第8話 登校

「もう一度言っておく、絶対に喋っちゃダメだよ。万が一、その訛りがバレたらとんでもない騒ぎになるから。」

「でも、それじゃあ学校に行く意味なくない?」


 大学が設立された当初の目的は、学者たちが集まり、互いに議論し合う場を提供することにあった。

 しかし、時代とともにその役割は変化し、学校は知識を授けるための施設となっていく同時に、学業から派生する疑問やトラブルに対処する場としての役割も果たすようになった。

 そう、学生が直面する、あるいは自ら見出す問題を解決することも、課題のひとつなのだ。

 その前提が成り立たなければ、家でごろごろしていたほうがましだと、私は考えている。

 しかし、カウンセリングも診療も無事に終わった今なら、法的義務としてできるだけ早く学校に戻らなくちゃならない。それも事実だ。


 先生に指されない限り、授業中ずっと黙っていても誰かの迷惑にはなれないし、勉強を怠っているわけでもない。

 なにも考えずに黙って席に座るがいい。集団生活ってのは、基本そういうものだ。

 でも、放課後となると話は別だ。なぜかと言うと、部活動のルールは全く違うからだ。授業が先生と生徒の交流を通して学ぶものだとすれば、部活は生徒同士が互いに切磋琢磨する場だ。どれだけ逃げまわっても、コミュニケーションからは逃げきれない。

 生徒である以上、部活に参加するの当たり前で、希美も入学早々にサインを出して応募した。

 交通事故が起きたのは入学後の二週目、それからさらに1ヶ月経って猶予期間がとっくに過ぎ、彼女の名前はもう取り消せない状態にある。

 他の部活ならまだしも、よりによってコミュ力が問われる演劇部。

 最悪だ。

 日本にいた時さえ人前で談話する経験ゼロなのに、中国語で演技なんてもってのほかだ。

 第一、舞台に立つようなカリスマ性を持ってない。


「演劇って言っても、ただ演技をするだけじゃないぞ。頑張れ、無理やり辞退しちゃダメだよ。」


 興味を引くように翔はトーンを上げて言う。


「演技が上手いか下手か以前の問題だよ。さすがに無理だって。」


 口を尖らせて言い返す。

 私の大根演技では、ただの笑い芸人になっちゃう。いや、その言い方だと世の中の笑い芸人に失礼かも。

 何より言葉の壁は大きすぎる。


「ふふん、そのうち分かるさ。」

「何それ、気持ち悪い。」


 こうやって勿体ぶった口調もできるってことは、まだ余裕があるだろう。心配して損した。彼を一人にしても問題なさそうだ。

 まぁ、長らく身を引いていた私には、手助けできることなんてないんだけど。


 協力のもとで、希美の交友関係を把握した。

 世間では、男の主観は信用できないとされているが、話を聞いて大体の想像がつくからこれで十分だ。

 媚を売ってくる男子や、クラスの有名人などと交流があったものの、深い仲になったわけでもない。

 友達って呼べる人は僅かひとり。彼女は、入学初日私に話しかけてきたとなりに座る地味な子だ。

 なかなか思考が固い奴で、友達も少ないんだそうと、「陰キャ」、と呼ぶほうが伝わりやすいかなと勝手にそう決めつけた。


 正直「陰キャ」とか「陽キャ」とか二元的な言葉で人を評価するのは嫌い。

 でも実際、モテないのは事実だから。

 そのせいで希美の立場がやや微妙になったらしい。

 下心なしに構ってあげるなんて根は優しいんだね。

 これで仲間が増えたとしても、あくまで少数派。狙われたらすぐ痛い目に合うだろう。

 他の連中と揉めなければいいけどなぁ。友情破綻になるリスクを考えてみると、胃が痛くなってきた。


「ところでさ、恋人の関係を秘密にするって話じゃなかったの?こうやって堂々と肩を並べて大丈夫?」

「俺地味だし、別に大っぴらにしなければ誰も気にしないだろう。」

「……それ、本気で言ってる?」


 その楽天的な考え方にちょっとムカついた。

 私たちは周りの温かい視線を浴びながら、マイペースで通学路を歩いている。

 横から見れば、そこら中にありふれたイチャカップルとたいして変わらないはず。

 この様子だと隠すどころか、晒してるんじゃん。

 まったく、単に鈍感なのか、それともとぼけようとしてるだけなのか、さっぱり。


「君、もっと単純なところを勘違えてない?」

「勘違い?俺が?」

「顔問わず、ただ男女が一緒に歩いてるだけで、もう噂が流れるには十分なんだ。それに、お前は自分のことを言ってると思うかもしれないけど、それは彼女の価値を貶しめるような言い方だと解釈されることもありってことだよ。」

「でも、噂なんて聞いたことが。」

「君たちが付き合い始めたのって5月でしょ?こっちの事情はよく知らないが、同じ中学出身なんだよね?多分その頃から登校の回数が減ったりして、受験生のプレッシャーもあって誰も口外しなかっただけだよ。本当は、もうとっくにバレてるはず。今も片方が休学中だから騒がれてないだけ。上から目線っぽいけど、誰と誰が付き合ってるとか、誰がまた浮気したぁ、とか、そういうネタを噂するんだよ、学生って生き物は。」

「……なんか君のほうが当事者の俺より詳しいね。」

「まぁでも、君のその颯爽とした態度、嫌いじゃないけど。」

「えっ?」

「いや、こっちの話。」


 歩いているうちに、我が校の制服を着た生徒たちがちらほら見えてきたので、二人とも周りに聞こえないように声を抑えていた。

 グループで移動する人数は意外と少ない。皆バラバラになって同じ方向へと進む。

 体操着のまま登校する人もいれば、ワイシャツを履く人もいる。着衣の自由を尊重する校則になっているらしい。何しろ、こんな炎日の中ネクタイを締て、下手したら熱中症になるかもしれない。

 ようやく周りの視線に気づいたか、翔はそわそわと落ち着かないように目を泳がせる。


「教室プレート読めそう?ほら、あの名札のやつ。」

「漢字があればなんとか。」

「じゃあ、ここからは別行動しよっか。」

「誰も気にしないじゃなかったの?」

「そこまで言われて、気が変わった。」

「せっかく私が誉めたのに?」

「いやお前こそどっちだよ?」


 挑発に乗って、不機嫌そうに翔が眉を寄せる。

 ちょっとやりすぎたか。


「私は、どっちでもよいけど。本当の彼氏じゃないし、噂なんてどうでもいい。」

「何食わぬ顔で言うな、薄情すぎるわ。」

「もう、じゃここで少し待ってあげる。先行って。」

「……いいけど。」

「……じゃ、なんだ。行ってらっしゃい。」

「ん、また教室でな。」


 何とかぎごちない掛け合いで交渉成立した。

 遠ざかっていく背中が見えなくなるまで、ほっと安堵の息をつく。

 どうするんだろ、これ。

 アドバイスを素直に聞いてくれて嬉しいのに、なぜか相反する言葉が出てきた。これがツンデレってやつか。彼氏に身も心もぞっこんだね、笑えないけど。

 コントロールのできないずっと引きずっていた感情。

 長く続くと病気になりそう。


 翔が教室に着く時間を計算し、歩き再開する。

 昨日までずっと欠勤し続けていた風が、秋を告げるように朝の賑やかな通りを吹き抜けている。おかげで今日はそんなに暑くない。

 通り沿いの店にはさまざまな看板が飾られている。今はまだ灯っていないが、夜になると景色はきっともっときれいだろう。

 そう言えばかの有名な夜市にまだ行ってないな。機会があれば、一度行ってみたい。


 希美が通う高校は近郊の丘の中腹に位置する。一本道なので、学校に着くまでにはこの険しい坂道を登らなければならない。

 結構きついから、「遅刻だ!」って声をあげて駆け足する人はなかなかいない。全員暗い顔をしたり、足取りも重く、まるでゾンビが群れているように見える。


 校門に入ると、なぜか軍服の人が挨拶をくれた。

 別に恫喝されたりしてないが、怖くて、肩をすくめながら小走りで通り抜けた。すると、「五明高中」と四文字が掲げられている大きな看板が視界に入る。 その奥にはアーチ構造の廊下が広がる。

 一応ここから先は校舎の中となっている。

 事前に得た情報によると、靴を履き替えなくてもよい決まりだそうで、見回すと、案の定そういうスペースは設けられていない。

 朝早くから活動している部活もあるが、大半は吹奏楽部や陸上部といった真面目な部活が中心で、バンドなどの娯楽系は午後になってからか、そもそも学校で練習してないらしい。


 物見遊山気分で景色を眺めつつ、掲示板の案内に従って教室へ向かうと、道中で通したクラスは「組」ではなく「班」と表記されていることに気付く。こうして些細な文化の差を身をもって体験できるのも実にありがたい。

 希美のクラスは五階にある。

 エレベーターは教師専用と書いてあるので、階段を素直に歩いて登るか、何か重そうな書物を持ち運ぶしか利用する方法がない。これから毎日このルート往復するのかと思うと心底げんなりする。


 一年五班の扉前に足を止める。

 ドアノブに手をかざす途端、窓越しに視線が伝わってきた。

 翔からだ。彼はすでに席についてプリントに取り組んでいたが、どうやら集中が途切れたようで。 

 わざと後ろの扉から入って自分を目立たないようにしたにもかかわらず、まさかドアが引き戸じゃなかったと気づかずに、大きな音を立てた上でいつもよりも時間がかかってしまった。

 ヤバい、さっきよりも注目が集まった。


 教室には三分の二ほどの生徒が到着し、三々五々となって世話ばなしでもしている最中だ。自習の時間とは言え、真面目に勉強している人は半分も満たしていない。

 だから、私という団体の異物が入ってくるのがこんなに目立たしいわけだ。


 希美の席は教室の一番奥の最前列で、ここから向かうとクラスメイトの輪を通り抜けなければならない。声をかけるべきだろうか……でも、今は「すみません」ですらどもってしまう。


 迷っていると、ちょうどタイミングよく予鈴が鳴った。これで私の席に陣取っていた連中も自分の席に戻るだろう。

 感謝の気持ちを抱きながらも、自分がいつもしていることじゃないかと思い出し、少し罪悪感を覚えた。


 午前八時から数学の授業が始まる。その後は一時間ごとに、地理、英語、国語、物理などの科目が次々と入れ替わり、午後の四時までやかましい課程が詰まっていた。

 日本にいた時とほぼ同じだが、昼休みが昼食タイムと昼寝タイムの二つに分かれているところが気になる。

 ちなみに、時間を守らない人はかなり多い。

 九時になってトーストを口にくわえたままのほのほと大幅に遅刻する生徒はもちろん、いっそ病欠を装って学校に来なくなった奴だっている。それを目に収めた教師たちは平然と授業を続けているわけで、日常茶飯事かもしれない。


 ぼうっと上の空で数式の解析を聞いていたら、いつの間にかチャイムの音が教室に響き渡り、数学の授業が終わった。

 席が隅っこだからか、さっきはあんなに注目を引いて一時はどうなるかと思っていたのに、想像と違って私の復帰はクラスで話題にならなかった。いや、関心を持つ人すらなかった気がする。


「トイレでも行くか。」


 期待が外れる気分の中で、午前中の授業をずっと心ここにあらずといった勉強ぶりで過ごした。

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演者はムリから あまくさ @agubao

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