第7話 あの日

 9月下旬、確か夕方だった。

 いつものように、学校から少し遠い地域の病院に向かい、すっかり慣れた道をたどって病室に。

 室内にはカビ臭い匂いが漂っていた。


「今日も意識が戻ってないか……」


 ちょっとだけ希美の穏やかな寝顔を眺め、耳元でそっと励ましの言葉をかける。

 医者は、『目を覚ます保証はできかねます』と責任をなすりつけるような説明をくれた。それでもわずかな希望があるならと信じたくて、祈り続けてきた。


 他に頼れる親戚なんて希美にはいない。母親もあんな状態だし、俺が何とかしなきゃならないと強く責任を感じた。金銭的支援を成し遂げなくてもせめて精神的に支えたかったと、今でも思っている。


 だから時間を惜しまずに、毎日学校が終わると真っ先にこの病院へ、三十分ほど過ごしてから帰るのを日課としている。

 どうせ部活にも入ってねえし、放課後遊びに誘ってくれる友達もいないから、自然と見舞いが俺の日常になった。

 とは言え、狭い病室でやれることは限られている。

 希美がいつ起きるかわからない以上、自室でだらしなく寛ぐような真似はしたくない。


 水と花を取り替えて、スマホで小説を一話読んだどころで、面会終了の知らせが届いた。

 人手不足だろうか、今頃こういう通知はアプリや短信を利用する傾向が強い。

 このまま居座ると迷惑だし夕食の時間も過ぎちゃうからこの辺にしようと思い、俺は席を立とうとしたその時に。


「希美?」


 嘘。

 今、目が開いたでしょ?

 わずか一瞬だけど目が動いた。

 最近疲労がたまっているせいでただの見間違いかもしれないが。

 ……

 また動いた。今回は紛れもない。


 どうしよ?

 いざこういう時になると、逆に何を言えばいいか分からなくなって言葉が詰まる。

 あぁ、涙が溢れ出そう。


「……よかった!まじで……無事でいてくれて。」


 気が付くと、目の前にいる華奢な肩を強く掴んでしまった。

 やばい、ちょっと興奮しすぎたかも。回復に悪影響が出たらよっぽどまずい。

 理性とまっ逆な行動を取っていると分かりつつ、どうしても制御できない。

 だって、人生初めてできた彼女なんだよ。まだまだ子供だと散々大人にからかわれる高校生現役として、恋人は「家族より大切に思う特別な存在」という未熟な感情を抱くのも仕方がないことだと思う。


 話したいことはたくさん。

 高校生になっていろんな初めてを身につけたこととか。

 小テストでいきなり20点だったりとか。

 変な先輩に怪しい部活に引っ張られかけたりもした。

 早く語り合いたいと切望し、なんにも考えられなくなって、頭が真っ白で、冷静にもなれなくて。

 とにかく、『おかえり』って一言だけは伝えようと、深く息を吸い、俺はやっと冷静になれた。


 そうこうしてテンパってる間に、希美はきょろきょろと周りを見回し始めていた。

 ずっと彼女を見つめていたから、目が合うのは時間の問題だけ。

 やがてその視線は俺の顔に釘付く。

 久しぶりに拝見させてもらったその揺らめく瞳に宿っていたのは恐怖だと気づいた。ちょっと驚かせちゃったかもだけでは済まない違和感がする。

 雰囲気がいつもと違う。どこが違うと言うと、本当に希美なのか?そんな馬鹿げた疑問が浮かぶほど別人のように感じる。見慣れたはずな顔もただの他人として見えてしまう。

 自分を責めながらも見れば見るほど疑念はどんどん深まっていく。


「おかえり,体の調子はどうだ?」


 不安げな問いかけを聞いた希美はただ不思議そうに首をかしげる。

 中国語で話したのに、まるで全然理解できないようなその仕草に、嫌な予感しかない。


 抑えきれない衝動に駆けられ、柔らかい体を即座に抱きしめ、そっと頬に口付ける。

 さっきの行動よりもさらに一線を越えてしまっていることは承知の上だ。しかし、こうしなければ何かが消えてしまう気がして、体が勝手に動いた。


「ぐっ……」


 相手は何の反応も見せなかった。

 いや、全く無反応なわけではない。むしろ、何かを我慢しているようで、嫌そうに目を細めている。


 俺は一体何をしてるんだ?自問しても答えがわからない。

 本来ならすぐにでも医者を呼ぶべきなのに。受ける側の気持ちも考えず、自分だけ喜びに浸って自己満足して。


「ごめんな。」


 どうにか絞り出した、謝罪の言葉。

 それに対して希美はまだ寝起きのぼんやりとした表情で、不気味に口角を上げる。しばらくすれば元に戻ればいいんだが、と俺は再び願いかけた。


 ***


 認めたくはなかった。

 そんな俺は簡単に潰されていた。

 最悪の事態を想定し、何とか逃げ切れたと思っていた。でも、今の状況はそれ以上か以下かは断定しがたい。

 もう三日だ。嫌でも認めざるを得ない。


 おそらく希美は記憶を失っている。

 彼女はもともとこんなに無口な性格ではなかったはずだ。まるで三歳幼児のように……いや、三歳幼児ですら今の彼女より口数が多いだろう。

 何を言われようとも、戦々兢々としている。

 その代わり、顔に感情がよく乗れるようになり、喜怒哀楽が分かりやすいというか、裏表がない性格になっている。前はもっとミステリアス主義で一歩引いていた感じだったのに。

 一方で、着替えや身支度など日常生活においては特に支障はなく、体的には異常なしであるとされている。

 原因については今んとこ調査しているということだ。彼女は誰ひとりの顔もわからないままで、悲しいことに、たとえ生き残った母親の写真を見てさえ微動だにしない。


 担当医は言った。

 こんな不思議な症状を目にするのは初めてかもだぞと。

 今すぐでは打開案を提示できかねますと、かなり苦戦しているらしい。


 俺は諦めなかった。

 三日かけてあらゆる方法を試し、少しでも記憶を甦させようとした挙げ句、結局どれもうまく行かず、完全に打ちのめされてしまった。

 とにかく、一時的にでも見知らぬ人として接するように気持ちを切り替えようと。ちょっと悲しいけど、俺一人では手も足も出ない事態となった現実を受け止めた。


「おはようございます。」


 こくり、こくりと頷いた。

 よし、今日も元気そうで何より。

 病室に入ると、花のような笑顔が俺を迎えた。

 いつもより一生懸命うなずくその様子も、いつの間にか愛おしく見えてきた。

 自分で言うのもなんだけど、さすが俺の彼女だけあって、今日も今日とて可愛い。

 軽く雑談でもしようかと思い、折り畳み椅子に腰かけると、こっちから話題を振らないといけない状況に迫った。

 気まずい。

 弱った。相手が話せない場合はどうしたらいいか、高校の教科書には載ってないな。  

   

 思えば、相手も一応花の高校生なんだし、あまり近寄りすぎるとまずいだろうと、俺は椅子を後ろの方へ数ミリ引いた。

 あぁ、見つめられて不快になることもあるだろう。どうする?背を向けたほうがいいのか?

 この角度、なんか盗撮してるみたい。

 急いでスマホをポケットに入れると、今度はすることがなくなる羽目に陥る。

 まったく、ドタバタして情けない。

 そいえば、昨日もこんな感じだった。

 やっと異性と普通に接するようになったと思ったけどさ、まだまだ改善の余地がありそうだ。  

 あの時、希美が最初に声をかけてくれなかったら……ダメだ、ネガティブな思考回路に落ちるわけには。


「E...Excuse me.」

「......Go on.」


 突然話しかけられて、反応が一瞬遅れた。

 しかも、まさかの英語。英語か……ん?

 潮水のように思考が頭の中をぐるぐると巡り、背筋にぞくっと寒気が走る。


 この訛りには聞き覚えがある。

 その後、もう少し英語で会話を交わし、さらに確信が深まった。

 こんな展開に腐るほど馴染む俺である。

 アニメオタクとして、この甘々なシチュエーションを一度も妄想したことがないと言ったら嘘になる。あいにく、つい最近彼女できたばかりなんで、この幸運をおいしく楽しめるわけにはいかないのだが。

 いずれにせよ、交流がうまく捗った事実は大きい。

 最初の一歩を踏み出すなら、今がチャンスだ。


「もしかして日本人なんですか?」

「えっ?」

「えっ?ごめん違うの?」

「いえ、違わない、と思う。」

「本物?」

「あっ、ん、本物。」


 今、なんだって?

 元の希美はどこいった?わからない。なにが起きているかがわからない。

 直感に従って聞いてみたら、まさかの的中だったのだ。


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