恋の唄

トム

恋の唄



 ざぁ――。


 それは一瞬の出来事。雑踏の中、風の音だけが耳に届き、それ以外の音を掻き消す。ふと見上げると、立ち並んだビルの隙間から見える切り取られた空。だけど、間違いなくそこには抜けるような青空が広がり、遠くを小さな鳥が飛んでいくのが視界の隅に入る。


「……あ」


 言葉を漏らした途端、耳には現実が舞い戻り、ざわざわという声とも音とも言えぬ嫌な音が心の中に土足で踏み込んできて、つい私は俯いてしまう。





 ――もうこんな事はしたくない。


 あの人は私の懇願を鼻で笑うと「なら、もっと良い稼ぎ場所に行くか?」と笑っていない目と、歪ませた笑みで迫ってくる。その表情を見せられた途端、背にゾワリと悪寒が走り、掴まれた腕に力を込められると、痛みから逃げ出したくて、結局了承してしまう。


 出逢ったのは三年前。始まりはSNSのDMからだった。常に沢山の友人に囲まれた彼の写真はとても楽しそうに笑っていて、つい、その輪に入りたいと思ってしまった。それがだとも知らずに……。


 ――折返しの連絡はすぐに来た。当時、田舎から出て来て都市部から離れた場所に暮らしていた私にとって、そこはまるで別世界の様な場所だった。夜通し眠らない街、そこら中に同年代の子たちが沢山いて、誰彼構わず話ができ、終電すら気にすることもなく、朝まで一日中話が途切れることはなかった。そんな子たちを取り纏め、また家出をしてきた子たちの安全を守ったりもして、初めの頃はなんていい人達なんだと心酔した……してしまった。何時しかその子たちがいつの間にか減っている事にすら気が付かないほどに。


 ――今日、特別な集まりがあるんだけど、来る?


 そこは少し寂れた場所に立つ倉庫のような場所だった。周りに住宅もなく、一晩中騒いでも問題ないと言われ、皆高いテンションで盛り上がった。お酒も進み、宴も酣になった頃、何時から其処にあったのか、誰が置いたのか、テーブルには沢山のPTP包装シートが、全て中身のない状態で転がっていた。


「……誰か、ODしてるの?」


 私の問いに誰も答えるものは居ない。……気づけば周りで起きていたのは、私と、何故かニヤニヤと嗤う男たちだけだったから。


 其処からの話はあまりしたくない。お決まりのレイプとビデオでの脅迫による従属化だ。拒絶すれば、所謂半グレの別グループに回されるかソープに落とされ、下手をすれば二度と戻ってくる事ができない子達も見てきた。……そうして作った資金で、奴らはまた同じ様に若い女の子たちを食い物にしていった。




 ――そのオジサンに決めたのは雨の中不意に空を見上げ、雨粒を眺めてふと笑みを零している。その表情がなんだか気になって、後を付けた。






 冷たい雨の中、何時ものようにわざと細工したヒールを履き、アクセサリーを総て小さなポーチに仕舞い、この街で暮らすようになって初めて買ったハイブランドのバッグだけは手放せず、ギュッと握って芝居を打った。


 案の定、オジサンは私を連れ、近くのシティホテルへと向かう。途中簡単な衣服を買い揃え、フロントで部屋を二つ取ってしまう。このままでは不味いと思い「今は一人になりたくない」と言うと「……解った。じゃぁ、君が落ち着くまでは一緒の部屋にいるよ」と答えてくれる。


 定番になった身の上話をしても、オジサンはちっとも近づいてこない。ベッドに入っても椅子を窓の傍に運んで外を眺める始末。このままじゃ既成事実も出来ないし、お金をもらう口実すら作れないと思い、考えた末、結局単刀直入に「来ないの?」と聞いてみた。


「あぁ、ゆっくり眠れば良い。……全て忘れてゆっくりとね」


 ――全て忘れて――。


 あぁ、そうだ。すべて忘れてしまいたい……。全て忘れて朝起きたら何もかもが夢だったらどんなに楽な事だろう。……そんな事を思いながら、布団を頭まで被って声を潜めて涙を流し、私はそのまま眠りについた。


 


 ふと日差しの暖かさに重い瞼を開けると、窓のカーテンが少しだけ開いていて、そこから眩いばかりの光が丁度私の顔に降り注いでいた。ぼぅっとした頭でその日差しを眺めていると、唐突に昨夜の事を思い出して跳ね起きる。


 当然のようにその部屋には私一人。オジサンの姿は既になく、椅子も元の机の下に戻されている。何気なく見つめたその机の上には、何かを書き留めたメモ紙と、万札が数枚綺麗に揃えて置かれていた。



 ――おはよう。


 私はお先に失礼するよ、部屋代やその他のことは済ませてある。朝食は一階のレストランでバイキングだそうだ。しっかり食べて風邪など引かぬよう気をつけて帰りなさい。



 P・S 私はこれでも幾つかの修羅場は経験している。君はまだ若い。お節介かも知れないが、今ならまだ引き返せるはずだ。辛いかも知れないが頑張りなさい――



 そのメモを読み進めるうちにポタポタと雫が幾つも落ちて、文字が滲んで行ってしまう。慌てて拭き取ろうとして擦ってしまい、何文字かはインクが滲んでぼやけてしまう。急いでティッシュを何枚か取り、ポンポンと叩いて水分を取ると、じっとそれを眺めてまた涙ぐむ。


 引き返せるなら……引き返したい。戻れるものなら戻りたい! ……だけど。だけど私はもう――。



 身支度を整えて一階に降り、フロントにカードキーを見せてレストランへ向かう。そろそろ朝食の時間も終わりなのか、人もまばらになっている。適当にサラダとウインナー、クロワッサンをトレーに乗せて、人気のない一角に座って食事を摂った後、コーヒーとオレンジジュースで食後に喉を潤した。


「……ふぅ。いつぶりだろう、こんなにゆっくり食べたの」


 久しぶりの熟睡とゆっくりした朝食に、思わずそんな言葉を知れずに零してしまう。いつものささくれた気分ではなく、本当の一人でゆったりとした時間……。ふと財布に入れたお金とあのオジサンの言葉を思い出し、胸の奥がチクリと痛んだ気がするが、私にはもう選択する余地は無いんだと自覚した途端、足と心の深い場所に大きな鉄の重りが繋がれた気がする。そんな事を考えていると、カバンに入れたスマホにメッセージが届く。


「……なにこれ?」


 そこには何故か『いま』とだけ書いてあり、続きの言葉が届かない。……今どこ? 今何してる? 今……いま……。


 ――ドクン。


 その文字を見つめていると、なぜだか急に嫌な予感がする。何かあったのか?! 慌ててカードキーをフロントに返してホテルを出ると、その足で私と同じ女子たちが居る場所へ向かった。


 向かった先は繁華街の一角。ちょうど広場のようになっていて、沢山の人で溢れかえっている。いつもの喧騒で誰がどこに居るのかわからない。メッセージを何度も送ってみるが誰からも返信はなく、どころか皆未読のまま。不安が募り、周りに居た人に聞こうと声を発しかけた時、悲鳴のように叫ぶ一人の女の子の声がした。


杏子きょうこぉ! 逃げてぇ!」


 それは私から丁度人垣で隠れた方向からだった。思わず振り返って私の名を呼ぶ彼女を見つけようとした瞬間、強い力で誰かが私の二の腕を捕まえた。


楢崎杏子ならさききょうこさん?」

「え?!」




~*~*~*~*~*~*~*~


 


 それは警察による一斉検挙。未成年を売春斡旋していた男たちの内偵が、ずっと進められていたらしい。家出少女やSNSで知り合った私のような女の子たちを使い、半ば強引な手段で売春を斡旋していた彼らは、手を広げすぎていたのだ。人数を増やしすぎたせいで管理が甘くなり、逃げ出した女の子の親が通報したことで全てが明るみに出た。薬を飲まされ、レイプされた彼女達は彼らの言うことに逆らえず、脅迫されて売春を行っていたことを告白する。



 ――結果として私達は、被害者側として保護され事情聴取の後、身元引受人として親や親族を呼ばれ、開放された。久しぶりに会った両親はずっと泣いて抱きしめてきたけれど、うざったいとは感じなかった。





「どうしたの? 何か落とした?」


 警察署を後にし、少し歩いた場所で突然私が俯いたものだから、母が慌てて私を気遣い聞いてくる。


「……ううん、何でも無い。少し疲れただけ」

「そう……。ゆっくり帰ろうね、杏子」

「……うん……ありが……とね、お母さん」

「うん、うん。もう何も心配しなくていいからね、一緒に家に帰ろう。それから――」


 母の温かい手にギュッと掴まれていると、ずっと繋がれていた重りが徐々にほどけてけていく。同時に頬には幾つも涙の筋が出来てしまい、思わず子供のように声を上げて泣き出してしまった。




 ――やっと、帰ることが出来る。……オジサン、私、頑張るよ。起きてしまった事は消せないけれど、私はから。必ずやり直して……いつか……また……。




 ~Fin~ 



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恋の唄 トム @tompsun50

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