終章
名を呼べば
五日後。白虎の身体が快方に向かっているのを確かめ、琥琅たちは玉霄関を発つことにした。
「用意はいいですか、琥琅」
「ん」
雷禅に促され、二人と一匹で連れだって公邸の廊を歩く。今日も今日とて公邸の中は静かで、風の音に混じって関所の賑わいがかすかに聞こえてくる程度だ。
歩きながら琥琅が窓の外を眺めていると、雷禅の肩に止まっている天華がばさりと羽を揺すった。
〈やれやれ、とんだ寄り道であったの。中原からこちらへ飛んでおるときは、まさかこんなことになるとは思わなんだわ〉
「予想できるほうがすごいですよ。……こうして終わってみると、商談の結果を書いた文を貴女に届けてもらっておいてよかったですね。関所が封鎖されていても、荷と人手の段取りくらいはできますし」
と、先頭を歩く雷禅は振り返って苦笑した。
雷禅の足取りは迷いがなく、案内なしで琥琅たちを玄関へ導く。琥琅と違って毎日のように天幕がある区域へ通っては顔馴染みの商人に挨拶したりしていた彼は、あてがわれた室から玄関までの道をすっかり覚えていたのである。もう二度と訪れることのないだろう場所だというのに、よく覚えるものだ。
そうこうしているうちに、いつの間にか琥琅たちは正門に近づいていた。ここまで来ると、さすがに往来の賑わいがはっきりと聞こえてくる。
厩に近い門には馬車や遼寧と玉鳳、そして伯珪がすでに出立の準備を終えて、琥琅たちの到着を待っていた。
「お待たせしてしまいましたか、伯珪殿」
「いや、ちょうど今準備を終えたところだよ」
腕にしていた包帯を昨日外したばかりの伯珪はそう笑う。
〈天華さん、白虎様。身体は大丈夫ですかい?〉
〈ふん、昨日も言うたが完治しておるわ。妾より白虎じゃ〉
〈復調とまではいかないが、歩くのには支障ない。お前たちこそ、身体に障りはないのか?〉
〈ええ、ご心配なく。わたくしもこの根性なしも、身体に問題ありませんわ〉
遼寧の問いに対して白虎が問いを返せば、玉鳳がそう答える。遼寧がひどいよ玉鳳と抗議しているが、玉鳳はまるで聞く耳持たない。どうやら戦場での遼寧の泣き言は彼女の耳に届いていたらしく、情けない雄馬という認識はますます強くなっているようだ。
伯珪は白虎を見下ろした。
「白虎殿、遼寧と玉鳳が何か話しているようだが」
〈情けない雄は雌を得られぬという話だ。気にするな〉
「…………そうか」
今の話はそういう内容だっただろうか。琥琅は内心で首を傾げたが、伯珪は何故か神妙な顔をしてそれ以上の追及をやめた。天華は天華でくつくつ笑い、肩を強く掴まれた雷禅は目を白黒させる。
全員が乗りこみ、天華が馬車の中に固定された止まり木に止まったのを確認すると、雷禅は御者に続いて馬たちにも声をかけた。御者と二頭は頷き、馬車がゆっくりと歩きだす。
西域辺境側の甕城から出てきた二台の馬車は、さいわいにも人々に騒がれることはなかった。幌には家紋がないし、皆忙しいのだ。自分のことにかまけて、他を見ている余裕はないに違いない。
琥琅たちを乗せた馬車が旅人や商人たちで賑わう辺りを横目に、西域辺境側の門へ向かう中。雷禅がふと口を開いた。
「そういえば今朝、白虎殿が封印されていた廟の夢を見ましたよ」
〈あの廟の?〉
白虎は目を丸くした。琥琅も目をまたたかせる。
「白虎殿とその聖剣を僕の前世……玄明と琥琅の母堂で封印した直後のようでした。未来も平和であるようにと玄明は願っていて……自分の生まれ変わりが秦慶仲の生まれ変わりに振り回される未来を見たと琥琅の母堂に話してましたよ」
「! 母さん、雷のこと知ってた?」
「いえ、玄明は詳しく話してませんでしたよ。慶仲の生まれ変わりに懐かれていると話したら大笑いされるに決まっているから、と。実子ではなく養女かもしれないこともあえて言わないで、母親になるとだけ教えていました」
〈……誰ぞの妻になるかもしれないと思わせて雪娟をからかっていたな、それは〉
「ええ。どうやら玄明は少々意地の悪い人だったみたいですね」
呆れる白虎に雷禅はくすりと笑って返す。確かにそれは性格が悪い。雷禅の前世は嫌な奴だと琥琅は憤慨した。
白虎は雷禅に顔を向けた。戦友の面影を探すように目を細める。
〈……玄明が人間の領域を超える予知ができたのは、雪娟に伝わるよう天が采配したのかもしれんな〉
「天が、ですか?」
雷禅が眉をひそめると、ああと白虎は頷いた。
〈異能を持つ者というだけでは、数百年も先の未来を見るなどできるものではない。実際、玄明の予知は長くても数年先までだった。過去なら数十年前でもできたがな。……天から声を注いだと考えるなら得心がいく〉
〈ふん。ならばそのときから他の虎仙でも遣わしてやればよかったものを。いつ訪れるかわからぬ未来だけ教えてあとは知らぬ存ぜぬとは、天も随分勝手であるの〉
切り捨てる天華の声音は冷たい。だが琥琅も同意見だ。養母は一人で白虎と聖剣を守り戦い、命を落としたのである。誰か戦える者が養母のもとに遣わされていれば、養母は死ななかったかもしれない。
――――その代わり、琥琅は雷禅と出会うことはなかったのだろうが。
〈ところで虎姫。この神獣に名をつけてやるという話はどうなったのじゃ〉
「ん。決めた」
こくんと頷き、琥琅は白虎を見下ろした。
秀瑛を見送ったあと。琥琅が室に戻って白虎に名を尋ねたところ、彼はないと言った。というより、慶仲に名づけられはしたが封印され新たに生まれたようなものだから、ないに等しいらしい。だから白虎も元々、機を見て琥琅に名を与えてもらうつもりだったのだという。
「お前、これから蒼冥」
青い目に琥琅の姿を映すしもべに琥琅は宣言した。
養母はこう育ってほしいと祈りをこめて琥琅に名をつけたけれど、白虎に願うことなんて琥琅にはない。あるとすれば、生きてほしいという当たり前のことだけだ。
だから綜家の邸で老師に教わった、青空を意味する言葉を名前にすることにした。この白い虎の目の鮮やかな青は、よく晴れた空のようだから。彼自身を表すのに相応しい。
〈……ありがたきしあわせ〉
青い目が一層鮮やかに輝いた。綺麗だと琥琅が見惚れる暇もなく目を細めた白虎――蒼冥は琥琅に頬にすり寄せる。それが可愛らしくて、琥琅は蒼冥を抱きしめてやった。
雷禅はにこにこ笑った。
「よい名ですね。あとで伯珪殿にも教えましょう」
〈いっそ彗華中に広めてやるがよい。そのほうがそこらの白虎像と区別しやすくてよかろ〉
そんなことを話しているあいだも、幌付き馬車は西へ向かっていく。一辺の雲もない、濃い青で塗りつぶされた空が馬車から見える。
向かう先は彗華。琥琅と雷禅にとっては我が家、伯珪と白虎にとっては新たな住まいが待つ場所だ。
砂埃を孕んだ風が空を渡る、西域辺境の夏だった。
清国虎姫伝 ―再戦― 星 霄華 @seisyouka
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