(十九) 鼻丸

 毛足が長く、白と薄茶のまだら模様をした耳の垂れた愛らしい犬が鼻丸だった。おそらく、キャバリアかポメラニアンあたりのミックスだったのだろう。鼻のまわりに散ったまだら模様の一部が円をえがくようになっていたのが特徴的で、それが名前の由来になった。


 名付けたのは透吾だ。


 いかにも小学生らしい単純さだったが、なつ紀もその名前をずいぶんと気に入っていた様子だった。洒落っ気があっていい、と笑いながら頻りに透吾を褒めた。シャレッケの意味が当時の透吾にはあまり理解ができなかったのだが、なつ紀に褒められたことは単純に嬉しかった。このころはまだ、なつ紀との仲も良好だったのだ。


 鼻丸は、段ボールに入れられて河川敷に放置されていたところを下校途中の透吾が見つけた。段ボールはあちこちぼろぼろになっていて、なかには破れて薄くなったタオルが一枚敷かれているだけのお粗末さだった。


 河川敷は透吾の通う学校から家までの帰り道からは大きくはずれている。しかし透吾はときおり、友達と別れたあとわざと大回りをしてこの道を通って帰ることがあった。ひとえに、家に帰るのをなるべく遅らせるためだ。母と顔を合わせるのが憂鬱だった。

 なつ紀のことにかかりきりの母は、透吾の帰りが少しばかり遅くなったところでさほど心配はしない。ただあまりに遅いと近所の人に見咎められてしまうおそれがあるから、そこそこの時間に引き上げる必要はあった。透吾のことは心配しなくても、近所で噂になればきっと母は不機嫌にはなる。


 その日も透吾は友達と別れたあと、時間をつぶすために河川敷へ向かったのだ。


 適当な小石を拾って水切りなどをして遊びながら、できるだけゆっくりと家に向かう。河原にはお菓子のごみや壊れた何かの部品などが点々と転がっていて、お世辞にもあまりきれいとは言いがたい。

 鼻丸の入った段ボールも、だから最初はそんなふうに投棄されたごみだと思っていた。


 段ボールの側面には、新鮮野菜という文字と一緒に野菜のイラストが描かれていた。八百屋かスーパーに置かれていた段ボールだろう。野菜はわかるが、「新鮮」が何と読むのかわからない。「鮮」の字はまだ学校で習っていなかった。


 もっと近くでよく見てみようと思い傍まで寄って、なかに仔犬がいることに驚いた。仔犬は段ボールの隅のほうで小刻みに体を震わせていた。冬場のことだったので、毛皮を着ていてもやはり寒いのだろう。体も小さい。


 近寄ってきた透吾に気がつくと、仔犬は濡れた瞳で透吾を見つめた。


 透吾はこれまで、犬を飼いたいと思ったことは一度もなかった。そもそも、母があまり動物を好まない。母が嫌がることはだから透吾も避けてきた。

 しかし、目が合ってしまうともうだめだった。


 毛玉のようなその仔犬を、とにかく壊さないよう大切に胸に抱えて連れ帰った。華奢な骨格は少し力を加えれば折れそうなほどに頼りなかったが、体温は熱いほどだった。腕のなかのたしかな温もりが、その小さい生き物が生きているのだということを感じさせた。家に着くまでのあいだ、仔犬は透吾の手のひらに濡れた鼻を押しつけてくんくんと鳴いていた。


 母をどう説得するかまでは考えていなかった。

 どうしても放っておけず、衝動的に連れ帰ってしまったのだ。小さな命を抱えたまま、なかなか家のなかに入ることができずに透吾は玄関の前でしばらく立ち尽くしていた。


「透吾」


 しばらく経ったころ、ふいに名前を呼ばれた。なつ紀だった。道の向こうからゆっくりと歩いてくる。中学校から帰宅したところのようだ。


 なつ紀の通う中学校はセーラー服で、肩口で切り揃えられまっすぐに伸びた黒髪がそれとよく似合っていた。一見清楚に見える。


「そんなところに突っ立ってどうしたの」

 そう声をかけてすぐ、透吾の腕のなかの仔犬に気がついた。


「拾ったの、」


 問われて透吾は小さく頷いた。なつ紀はそれに無言で頷き返すと、何もかも承知しているというように透吾の背中をぽんと軽く叩いた。


「私がお母さんを説得してあげる」


 それから玄関を開けてさっさとなかへ入っていく。透吾もおずおずとあとに続いた。


 ただいまー、となつ紀が声を張り上げる。聞きつけた母がなつ紀を出迎えるため部屋の奥からすぐに飛んできた。


「おかえりなさい、なっちゃん」

 名前を呼び、それからすぐ後ろに立つ透吾に気がつく。さらに視線は腕のなかの仔犬に向かった。ゆっくりと眉間に皺が寄る。


「犬を飼ってもいいでしょう」


 なつ紀は、母が何かを口にするよりも先にそう言った。なつ紀の言葉に、母は珍しくほんの少しだけ戸惑った様子を見せた。いくらなつ紀の頼みとはいえ、好きでもない動物を飼えるかどうかを考えあぐねているのだろう。一日二日預かるのとはわけが違う。安請け合いはできない。


 透吾はなつ紀の言葉に重ねるようにして、自分がどれだけきちんと仔犬の世話をする意思があるかを訴えた。腕のなかの仔犬をまたあの河川敷に戻すわけにはいかなかった。

 渋っていた母も、最後は透吾の熱意に根負けした。


「もうわかったから、それ以上は喋り続けないで。頭が痛くなってくるわ」

 煩わしそうに首を振る。


 こうして鼻丸は、晴れて透吾の家の飼い犬になった。

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影の栖処 老野 雨 @Oino_Ame

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