」
「うん、不満はないよ。どの本も、とても面白かった」
十一冊目を読み終えた頃、少女は口端を綻ばせて僕の横から声をかけてきた。この場で読んだ物語はどれも彼女のお墨付きの物だったためか、僕の読んでいる間はずっとソワソワしていたが、十一冊目となると慣れたようで、彼女の声は自然体のものだった。僕は彼女の期待に応えるように素直な感想を述べた。よかった、と安堵する彼女の笑みを見ていると、時間なんてものは完全に僕の考えから無くなっていた。
だが、たとえ好きなものとは言え、やはり疲労からは逃れられず、そろそろ飽きが回ってきた。
「……でも、そろそろ疲れてきたから帰りたいな、なんて」
ここでの読書は、あの図書室にいる時よりもはるかに有益に感じられた。だから、少し惜しみながら彼女の方を見て言う。その言葉を聞いて、少女は表情に少しの曇りを見せて、だがそれを取り繕うように笑顔を作って応えた。
「ああ、うん。そうだよね。……帰りたい、か。それは難しい相談だね」
「え?」
思わず、変な声が出てしまった僕をよそに彼女はこの場所について語り始めた。
僕が生まれるよりも前の時代には多くの人がここを訪れたこと。その誰もが、彼女を可愛がり、素敵な物語を語ってくれたこと。しかし、ある日を境にここを訪れる人が減ったこと。それ以降度々人の出入りがあったものの、長く通ってくれる人はいなかったこと。
「もう六十年はひとりぼっちだったかな。独りで何度も何度も同じ物語を読んで、寿命を迎えてぼろぼろになった道具を補修して、忘れられて消えそうになっている物語を再び形にして……ずっと独りで耐えてきた。きっと、またみんなが戻ってきてくれる。きっと、みんなが再び訪れてくれると思って。そんな中、君が来てくれた。昔ここを訪れた人と同じように、物語に深い想いを持った君が来てくれたんだよ。あたしはとても嬉しかった。ここまで強い想いを持った人ならあたしと時間を共にしてくれるって。……流石に独りよがりがすぎるよね。でも、あたしは君に、ずっとここにいて欲しいの。孤独じゃないことの喜びを、より深く知ってしまったんだ。知ってしまったからこそ、少しの孤独でも、あの長い長い時間を思い出してとてもまともにいられなくなってしまう。そんな気がする。だから、あたしは君を帰せない」
「……」
自分の身を抱き寄せるようにして、少女は語った。どうやら、僕よりもはるかに含蓄のあるように思えた彼女でも、小柄で華奢な見た目と同じように、心は何も知らない子供のように幼く、弱いものだった。僕は彼女に何も言うことができなかった。もしも僕が彼女の立場なら、彼女と同じような行動に出てしまうだろうと思ってしまったが故に、帰りたいという思いが揺らいでしまう。
「……どうしても出たいっていうなら一つだけ条件をあげよう」
「条件?」
そんな僕の様子を見て、彼女は無理に笑って提案を述べた。彼女の孤独に対する不満は尚も大きいだろうに、僕を慮っての発言だった。結局のところ、少女の根の善性は揺るぎないようで、後に語った条件こそが、彼女の妥協点だったのだろう。
「うん。どんな手を使ってもいいから、私を満足させてみてよ」
昔の人達と同じように私を満足させる物語を語って見せてよ。僕には彼女がそう言っているように聞こえた。
___
結果から言えば、僕は彼女を満足させることができなかった。そもそも、僕は彼女に語って聞かせられるような、高尚な物語を有していなかったのだ。
後から考えれば当然のことで、僕の中に燻るものは夢になり得なかったものである。己の中で孕む熱が夢へと昇華して、そしてより多くの集積を得ようとこの場に訪れ、彼女に自らの物語を語ってみせた者たちの存在を思うと、僕という存在がこの場で物語を語るなど不相応極まりない。だからだろう。僕は無意識のうちに彼らと自分とを比較して、抑えようのない羞恥を抱いてしまった。その羞恥こそが僕自身の物語を語らせようとはしなかったのだ。
臆病な僕の口から出たものは、一五年という時間の中で出会った物語だった。いわゆる、「おすすめの本」という第三者の熱と知恵からなる産物だった。
とても浅はかな選択だった。しかし残念ながら、その時の僕にはその選択がどんなに間違いに塗れているのかについて気づいていなかった。自信満々に題名を言って、ぼんやりと記憶にある物語の概要を語ろうと口を開いたと同時に彼女の制止があった。
「ごめん、それじゃああたしを満足させることはできないよ。あたしはその本を何度か読んだことがあるし、内容も全部頭に入っているからね」
その言葉を聞いてようやく自分の選択の愚かなことに気づけた。彼女は少なくとも六〇年よりも遥か遠い悠久の時をこの本棚の檻の中で生きてきたのだ。日々読書に明け暮れ、感想を語る相手もいないまま、積み重ねてきたのだ。つまりそれは、彼女が僕以上に、他の誰よりも本に関する造詣が深いという、何者にも変え難い事実だった。
「既存の本では、あたしを満足させることなんてできないよ。たとえ人気が出ず、埃を被ってしまったものでも、あたしは一冊たりとも見捨ててこなかったもの」
自分の至らなさに気づき、狼狽えてしまった僕をさらに追い込むように、彼女はそんなふうに声をかけてくる。彼女には僕を追い込むような意図がなかったのかもしれない。むしろ、わざわざ僕がここから出るためのヒントをくれたと言ってもいいだろう。だけど、どうしてもその言葉になんらかの圧力があると感じてしまったのだ。
正直に言えば楽観視していた。たかが少女一人満足させることなんて楽勝だなんて思っていたのだ。僕の周りには僕以上に本が好きで、有名なものだけでなく、一部の読者しか知らない珍しいものを読んだことのある人物はいなかった。だからこそ、そんな驕りがあったのだろう。冷静に考えたら、なんて愚かなことだろうか。目の前にいるのは好悪の感情を超越して、あらゆるジャンルの本を読み尽くし、その筆者の意図をも知り尽くした化け物だった。これでは、僕の武器が全く通用しない。永遠にこの場に囚われるままである。
しかし、僕にはどうしても彼女を化け物と罵り、叫ぶことができなかった。彼女の恐ろしさ以上に己の愚かさをまざまざと自覚させられたのだ。
「……は、……ない」
「ん、何か言った?」
沈黙の最中、ようやく僕の口から言葉が出た。しかし、その言葉ははっきりとした声にはならなかったようで、目の前の少女が首を傾げて聞き返してきた。
もう一度その言葉を言うのは憚られたが、だからと言って閉口する権利はなかった。なぜならそれは、僕が直接伝えなければならない言葉だったからだ。僕はもう一度、今度は腹に力を込めて口を開いた。
「今の僕では……君を満足させることなんて、到底できそうにない、よ」
「……それって、つまり、諦めるってこと?」
今度はしっかりと聞き取れたようで、しかし聞き返すように尋ねてくる。僕は彼女の言葉に少し俯きながら、首を縦に振った。その時の僕は、自分の愚かさのあまりに、まともに彼女の顔を見ることができなかった。
「あははは、そう、諦めるのね」
しばらくの間、自分の足元を見ていると陽気な笑い声が聞こえてきた。突然の笑い声に驚いて、ゆっくりと彼女の方を見ると、彼女はそれを必死に抑えようと両手で口元を押さえていた。どうにも彼女の態度と様子が矛盾していたので、僕は思わず怪訝な表情を浮かべた。
「ああ、ごめんね、君の気持ちも知らないで。でも、どうしても抑えられないんだ。申し訳ないのだけれど、まだ君と居られること嬉しくて」
僕の視線に気づいた彼女は何度か大きく息を吐き、その笑いを抑えた。しかし、まだ完全には抑えられないようで苦しそうに息をしながら、自分の心の内を述べる。それを聞いて、ようやく彼女の態度に納得できた。
孤独だった彼女が欲していたのは、物語について語り合える話し相手だったじゃないか。ならば、彼女のためを思えばあまり気落ちすることではないのではないか、といった浅ましい言い訳が湧いてくる。
明るく微笑む彼女とは対照的に、僕はどんどん暗く、落ち込んでいった。
「じゃあ、次の物語を見に行こう。一緒に感想を話し合いたい本がたくさんあるんだ」
そんな僕に気づいてか、彼女はあふれる笑みを落ち着かせ、しかし嬉しそうにはにかみながら、僕の手を引いて、本棚の迷宮の奥へと連れだした。
___
この世界には時間を確認する術がない。時計なんてものはないし、空腹を感じることもない。疲れたとしても、彼女が指を鳴らせば疲労もすぐに飛んでいく。そのため、いったいどれほどの時間が流れているのかを正確に知ることができなかった。
体感で六日ぐらい過ごした頃だろうか、僕は彼女とのこの旅にある種の意味を見出し始めていた。最初は僕がしたように、彼女が自身のおすすめの本を紹介し、その物語を巡って、感想を語り合う程度のものだった。しかし、ゆっくりと時間を経るごとに、彼女の勧める本から恣意性が失われていき、ただの感想だけでなく、読者の気持ちなどの視点も交えて饒舌に語るようになっていった。つまり、彼女がこの場を訪れた者の物語を語り始めたのだ。
元来からの習慣を破って、己の旅路を綴った者。怨敵を酷く恨んで、しかし美しくその一生を記した者。床に伏せながらも、窓から見える風景を謳った者。自らの思うままに描き、最期には己の物語の一部となった者。
そんな十人十色の訪問者たちの遺したものを見た。彼女の訪問者たちとの思い出を聞いた。そして、彼らがこの場で抱いていた熱に触れることができた。そこでようやく僕が知ることのなかった熱の源を知ることができた。同時に僕の思い込みが、どれ程見当違いなものなのかをようやく認識できた。
ここに訪れたものは皆、僕の考えていたような高尚な目的をもっていなかったのだ。それどころか、正確な夢を持っていた者ですら少数派であった。驚くことに、多くの者が、僕と同じように夢のなりそこないといえる燻りを抱いていたと言うのだ。
熱中できるものは人によって違う。その熱量も人によって異なり、すぐに絶える者もいれば、いつまでも絶えぬことなく夢へと昇華する者もいる。僕の場合はどちらかと言えば前者寄りで、熱の名残を持っていた。夢のなりそこないたる燻りを抱いていた。だけど、この燻りが熱の散り際であるという認識は誤りだったのだ。
旅を好んだ者は、旅にではなく、一期一会の人との交流に熱を抱いた。弦楽器を奏でることに夢中になった音楽家は、自身の奏でる音ではなく、楽器そのものに熱を覚えた。絶えることのない想像力を持った劇作家は、物語を描く自分ではなく、役者たる自分に熱を見出した。
燻りを抱いき、この場を訪れた者は皆そんなふうに、熱の源を捉え違えていたのだ。だからこそ、この集積の檻に囚われ、過去の人の過ちを知り、自分と向き合って、本当の熱を得られたのだ。己の盲目さを克服し、剥き出しの想いを真に射止めることができたのだ。
であるのなら、僕のこの燻りは一体いつ起こったものなのだろうか。どこで初めの熱を得たのだろうか。
この世界を巡り、過去の訪問者たちの話を聞いて、そしてようやく、答えが見えてきた。僕がなぜ本に執着するのか。
「……?どうしたの」
「……ここに紙とペンはあるかい?」
「あるけれど……それがどうしたの?」
先を進んでいた彼女が突然立ち止まった僕に気づくと、半身だけ振り返って不思議そうに首を傾げた。その様子を見て、特に弁明することもなく、僕は話を切り出した。
「君を満足させる方法が見つかったんだ。……今度こそ君を満足させてみせる」
僕の突然の物言いに合点がいかないようで、彼女はさらに眉根を寄せて困惑した表情を浮かべていたが、僕が言葉を続けると、僕の行動の意図を読み取ったようで、悪戯に笑った。
「……へえ、いいよ。やってみて。君はどんなふうにあたしを満足させてくれるのかな」
___
机について、おおよそ四時間ぐらいが経過した。あまり思うようにはいかず、しかし試行錯誤を繰り返し、自分が満足するまで何度もやり直した。悪戦苦闘を得て、ようやく僕の抱いていた熱を形にすることができた。
「できた!」
「おっ、思ったより早かったね」
あまりの達成感から思わず叫んでしまうが、もうその程度のことで恥ずかしさを感じることはなかった。ただ、僕を待ち、僕の紡ぎ出すものを楽しみにしてくれる人がいるということが、僕の臆病さを忘れさせてくれたのだ。
当の本人は僕の声を聞けば、待っている間に頁を捲っていた本に造花の栞を挟んで、僕の方に寄ってきた。
「さて、君は一体どんなものを作ったのかな?」
彼女は目を輝かせながら、僕の隣に立った。その様子は、早く見たいとばかりにどこか落ち着きがないように感じられた。もしも彼女が僕の綴る物語に期待をしているのならば、それを裏切ってしまうことになる。しかし、僕は躊躇うことなく、作り上げたソレを差し出した。
僕の抱いている燻りは物語から発生したものではなかった。物語と関わりが一切ないと言えば間違いになるが、それでも物語自体には僕の熱の源はなかったのだ。
僕の熱の源は絵画にあった。
工夫された構図に、鮮やかで繊細な色遣い。如何にして人に見られんと考え抜かれた表現法。そこから紡がれる独特で幻想的な世界観。
思い返すと、僕は確かにそんな絵画に夢中になっていた。見ることだけでなく、自分で描くことにも、とてつもない熱量を持って挑んでいた。だけど、いつからか挑むことを忘れていたらしい。批評されることを恐れて、他人の描く世界に逃避してしまっていた。
美術館で展示されているような達人が描いたものだけでなく、美術室に飾られている素人の描く世界も、分け隔てなく見て、受け入れてきた。絵画を見ることに対する熱量は収まることを知らなかったが、その熱は別のものにも移り始めた。
それこそが、物語だった。
当初は物語そのものに興味はなかった。しかし、本の頁を進めると、稀に挟まれている趣ある挿絵が、絵画を見ることに夢中になっていた僕を魅了したのだ。黒と白の色彩だけで物語に即した臨場感ある情景を表現し、読み手をさらに物語の深みへと引きずり込む、あの絵画にこそ僕の熱が移ったのだ。
しばらくは、物語は本に刻まれた絵画を見るためのおまけだった。しかし、気づけば、その認識が逆転し、絵に関する関心が徐々に失われていった。初めに抱いた熱の出所を見失ってしまったのだ。だからこそ、僕はどうしようもない燻りを物語に抱いてしまったのだろう。
認識が逆転したまま物語に触れ、自分の持つ世界観が刺激されることで、再び『表現したい』という想いが湧き上がった。しかし、盲目な僕は絵で表現することに目を向けず、文字で表現することにしか目が向いていなかったのだ。そんなふうに、捉え違えてしまったのだ。
「あまり上手くはできなかったけど……どうかな」
「……なるほどね、これが君の描きたかったものなんだね」
彼女は手渡された絵を見て、最初は少し驚いたような声を上げたが、それ以降は何も言わず、じっくりと絵を眺めるのみだった。何の感想もないことに少し不安になって、遂には僕が最初に口を開いた。
ようやく彼女が声を上げたと思えば、その声は非常に無機質なものだった。僕は緊張のあまり、固唾を呑んだ。
「……最っ高だよ!」
焦らされた結果、彼女から飛び出してきたのはそんな賛辞の言葉だった。彼女の言葉を聞いて、僕がそれを理解するには少しの時間がかかった。しかし、一度理解すれば心中が安堵で満たされてゆくのを感じた。
「確かに拙い部分はあるかもしれない。だけど、これには君の熱が込められている。あたしにはわかるよ。この絵には君にしか表現しえないものが込められているのだろう?たとえ拙くても、それを考えるのがとっても楽しいよ」
「ああ……ありがとう」
「感謝するのはあたしのほうだよ。……久しぶりに満足もできたしね」
彼女の感想を聞いて、ぽつりと感謝の気持ちが溢れでる。彼女のおかげで僕は、僕の間違いを正すことができたのだ。だから、本当ならばもっと言葉にしなければならない。そう決心した時、彼女の方をふと見やれば、その表情に翳りが見えた。
「さて、君を元の世界に返してあげよう」
「……え?」
「もしかして、忘れちゃったのかな。なら残念なことをしちゃったな」
突然の彼女の言葉で思わず戸惑ってしまう。そんな僕の様子を見て、彼女は少し名残惜しそうに微笑んだ。
「言ったでしょ。あたしを満足させることができたら返してあげる、って」
そういえば、そんな約束をした気がする。どうやら、ここで長い間を過ごして、その約束の記憶がかなり薄れてしまっていたようだ。元の世界に帰るということは、確かに僕が望んだことだ。しかし、僕は彼女にしっかりと感謝を伝えられずにいたため、すぐに納得できるわけがなかった。
「待って、いくらなんでも急すぎる!」
「大丈夫。君のおかげで私の孤独は癒えたよ。もう数百年は耐えられそうだしね。だから、君は私のことなんか、何も考えなくていいんだよ」
僕の叫びも虚しく、彼女は淡々とことを進める。気づけば周囲の本棚が床に吸い込まれていき、風景の端から色が失せ始めていた。同時に彼女のうちからぽつぽつと光が溢れてくる。
「じゃあね。もう、夢を忘れちゃったらダメだぞ」
憂いを帯びた目で、しかしこの別れを悲しませんと、彼女は精一杯微笑んで、そう叫んだ。
___
人形のように可憐な少女の像が眩い光となって消え失せ、その眩しさに絶えかねて目を閉じる。目を開いた時には、僕は図書室の一角にいた。すぐさま周囲を見渡すと、僕以外の生徒の姿が目に映り、元の世界に戻ってきたことを自覚させられた。
慌てて本棚の森から出て、壁に静置されている振り子時計を見る。時刻は一八時三分を指していた。僕が図書室に訪れたのは確か授業終わりの一七時ぐらいだったはずだ。手に持っている本の栞が一番後ろにあるところから、本を読み終えた頃にあの世界に迷い込んだのだろう。だとすれば、どうやらあの世界ではほとんど時間が流れていなかったようだ。
それからのことは鮮明に覚えている。一九時には閉じられる図書室の中を探り回り、あの不思議な世界の痕跡を探すことに残りの時間を費やした。しかし、どこを探してもそれらしい痕跡はなく、ついには閉館の時間が訪れてしまった。
それ以降、僕はあの少女と会うことはなかった。今思えば、あの世界は僕が作り出した幻だったのかもしれない。他の人に彼女との思い出を語れば、間違いなく夢の話と勘違いされてしまうだろう。
だけど、僕は確かに覚えている。
あの日、僕の利き手にこびりついていた黒鉛の跡を。
集積の檻 秋月 影隻 @eiseki3145
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます