いつか愛しくなれたなら

藤咲 沙久


 一から十の間で好きな数字はと問われれば、六だけは決して選ばなかった。

小清水こしみずさんの名札、というかお名前。なんとお読みするんです? ムツさんですか、リクさんですか」

「ロクだよ」

「ロクさん」

「ああ。数字の六と書いて、そのままロクだ」

 夜勤がもうすぐ終わる。動く度に防塵服をシャカシャカと鳴らしながら、何枚目かになる大判の板を所定の場所に置いた時だった。話し掛けてきたのは自分の作業に区切りがついたらしい佐藤さとうさんだ。帽子とマスクに挟まれた小さな両目しか見えないが、胸の名札を確認するまでもなく、この工場には事務員以外の若い女性など彼女一人しかいなかった。

 四年制の大学を出ておいて、何が悲しくて昼夜交代制の工場勤務なんかをやっているのだろう。時折不思議に思うが、賢いお嬢さんの考えることはよくわからんという結論にしか至らなかった。現に、私の名前を気に掛ける理由も不明なのだ。職場が同じだけのじいさん相手に。

「なるほど。シンプルゆえにストレートな意味が込められてそうですね」

「意味だって? ろくなもんじゃないよ。ああ、洒落じゃなくてね。本当に雑な話さ」

 最後の一枚を置き、よっこいせと腰を伸ばした。隣のラインと併せて、今日のノルマは無事に達成出来ただろう。やれやれと佐藤さんに向き直った。私より一回り二回り身体の大きい彼女は、顔もやや高い位置にあった。今の若者はしっかり食べれていて良いことだなぁと常々感じている。まあ、それにも限度はあるが。

「例えば、六男だからーとかです?」

「捻りがないもんで、まったくその通りだ。ただ六人なのは男でなくて子供でね。頭からはじめ二男つぐお三子みつこ四郎しろう五木いつき、そんでろく。数字なんだよ、全員。それにしたって私だけ手を抜き過ぎだと思うがね」

 昔から、好きな数字を聞かれても六だけは選ばなかった。もういい加減思い付かないとばかりに付けられた名前が好きになれなかったからだ。私よりも幾分か立派な名前を持つ兄達には、ついにこぼせなかった本音だった。

「ははあ。そこまでいくといっそこだわりを感じます」

「えぇ……? 変わったことを言うね佐藤さんは」

「なんだい、小清水さんの名前の由来だろ? そんな話楽しいかい美子よしこちゃん」

 終業チャイムを聞き届けてから他の同僚達と並んで歩き出すと、可笑しそうに橋本はしもとさんが割って入ってきた。彼は以前この話について、盛大に笑い飛ばした男である。私としても、年を取って今さら気にもしていないので別に構わなかった。

 そもそも、怒るなら話さない。もうその程度のことなのだ。私にとって名前など、さして大事なものでもなかった。

「だって、数字にちなんで六人分考えるのって割りと大変ですよ。ここまでくると最早意地だったんでしょうけど、絶対数字をつけるんだという本気度を感じました。六は、その象徴かもしれませんね」

「へえ、美子ちゃんの言うことは難しいなぁ」

「そうです? 普通ですよ」

「……大した理由なんて、ないと思うけどね」

 私の言葉に一瞬静かになって(橋本さんのあくび以外は)、シャカシャカ音がよく聞こえた。随分前に見送った両親を悪く言うつもりはないが、そんなの買いかぶりだ。私の手を取って「お前の名前はね……」などと言われたことがない。もうそろそろ話題の中心から離れたかった。

 少し間をあけて、佐藤さんが口を開いた。

「わたし、美人ではないじゃないですか」

 再びシャカシャカが増す。さすがの橋本さんも笑い飛ばしていいのか迷ったらしく、どちらともつかない半端な表情をみせた。私は「愛嬌があるよ」と返そうとしたが、このタイミングでは逆効果なので飲み込むことにした。彼女は気にした様子もなく、少し離れた細い目でニッコリと笑った。

「でも、美しい子って名前なんです。子供の頃はいたく迷惑に思ってました。自分の名前が嫌いでした」

 出退勤用のパソコンの前まで来た。いつものことながら一斉にやってきた夜勤組と、ぱらぱらと逆流してくる日勤組で、ちょっと混雑している。我々も大人しく足を止めた。

「でも途中で思ったんですよね。親もきっと“あちゃー名前負けした”って感じてるかもだけど、別に顔面じゃなくて内面が美しければ負けじゃないのでは、と。わたし、基本的に前向きなんで」

 いや体型は気を遣えよって言われそうですがね! などと笑いながら、ふくよかな身体を揺する佐藤さん。本当に前向きで羨ましいほどだった。私には出来ない発想だ。何が悲しくてこんな場所に……と先程考えていたが、経緯はわからないものの、彼女はそれさえも明るく捉えているのかもしれない。

 勝手ながら、そう思った。

「佐藤さんはすごいな」

「どうでしょう、小清水さんも同じでいいんじゃないでしょうか。付けた側の想いは想いとして、自分が気に入る意味を発見すれば、意外と愛着もてたりしますよ」

「いやあ、美子ちゃんが言うとなんでも頭が良く聞こえる」

「橋本さんはそればっかりですね、別に普通ですよ」

 想いそれ想いそれとして。そう簡単に脇に避けてしまう豪快さに思わずくすりと笑みをこぼすと、橋本さんに「こいつは珍しい」とつつかれた。放っておいてくれ。

「何か、数字の六にまつわる素敵エピソードとか持ってないんです?」

「むしろ、六は嫌いな数字だったからな……。強いて言うならだが、誕生日は六月六日だよ」

「そりゃ初耳だ、そうなのかい」

「っえー!! すごいじゃないですか! 六月六日生まれの六さん、ゾロ目ですよゾロ目! え、奇跡じゃないです? ゾロ目の人とか世の中にいます? 小清水さん激レアですね!」

「佐藤さん、佐藤さん。声が大きいよ。そんな、騒ぐことでも」

 集まる視線に顔を赤くしながら慌てて制止する。しかし彼女があんまり楽しそうに「すごい、すごい」と喜ぶので、なんだかつられて顔が綻んでしまった。名前にも誕生日にも、これほど人に喜ばれたのは初めてだった。

 賢いお嬢さんの考えることは、あまりに柔軟で、どうしてそこに辿り着けるのかやっぱり私にはわからない。だが不思議と、悪い心地はしなかった。

(六人目の子供だから、正確には、“六”は三つでなくて四つだよ)

 心の中でそんな風に笑うくらいに、私は佐藤さんの考え方を気に入ってしまったようだ。面白がって一緒に「すごい」を繰り返す橋本さんを小突きながら私達は退勤記録をつけた。

 長年嫌ってきた数字を、そう簡単に好めるものでもない。そりゃあそうだ、年期が違う。ただそれでも、なんだか今日は、ご飯を少しだけ美味しく食べられるような気がした。

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いつか愛しくなれたなら 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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