(十六) 突然の雷鳴
アパートに着くころになっても雨脚はいっこうに弱まる気配がなかった。
そのころには靴ばかりか服の裾を伝って膝下あたりまでがしっとりと湿っていて、不快さがいっそう増していた。べったりと肌に張りつく感触が気持ち悪い。部屋に戻ったら真っ先に風呂を沸かそうとなつ紀は考えた。夕飯はデパート地下の食糧品売り場で適当な弁当を買ってきていたが、空腹を満たすよりもまずは体を暖めたい。雨でずいぶんと冷えていた。
やがてアパートが見えてきて、なつ紀は半分腐食した階段を滑らないように気をつけながらゆっくりと上がっていった。ヒールのあるパンプスを履いているせいで、ただでさえ足元がおぼつかない。
無事に上がりきったところで注意を足元から前方へと移す。二〇三号室の前に、何かが
最初は、野良犬かと思った。
どこからやってきたのかは知らないが、この雨のなか、よりにもよってなつ紀の部屋の前に陣取っているなど実に迷惑だ。少し近づいてみるとそれは思いのほか大きく、身じろぎひとつしていなかった。死んでいるのだとしたらよけいに厄介だ。なつ紀は嘆息した。今から大家に連絡がつくだろうか。それとも市の清掃事務所へ連絡したほうが早いか。面倒だから、いっそ可燃ごみで出してしまおうか。回収してくれるだろうか。
しかしそれは野良犬ではなかったし、死んでもいなかった。
距離をつめると薄ぼんやりとした外灯に照らされてその正体がわかった。ドアのすぐ横の壁に背中を預けるようにして座りこんでいたのは、華奢な体つきをした少年だった。抱えた膝のあいだに顎をうずめるような体勢でじっとしている。なつ紀好みの、きれいな少年だった。
なつ紀が無言で傍に寄ると、少年のほうでも顔を上げてなつ紀を見た。雨に濡れた前髪がかたちのよい額に張りつき、毛先からぽつぽつと雨の雫が滴っていた。ゆっくりと何度か瞬きをする。密集した睫毛の先にも細かな雨が粒となっていた。
「一目見て、これは私を待っていたのだとわかったわ。私以外の誰を待っていたのだとも思えなかった」
なつ紀の口調はどこかうっとりとしていて、透吾はなぜだか寒気を覚えた。
「……それで部屋に上げたの」
「そうよ。だって影は私を待っていたのだもの。当然でしょう。ドアを開けておいでと手招きしたら仔犬みたいにおとなしくついてきたわ。そういう意味では、最初に犬だと思ったのもあながち間違いではなかったんでしょうね」
「……自分の名前が〈影〉だって、そのとき名乗ったの」
そう訊ねると、なつ紀は小さく小首を傾げた。
「さあ。あの子が本当は何ていう名前なのかは今も知らないわ。あの子は自分の話をしないもの。ただ、あの子にぴったりだと思ったから私が勝手にそう呼んでいるだけ。あの子もそれが自分のことだとちゃんと理解しているんだから、別に本当の名前がわからなくたってそれで不自由はないでしょう。本当の名前なんてさして重要じゃないわ」
「……軽率だとは思わなかったわけ」
「何が?」
質問の意味がわからないというように、なつ紀は眉をひそめる。
「だって、見ず知らずの人間なのに。素性も何もわかったものじゃないし、自分のことを話したがらないんでしょう。そんなの怪しいじゃないか。考えもなしに部屋に上げて、危険だとは思わなかったの」
世の中には、悪い人間などいくらでもいるのだ。そして、そうしたものとそうでないものとの見分けがあからさまにつくわけでもない。悪いものも、たいてい見た目はふつうなのである。あからさまに悪ぶって見えるのはむしろ親切なくらいだ。
少年らしいしおらしい態度をとって油断させておいて部屋に上がりこんだとたんに豹変して暴力を振るってきたかもしれないし、隠し持っていた刃物で脅されて金品を要求されたかもしれない。
さいわい影はそのいずれでもなかったが、いまだになつ紀の部屋に居着いている。
キッチンへ飲み物を取りにいった影は、まだ戻らない。透吾一人の飲み物を用意するだけにしてはずいぶんと時間がかかっている。なつ紀と二人、ここで暮らしているのならばまさか飲み物の場所がわからないわけもあるいまい。
透吾は耳を澄ませてみたが、襖一枚隔てた場所にいるはずなのに物音ひとつ聞こえなかった。
「影は、来るべくしてここへ来たのよ」
なつ紀は笑って言う。
「そんなの、姉さんの勘違いでしょう。話を聞いた限り、たんなる訳ありの居候じゃないか」
「もしかしたらあの子、人じゃないのかもしれないわ。あの睫毛の濃く長いのと、唇の赤いのを見た? あんなきれいな子、人じゃないわ」
ならばなおさら具合が悪いではないか。
一人暮らしのなつ紀が自分の
ただどんなに透吾がそれを忠告したところで、なつ紀が素直に聞き入れるとも思えなかった。よけいに反発して意固地になるのは目に見えている。
なつ紀の話は続く。
「長いこと雨に打たれていたんでしょうね。ひどく体が冷えていたから、部屋に上げてすぐお風呂を沸かして入れてあげたわ」
「……入れてあげた、」
「そう。私があの子をお風呂に入れてあげたのよ。服を脱がせて、湯船に入れて、それから体を洗ってあげたの。あの子はされるがままで、やっぱり仔犬みたいにおとなしくしていた。耳の後ろも、足の指のあいだも、もちろんそれ以外の場所も、隅々まで全部私が洗ってあげたのよ」
「……いいよ。もう、聞きたくない」
「何を怒っているの」
「別に、怒ってなんかいないよ。ただ、姉さんにデリカシーがなさすぎるんだ。いくら、弟相手だからって」
「透吾も一人前にデリカシーなんて気にするようになったのね」
くつくつとおかしそうになつ紀は笑う。肩にかけたカーディガンがまた落ちそうになって、細い指先で引っ張った。
やはり、今すぐに帰るべきだ。
さっきからずっとそう思っているのに、なかなか言いだす機会が掴めない。透吾のために飲み物を用意してくれているはずの影には悪いが、透吾はもう、一刻でも早くこの場から立ち去りたかった。
それを伝えようとして口を開きかけたとたん、突然に窓の外で雷鳴があった。
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