(十七) 洗濯物

 目がくらみそうなほどにまばゆい光がてられた障子越しに入りこみ、一瞬、部屋のなかを明るく照らす。目の前のなつ紀の顔が青白く浮き上がって見えた。

 ついで、しとしとと雨が降りはじめて窓硝子を叩く音がする。それはだんだんに強く激しくなってきた。


 天気予報では、今日雨が降るなどとは報じられていなかったはずだ。家を出たときにはその気配すら感じさせないほどに晴れ渡っていたというのに、それが急な雨である。おかしな天気だ。


 そういえば、今聞いたばかりのなつ紀の話のなかでも突然の雨だった。もちろんそれはたんなる偶然に過ぎないのだろうが、何となく妙な因果を感じてしまう。


 当然ながら、透吾に傘の用意はない。このままでは全身ずぶ濡れになって帰ることになる。濡れ具合によってはそのまま電車に乗れるかも怪しい。床やシートを思いきり濡らすことになる。いちおうハンドタオルは持っているものの、この雨量ではすぐに使い物にならなくなるだろう。

 なつ紀に頼めば傘を貸してくれるかもしれないが、それは派手な色合いをした奇抜なデザインの傘に違いなかった。

 それに今は、外に出るのをためらうほどの本降りだ。さすがに透吾も、この雨のなかを強行して帰ろうと思うほど無謀ではない。


「降ってきたわね」


 なつ紀は目を細めて窓のほうを眺めている。障子が閉てられているために外の様子ははっきりとはわからない。ただ雨音だけが部屋じゅうに響いていた。先ほどよりさらに激しさを増してきたように思う。どこまで強くなるのだろう。壁が薄いせいか雨音はひどく近くに感じられ、部屋全体が軋むようだ。急に部屋の温度が下がった気もする。

 このぶんでは、しばらくやみそうもない。またなつ紀に帰宅の意思を伝え損ねて、透吾は憂鬱になった。天気までもが、透吾をはばむ。


「天気予報じゃ、雨だなんてひと言も言っていなかったのにな」


 思わずぼやいたところを、なつ紀に鼻でわらわれる。


「透吾は何でも信用しすぎなのよ。物事でも、人でも。性格が優しいのね」

「そんなことはないと思うけど」

「自覚がないのね。そう……、あの子が影なら、透吾はさしずめ光だわ」

「……おれは、そんなたいそうなものじゃないよ」

 なつ紀がどういうつもりで発言をしているのか判断に困る。冗談であれば笑い飛ばせばいいのだろうが、口調が真剣なだけにそれもできない。


「あ、」

 窓のほうを――正確には閉てられた障子のほうを眺めながら、なつ紀が急に声を上げる。


「どうかしたの」

「ベランダに洗濯物を干してあったのを忘れてたわ」

 取りこんでくれるよう、透吾に頼んでくる。せっかく干してもこの雨では濡れて台無しだろう。干したのは、影だろうか。


 透吾は立ち上がると窓辺に向かった。さすがに病人のなつ紀にやらせるわけにはいかないから、素直に動く。このためにわざわざ布団から出るのもおっくうだろう。冷たい雨で体を冷やせば具合もよけいに悪くしそうだ。


 障子を開け、続けて窓を開ける。とたん、雨風が轟音となってあたりに響き渡った。透吾はそれに少しひるみながら、洗濯物に手を伸ばす。ベランダは驚くほどに狭く、干された洗濯物には室内からでも難なく手が届いた。さいわい雨はこちら側へは吹きこんでおらず、洗濯物もまだ心配したほどには濡れていないようだ。


 なつ紀の衣服と、影のものと思われる衣服が一緒に干されている。本当に二人で暮らしているのだ。なつ紀の言うことを信じていないわけではなかったが、いざ証拠を目の当たりにすると何だか複雑な心持ちになった。


 服やタオルに混じって下着が干されているのを見つけ、面食らった。影のものだけではなく、なつ紀のものもある。臆面もなく堂々と干されていた。リボンやレースのあしらわれた赤や水色の下着を、なるべく視界に入れないように気をつけながらピンチハンガーごと室内にほうると、なつ紀が抗議した。


「もっとていねいに扱ってよ。下着だって干してあるんだから」


 どうやらなつ紀はそれを承知で、透吾に洗濯物を取りこむように頼んだらしい。いくら突然の雨だからとはいえ、弟に平気で自分の下着を取りこませようとするなつ紀の無神経さがわからない。だいたい、隠すこともせずにベランダに堂々と干すものではない。


「……外に堂々と下着を干しておくのは危ないんじゃないの」

「どうして」

「どうしてって、女の一人暮らしなのに。もし隣人が変質者だったらどうするの」

「透吾って、想像力がたくましいのね。お隣も私と同じくらいの女の一人暮らしよ。母さんから聞かなかった? 詳しいはずでしょう」

 母への愚痴を今ここで透吾にぶつけられても困る。それに透吾は、母とは会話自体さほどしない。


「影がいるわよ」

 独りごちるように、なつ紀が言う。


 それは影がこの部屋に居着いているので一人暮らしではないという意味だろうか。もしくは、たとえ変質者が現れたとしても影に任せておけば安心だということなのだろうか。あの華奢な体つきの少年が、変質者とまともに渡り合えるとも思えないが。


 雨音が部屋じゅうを支配していく。透吾は窓と障子を閉めると、また元のように畳に座った。

 取りこんだ洗濯物は部屋の隅に抛ったままだ。皺になる前に畳むべきなのだろうが、そこまでするつもりは透吾にはなかった。洗濯物を畳むのは得意ではないし、何よりなつ紀の下着に触れるのは気が引ける。

 それにどうせ影が戻ってくれば、なつ紀は洗濯物を畳むように言いつけるだろう。それもきっと、高圧的な口調で。

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