第25話 今宵、星降る夜に祝福を
翌日。イェリナは、夜明けとともに優しく丁寧に起こされた。
すぐさま起きてふかふかの
「さあ、参りましょう。私、モリアがお嬢様を夜会で存分に戦えるレディに仕立てさせていただきますので」
モリアは百戦錬磨のメイドの顔をして、にっこり微笑んだ。
その数時間後、イェリナは貴族令嬢がクラシックスタイルのドレスを纏って
「ま、待って……無理……無理です……」
コルセットの絞り開始三分後、イェリナは早くもギブアップ宣言をしていた。
伝統を重んじる
「もう少し頑張りましょうね」
しかしモリアは無情にも、涙が出るほど優しい励ましによって、ギブアップを無かったことしてしまう。
イェリナは苦痛に呻きながら、なぜこのような不健康な下着が存在するのか、とコルセットの存在を恨んだ。
「大丈夫ですよ、締め終わったら負荷軽減の魔法をかけます。楽になりますよ。絞る前にこの魔法をかけてしまうと、限界を超えて絞ってしまいますので」
今にも呪詛を吐き出さんとするイェリナを見かねて、コルセットを締め終えたモリアがニコリと笑って魔法式を展開すると、コルセットを中心にイェリナの胴体が淡い光に包まれて、苦しみが和らいだ。
コルセットの次はスカートを膨らませるための
際限なく盛ろうとする専属メイドを「ダンスをするのだから」と言って前方のボリュームは控えめに、後方を少し長く流す形にして貰った。
そうしていよいよ、ドレスの出番だ。
「……このドレスの色、セドリックの髪の色みたい」
デコルテの開いた夜会用の美しいドレスだった。
柔らかな黄色の生地には光沢があって、施された刺繍や飾りは星が散りばめられているかのよう。肘の辺りで絞られて、その先はふわりと広がる袖が華やかさを演出している。
今までずっと眼鏡に夢中だったイェリナは、ドレスや宝石のことなんてサッパリわからない。それでも、柔らかくて軽い生地が高価なものであることくらいは知っている。
「みたい、ではありませんよ、お嬢様。セドリック様がイェリナお嬢様のためだけに用意されたドレスなのですから」
その言葉を聞いて、イェリナは鏡の前で黙りこくってしまった。首まで赤く染まった自分の顔を見ながら、ここにはいないセドリックを思う。
『今回のことは、
朝早くから王宮へ向かったセドリックは、そう行って馬車に乗り込んだ。
王太子殿下を絶対にロベリアのもとへと連れてゆく、と静かに笑うセドリックの目は鋭く、ギラリと輝いていたことを思い出す。
ふと顔を上げた鏡の中では、イェリナのために用意したというセドリックの神秘的な
星祭りはその名の通り、祭りの本番は日が沈んでからだ。
セドリックにエスコートされて馬車から降りたイェリナは、視界に飛び込んできた絶景に思わず息を呑んだ。
馬車止めから学舎まで続く道の植え込みに飾られた
「……綺麗。星の海を歩いているみたいですね、セオ」
「イェリナ、溺れないようにしっかり捕まって」
言うが早いかセドリックは、星々に見惚れるイェリナの手を引いて、ぐい、と自分の方へと引き寄せた。
星を散りばめたような意匠もドレスと同じ。
セドリックが身につけているカフスボタンや細かい
どこからどう見たって、セドリックはイェリナのパートナーで、イェリナはセドリックのパートナーであると強く主張するものである。
(ど、ドレスを贈られるって……こういうこと……!)
思わずイェリナは
加えて、いつもは柔らかく下ろされている金の髪が、綺麗に整えられて上がっている。ひと筋、ふた筋降りた前髪が艶やかな雰囲気を作り上げ、その色香の新鮮さにイェリナは思わず瞬いた。
普段の柔らかく優しいセドリックとは違う、どこか鋭さのある美貌と漂う艶麗さ。これはいけない、とイェリナの無意識が警告を発するほどの色気に心臓が高鳴る。
端正な輪郭、輝くような髪。イェリナを見て柔らかく細まる目に、まあるく
(直視できない。眼鏡……眼鏡をください……!)
イェリナは冷静さを保つために、セドリックの麗しい顔に眼鏡を妄想した。それで幾らか正気を取り戻し、懸命に
「わたし、自分の足で立ってセオと一緒に歩きたいの」
「いいよ、そうしよう」
嬉しそうに微笑むセドリックと足並みを揃え、イェリナは星祭りの
受付を済ませたイェリナとセドリックは、談笑している者たちの間を縫うようにしてホールの中心へ向かった。
「ねぇ、ご覧になった? サラティア様の優しい笑顔! 本当に素敵だったわ」
「知ってらっしゃる? ビフロス様の微笑みは、あのバーゼル様が引き出したものなのですって!」
「そうなの? ビフロス様って、歩くマナー
令嬢たちが集う輪の側を通りがかったとき、そんな会話がイェリナの耳に飛び込んできた。
二日前の噂と真逆すぎる。イェリナがロベリアと話をつける前までは、イェリナもサラティアも散々な言われようだったのに。
なにが起きているのかわからない。イェリナはダンスを踊るのとはまた違った緊張感で、ゴクリと喉を鳴らした。
「それに、カーライル様! あの方もバーゼル様とおられるときは、それはそれは眼福もののお顔をされているとか……」
「まぁ……! 相思相愛なのね! なんて素敵なお二人でしょう!」
「でしたら、カーライル様がバーゼル様と結ばれても……よいのではないかしら? カーライル様もご卒業後は子爵位になるのですから」
「ええ、そうですわね。……ふふ、わたくし達、今までどうして反対していたのかしら。相思相愛のお二人を引き離そうだなんて、どうかしていたわ!」
別の令嬢集団の側を通ったときも、同じであった。今まで不釣り合いだ、身分差を考えたほうがいい、だなんて冷たく囁かれていたというのに、この変わりよう。
「……セオ、これはもしかして……」
「僕が手を回した部分もあるけれど、大半はアドレーの工作かな。多少、マルタン家の世論操作術も効果を発揮しているようだけれど」
「な、なるほ……ど?」
セドリックとは気持ちを通じ合わせただけで、この先のことなんて、まだなにも決まっていない。それなのにどうしてか、外堀を埋められているような気がしてならない。
今、イェリナの隣に立つひとは、カーライル大公子息セドリック・カーライルだ。
そして、未来の石油王。イェリナがセドリックを石油王にするのだ。セドリックとその領地、領民と、眼鏡のために。
イェリナが決意を新たにしたところで、今まで流れていた曲がちょうど終わり、楽団が次の曲目の準備に取りかかりはじめた。
「行こう、イェリナ。早く君を見せびらかしたい」
「せ、セオ!? なにを言っているの!?」
セドリックに手を引かれたイェリナが、
滑らかで優雅な三拍子。
イェリナはすぐに姿勢を正してセドリックとともに踊りはじめる。
スローテンポではなく、アップテンポな曲調に合わせてステップを踏み、ターンする。セドリックのリードでくるりと回り、伸びやかにワルツを踊る。
「驚いたな。僕について踊れるなんて、イェリナは凄いね」
「学年主席の実力を舐めないでください、セオ。……ふふ、でも、こんなに楽しいダンスははじめてだわ!」
しなやかに身体を動かすことの楽しさを感じてイェリナが破顔する。
柔らかく細めた視線の先、セドリックの肩越しに、イェリナはロベリアの姿を見つけた。
ロベリアが踊っている相手の顔は見えない。けれど、紫色を基調とした小さな
そんな王太子殿下と踊るロベリアの目は、真っ赤であった。もしかしたら
「ロベリア様は、婚約者の方とお話できたのね」
「イェリナのお願いだからね。今朝、殿下を叩き起こして説教した甲斐があったかな」
「せ——!? ……セオは時々、過激なことを言いますね」
「そうかな? でもイェリナにはしないよ」
「知っています。セオはわたしに甘いから」
クス、と笑ってターンした先では、サラティアがアドレーと踊っている姿が見えた。
「アドレーは無事、サラティア嬢と踊れたようだね」
「そうですね、すっごく嬉しそう。……アドレー様じゃないみたい」
「アドレーはサラティア嬢のことになると、よくも悪くも暴走する。アドレーは優秀な男だ。アドレーの判断はサラティア嬢が絡まなければ、いつも正常で正当で説得力がある。僕の次に頼りになる男だよ」
「……どうしてそんなことをわたしに言うんですか?」
キョトンとした顔でイェリナが問うと、セドリックは悪戯っぽく笑って片目を瞑った。
「決まっているでしょ。僕がこれからイェリナに求婚するからだよ」
「えっ。……え?」
突然宣言されて驚いたイェリナはステップを踏む足を止め、幻覚眼鏡が浮かぶセドリックの顔をまじまじと見ることしかできない。
ちょうどそのとき、
セドリックがその場に片膝をつき、イェリナに片手を差し伸べていたからだ。
貴公子然とした麗しの大公子息が、着飾って美しくなったとはいえ田舎貴族の男爵令嬢であるイェリナの前で
これからなにが起こるのか。周囲がザワザワと騒めきだした。イェリナの心臓だってうるさいくらいに高鳴っている。
その騒めきを静めるように、セドリックがわざとらしく咳払いをひとつ。それから真剣な眼差しでイェリナに向かって微笑んだ。
「イェリナ・バーゼル嬢、僕の祝福、僕の愛。どうか僕と生涯の愛を結んで欲しい」
イェリナを熱く見つめる
イェリナの頭の中で描いた眼鏡の
消えた妄想がイェリナの心を証明していた。
だからイェリナはにこりと微笑んだ。淑女の笑みではなく、心の底から幸せが滲み出た微笑みで、
「セオ……」
セドリックと出会って一週間。短いようで長く感じる密度の高い一週間だった。
なにより、眼鏡があってもなくても、ひとを愛することができるようになったのだ。
イェリナは照れたようにはにかんで、重ねたセドリックの手をきゅっと握る。
「セオ、愛してる。わたしに生きる希望をくれたひと……!」
素直に
いつの間にか宙をクルリと回り、気がつけばイェリナはセドリックの腕の中。横抱きにすぽりと収まり、イェリナが目を瞬かせていると、
「愛してる。愛してる、イェリナ!」
と。額をぐりぐり合わせ、黄緑色の美しい目を喜びで揺らしたセドリックが、宝物を抱くようにイェリナをぎゅう、と抱き寄せた。
パチ、と手を叩いて祝福したのは誰が最初か。
それが呼び水となりまばらな拍手が次第に大きくなってゆく。
思いもよらぬ盛大な祝福を受けたイェリナは、セドリックの腕の中で自分が愛する眼鏡の神に感謝した。
イェリナが恋した幻覚眼鏡は、イェリナの未来もセドリックの未来にも等しく祝福を与えてくれたのだ、と。
その夜、王都グランセイユには、いく筋もの星々が降り注いだのであった。
〈了〉
わたしにだけ視える眼鏡がイケメンすぎてヤバい。 七緒ナナオ @nanaonanao
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