桜花の願い

大出春江

桜花の願い

 小説を書こう。


 そう思いついたのは、漠然としたイメージがあるだとか、世に広がる小説を流し見て創作意欲がわいたからだとか、決してそういうわけではない。

 今は亡き彼女が残した小説の骨格を、肉付けし、成形し、服を着せたくなったからである。




 遡ること数か月前、一面の雪景色。


 私とて、亡き者の日記や遺物を隅から隅まで探ろうだなんて、そんなことは思わない。

 だが、生前の彼女との会話をふと思い出したのだ。


「小説を書こうと思う」


 あの日。

 今にも雪虫が飛び始めようかという秋の夕暮れ。

 間違いなく、彼女はそう話した。


 しかし、そんな言葉を思い出したからと言って書きかけの小説なんてものに手を出していいものか。

 内心では、情だの倫理観だの好奇心だのがマーブル模様のように決して混ざりきることなく渦巻いていた。




 そんな感情を抱えたまま、今年の雪解けの頃の話になる。


 雪解けの時期。

 つい数週前まで雪が降っていた空模様は、凍るかどうかのせめぎ合いを制した雨粒を祝うかのように、春を待つばかりの地上に雫を落とした。


 コートが気持ち悪く濡れる。

 隣を歩く友人は不意に駆け出す。

 私は一目散に追いかける。


 駆けた先には彼女がいた。

 あの日の姿を鏡に映したように、正確に。




 私は彼女と語り合った。

 その時、思ったのだ。


 彼女の足跡を、形として残したい。

 彼女は間違いなくそこにいたのだと、証明したい。

 彼女が遺したものを、受け継ぎたい。


 あまりにも傲慢で、図々しく、高飛車な考えだが、そこに自己顕示欲だとかそういった気持ちの悪い自尊心などは一つもなかった。

 ただ、彼女ならきっと


「未練がましいね。でも嫌いじゃない」


 そう言うのだろう。




 前置きが長くなったが、ようやく現在に戻ってくる。


 さて、何を書いたものか。

 もっとも、彼女が残した書きかけの原稿があるのだからそれを加筆、修正すればいいのだが、意外にも筆が進まない。


 一度、筆を置く。

 筆を置くとはいっても、現代らしく原稿はパソコンで書き連ねているのだが、そのような突っ込みは不要だろうか。


 窓の外を覗く。

 桜の蕾が見え隠れし、春の訪れを心待ちにしているようだった。


 


『桜が、心待ちにしているようだった』




 瞬間、吹き出すようにして笑った。

 一人で外を見て途端に笑い出すとは、傍から見れば変人や狂人のそれだろうが、そんな評価も今は甘んじて受け入れよう。


 私は大きな勘違いをしていた。


 彼女の書いた小説は「私と彼女の思い出」を主題として書かれていた。

 二人が恋仲になったあの日から、今までの変遷を思い出すように。


 しかし、その思い出も、主人公の感情も、彼女が思ったままのことを小説として書き連ねているのである。

 そうなれば、私の筆が進まないのは明白だった。


 今は亡き彼女が思っていたこと、感情を先読みして書き上げるだなんて、そんなことは不可能だ。

 この小説を受け継ぐことは、彼女の書いたものすべてを引き継ぐことではない。


 彼女の書いた小説は、彼女からみた私たちの思い出である。

 これから書き上げるものは


「私から見た、私たちの思い出」


 筆を進める。


 彼女から見た、新橋桜がいかにして最後まで走りきったかではない。

 私が、彼女とどう歩んだのか、注視すべきはそこである。


 ハッピーエンドは迎えられそうにない。

 僅かばかりの救いだって、精神的なものだろう。

 惰眠のような、貪るばかりの恋情に違いない。


 それでも、書き連ねることに意味があるのだろう。

 故に、書き上げるのは愛すべき駄作に違いない。

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桜花の願い 大出春江 @haru_0203

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