ΑΒ

おきしま 幻魚

一章

 少々派手すぎる光に、もうすっかり慣れていた。初めてここに訪れた時は、小ぶりなモニターが放つ有害ではないらしい光線よりもよっぽど辛かったのを覚えている。

 独りで作業をしだしてから、六時間ほどが経った頃にようやく視線が解放される。何もかもがうまくいった。あとは待つだけだ。ゆっくりと立ち上がると、視界が端から赤い煙に遮られる。少し長い時間を使い、ちゃんと動けるようになるまでゆっくりと待った。ああ、やっぱり眩しいじゃねえか。

 近くの机に置いてあるフリーズドライの食品に手をかけた。しばらくキーボード以外に使うことの無かった触覚が、それを異物と認識し手袋が間に噛んでいるように感じられる。すぐそばにあるキッチンまで移動するのも大移動のようにだるい。貯めている水のほんの一部を小さくて深い鍋に入れ、携帯ガスコンロで火に晒した。

 そんなことをしていると気付く。自分は困難の中、見事やり遂げたのだ。いきなり興奮の渦が音を立て始めた。成果物を今一度確認したい。俺は、心臓が大仰に打ち付けるのと同じくらいの足取りで先程座っていた位置へ戻る。


 この画像はなんだ。見たことのない式が手書きで綴られている。一旦退かして、他のことを調べてみよう。

 いや、だめだ。どのファイルを開こうとしても、どんな小細工を試そうとしても、結局この数式しか出てこない。嫌でも、解かなければ先に進めないようになっているらしい。くそ。天才ならではの防御策なんだろう。意地でも開けてやる。あれの情報なら、破格の値段で売れるはずだからな。

 沸き立つ音が部屋の方まで響いてくるのも気に留めずに、考え始めた。恐らくは、方程式であると考えられるその文字群の意味を。しかし方針を立てられないまま集中力は途切れ、食事を摂るためキッチンへと戻り、同時にチームへ連絡を飛ばした。

「セキュリティソフト突破。しかし、不可解な式でロックが掛かっている。情報求。」

 同時に、画面を写真にとって送信する。

 一部の人間は功績を上げようと、一人でこいつに立ち向かうだろう。そして、協力体制に入ってくれるものも必ずいる。俺は麺類を野菜とともに飲み込みながら、再びどうすれば上手くいくかを考え始めたのだった。




 今日、彼にとって待ちに待った展示が催される。小学生の夏の日に、琵琶湖に生えている葦の利用法について熱心だったことがあるが、その時よりも深く興味を惹かれている。その為に都内のホテルで一夜を過ごして、遂にブースに足を踏み出したその瞬間なのだ。もう、目の前に見慣れたパネルが設置されている。通路の横にある壁には、リボンが紐の代わりになっている赤い靴と、それを履く白いタイツの足が映されている。足が歩くのと一緒に彼も進む。そうすると開けた場所が現れ、とある声が雑踏にも関わらず彼の耳にまで入ってきた。

「わあ、こんにちは。この子おいくつになるんですか。」

「そうなんですね。会いに来てくれてありがとうね。」

 そのホールの中央には、ガラスに透明な仕切りがある。その中に、動き回り声を発する一人の、巨人と呼べるほどの体を持った女性が挨拶を続けていた。

 いや、彼女が体をもっているというのは間違いだ。3D技術でそう見えるだけで、生身などは存在しない。首から下がっている紅星を象ったペンダントや、絵的に整った顔立ちなど、これら全てが向こうの世界にしかない。彼女を世界に紹介した一人の天才は、こう言って宣伝を打った。

『電脳生命 ΑΒ』


 いつもは動画配信でしか見られなかったが、こうやってそこに姿があるのを確認すると、本当に人間らしいと思わざるを得なかった。真昼の青空のように輝く宝石が細かく動き、瞼とすぐ近くの肌が皺を出す様など、丁寧に作られている。それに、どこで見ているのか受け答えも完璧で、鼻の向きや視線もこちらを離さない。人間の動きの再現もここまで来たのだ。様々な分野にこの技術は応用されるだろう。才覚という物はなんとも恐ろしい。そう考える彼自身の鳶色の輝きもますます強くなっていった。


 ブースには、彼女の衣装などの細部を三次元的に表現した物や、配信中に彼女がよく食べているものなども展示されていた。なんでこんなものまで、そう苦笑いしていた時だった。食べ物のすぐ近くに彼女が瞬間移動してきた。自分がちょうどみていたハンバーガーのすぐ後ろだったので、驚いて後ろに下がってしまった。

「ごめんなさい。お昼ご飯にしようかなと、こっちに移動したの。」

 桜花のような髪に、布で可能な装飾がふんだんに使われた赤いドレスが揺れた。その姿で、いつもジャンクフードを食べているので、違和感が強かった。

「こちらこそ。大げさなことをしました。」

彼はいつもの通り冷静に、とはいかず思慮深さを欠いていることに気が付いた。腹の底がだんだんと熱を帯びていく。その内口元まで到達して、煙を吐き出してしまうかもしれないといった様子だ。

「よし。」

 そんな彼の頬を見つめていた彼女は、こう続けた。

「困らせてしまったお詫びに、お話しましょう。」

 このファンサービスに、心臓がどくりと鳴る。こちらに視線が這ってくるような気がするのだ。彼女と二人で対話している男が居るなら、間違いなく写真に残る。彼に突如として、人生の危機が訪れたのだ。

 それでも、彼女の心の内を無下に突き放すことはできなかった。

「それでは、代わりに一つ質問させていただけないでしょうか。」

 焦りは体の内に押し込め、お客様を相手にするように微笑んだ。

「もちろんです。遠慮しないで幾つでもいいですよ。」

 彼女が世間で認められるのが、よく分かると彼は思った。一の恩も一の謝意も、十で返したいと思うのが彼女なのだろう。どうかここは一で納得してくれと願う。

「気になることは、一つです。それで十分ですよ。」

「分かりました。聞かせてください。」

 彼らを横切る人影が、どんどんと増えていく。後ろから、端末が出すシャッター音が聞こえる。彼は後悔していた、もし報道にでも映ってしまったらと思うと怖くて仕方がない。彼にとってはそれがこれからの生活すら脅かすのだ。それでも、彼は堂々たる顔つきを見せている。綿のような言の葉を編み、掌を彼女に向ける。

「イロさんは、」

 そこで、途切れる。常日頃から張り巡らせたアンテナが異常を察知した。足音だ。一定が全く保てておらず、この会場内でも分かるほどに大きい。それが、こちらに真っ直ぐ近づいてくるような光景を脳が伝える。自身のすぐ後ろにある存在感を確かめるのに、何秒も使った。彼女が「どうしました。」と言うのも気にならず、振り向く。

 そこでは、痩せた顔の男が彼女を睨んでいた。薄緑のコートについているフードを外し、眼鏡のレンズが割れている。男は、上着の中を探り出す。その間も彼女の映る場所を捉え続ける。男の様子は、常人のものではない。そして男の腕には何本も赤い筋が付いているのが見えた。彼は、身構えた。

 男が取り出したのは、ナイフだった。いかにも人を刺し殺さんと男が腕を揚げる。すると、男の後ろに居た人達が一斉に走り出す。そんな様子を彼はとても冷静に眺め、姿勢を一層低くする。そして男は「ああああああああ」と唸り、彼女の方へ走ろうとした。

 しかし、男は彼に阻まれることとなった。彼は男の腰を掴み、自身の右方向にあった壁にぶつける。その拍子にナイフが壁面と衝突し、男の手から遠く離れて飛んで行った。

 それでも、男はスクリーンにもう一度走り出そうとした。そうすると今度は、足を掴まれて地面へと顔を叩きつけられる。男は痛がる様子も見せずに伸びてしまった。

 我に返った彼は、辺りを見渡す。悲しいことに、数々の端末が彼を舐めまわしていた。

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