(十八) からくり人形

 部屋の隅には、母から預かってきたクッキーも相変わらず置きっぱなしになっている。きれいに包装してリボンをかけられた包みが誰にも顧みられることもなく放置されている光景は若干忍びない。病人の見舞いには不向きとはいえ、クッキーそれ自体に罪はないのだ。もう記憶から消してしまおうと思っていたのに、再び目にしたことで透吾はまたその存在が気になりはじめてきた。


「姉さん。クッキー……、」

 だめもとでもう一度なつ紀に話題をふってみる。しかしなつ紀はやはり故意に透吾の呼びかけを無視した。にべもない。しかたなく、今度こそ透吾も諦める。


 それから影が戻ってくるまでのあいだ、透吾もなつ紀もお互いにいっさい何も喋らなかった。なつ紀は障子のほうに視線を向けて、ぼんやりと雨音を聞いている様子だった。部屋の隅にある、を見ないようにしているのかもしれなかった。雨は少しも弱まることがなく、窓硝子を叩き続けている。

 透吾は携帯電話でネットのニュースなどを眺めて無聊を慰めていたが、どうにも気が削がれて集中できないでいた。画面上に表示された文章の意味がちっとも頭に入ってこない。ただいたずらに画面を滑らせているだけだ。無理に集中しようとするとしだいに頭痛がしてきて、しかたなく携帯電話をズボンのポケットにしまった。

 それからあとは、俯いてずっと畳の目を数えていた。


 なつ紀と二人きりのこの空間が、だんだんと息苦しいものに感じられてくる。ただ早く影が戻ってこないかとそればかりを考えていた。昔は二人で過ごすことが何よりも楽しかったし、なつ紀にトランプに誘われるのがあんなにも嬉しかったというのに。


 影はずいぶん経ってからようやく戻ってきた。


 いったい何にそれほど手間取っていたのか疑問だが、もちろん影が自らそれを弁明するはずもない。影は、相変わらず喋らない。やはりなつ紀から喋る許可を与えられていないのかもしれない。

 もともと静かな足音は、降りだした雨の音に吸いこまれてよけいに響かなかった。背後の襖が突然すっと開け放たれて、透吾はひどく驚いたのだ。息を呑んで顔を上げると、盆の上に飲み物を載せた影が立っていた。


 盆には氷を浮かべたオレンジジュースのコップがひとつきり載せられていて、どうやら影はなつ紀の言いつけどおりに透吾のぶんだけを用意してきたようだ。


 影はそれを透吾に差しだす前に、まずなつ紀を見た。自分の行動が間違っていないかどうかを確かめているかのようだった。飲み物は透吾のために用意されたものだが、それはなつ紀に命じられて行動したにすぎない。


 なつ紀が軽く頷くと、影はようやく自分の行動の正しさに納得したようだった。透吾の前に立って盆を差しだす。やはり何も喋ることはなく、透吾がオレンジジュースの入ったコップを受け取るのをひたすら待っている。透吾は手を伸ばして、盆の上のコップを取った。


 影は空になった盆を部屋の隅にある丸テーブルの上に置いた。おもちゃのようなテーブルの上にはごちゃごちゃとものが散らばっていたが、それらを押しのけるようにしてスペースをつくり、盆を滑らせた。テーブルの上に広げられているのはなつ紀の私物だが、その扱いには頓着しないようだ。なつ紀も何も言わなかった。


 そのとき、虫の羽音のような音を立てて唐突に部屋の明かりが明滅した。


 先ほどからの雷鳴による影響か、たんに電球の寿命だろうか。短い間隔でチカチカと明暗を繰り返す。目が回るようだった。


 影は電灯に近づくと、垂れ下がっていた紐を引いて一度明かりを消した。たちまち部屋のなかが薄暗くなる。少し不気味だった。まだ昼間だというのに、急変した天気のせいで陽射しは雲間に隠れて部屋のなかに届かない。


 少し待ってから、影はもう一度電灯の紐を引いた。電灯はまた虫の羽音のような音を響かせて数回明滅を繰り返したあと、ようやく安定した。もっとも、電球の寿命が近いせいなのか電灯があっても部屋のなかはさほど明るくはならない。


「言われる前に行動ができて偉かったわね」

 なつ紀が影を褒める。

 すると影は、ほんの少しわかる程度に唇を動かした。笑ったのかもしれなかった。それからゆっくりとなつ紀の傍に座る。透吾は洗濯物を取りこむために立ったあと、なつ紀からは少し離れた位置に移動していた。またなつ紀の傍に座りこんでいたら、影の無言の威圧を受けたに違いない。


「どうぞ、遠慮しないで」


 なつ紀に促されて、透吾は手に持ったオレンジジュースをひと口飲んだ。コップの表面は冷えていて、透吾の指先からは少しずつ体温が奪われていった。

 冷たい液体が喉元を滑り落ちていく。酸味の効いたオレンジジュースだった。

 なつ紀は透吾がオレンジジュースを飲むところをじっと眺めていた。


「おいしい?」

 訊ねられて曖昧に頷く。なつ紀は満足そうに微笑み、それから影に向きなおった。

「影」

 名前を呼ぶ。呼ばれた影は、表情を変えないまま緩慢な動作でなつ紀を見た。


「やっぱり私もオレンジジュースが飲みたいわ。私のぶんも持ってきてくれない」


「姉さん」

 思わず透吾は咎めた。

「なあに」

「いくら何でも可哀想じゃないか。そう頻繁に立ったり座ったりさせちゃ」


「それじゃ、透吾が今飲んでいるのを少し私にくれる? 冷えすぎているのはいやなの。口移しがいいわ」


 透吾が返答に詰まると、なつ紀は透吾の顔をしばらく眺めたあと急にけたけたと笑いだした。はずみで肩から落ちかかったカーディガンを直す。からかわれたのだ。

 そのあいだに、影はまた立ち上がると小机の上に置いた盆を持ってダイニングキッチンへと引き返していった。静かに襖が閉まる。透吾はその様子を無言で見送った。


「ね、こことキッチンを行ったり来たりして、からくり人形みたいね、あの子」

「……冗談が過ぎるよ」

 苦々しげに答える。なつ紀はまだ笑っている。


 透吾はまた、鼻丸のことを思いだす。なつ紀が影のことをまるで自分の所有物か何かのように扱うたび、鼻丸のことが脳裡のうりにちらついた。


 透吾は鼻丸をとても大切にしていたので死んでしまったときは本当に悲しかったが、なつ紀が鼻丸の死に関して悲しんでいる姿を見た記憶はなかった。悲しいと口にしたことはあっただろう。しかし涙しているところは見たことがなかったし、それは感情のこもらない口先だけのことに思えた。


 実のところ透吾は、鼻丸が死んだ直接の原因はなつ紀にあるのではないかとさえ思うことがある。

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