第6話 注音について

 ある国の文化を理解するには、その国の言語から始めるのが一番手っ取り早い。

 そして、新たな言語を学ぶには、環境を整えることがもっとも効果的で一般的な方法。

 英語の先生はかつてこう言い張った。

 もし世の中は言葉通りに楽勝ならば、教師という職業は必要ないだろう。

 現実はそう甘くない。

 勉強を怠れば赤点を取るし、磨かなければスキルも錆びつく。

 上達するために、相応の努力を払うこそ世界の法則。そこに近道などない。

 努力はした。張り切って頑張った。

 だからこそ、ようやく出来るようになった時に達成感が得られる。


 退院後の観察期間が終わり、明日からは学校へと通う日が戻ってくる。

 正直なところ、今まで学んだ中国語では、コミュニケーションはおろか、言ってる意味を理解することすらままならない気がする。まぁでも、始めてからまだ一か月も経っていないし、こんなものかもしれない。


 この数日間、これといった出来事は特になかった。ラブコメにありがちなキュンキュンする展開なんてもちろん皆無。二人きりになっても彼はいつも通りの澄ました顔で最低限の会話だけ交わす。たまに私の勉強を手伝ってくれることもあるけれど、嫌になるくらいに穏やかな日々が続いている。


 男の子って、四六時中女の子にスキンシップを求めるものだと確信してた。

 だが予想に反して彼はとても紳士的で、よく気を遣ってくれた。太もも辺りに多かれ少なかれ視線を感じる時もあるけれど、まだ許容範囲だと思う。いや、逆にやばいかも。

 どうしてこの子が持っているショートパンツはどれもこんなに短いの?これじゃミニを履いているのとほぼ変わらないじゃん。


「それは、熱いからだろう。オーバーサイズのTシャツにショーパン、足はスリッパというスタイルこそ台湾ならではのファッションだよ。」


 と翔は自分の意見をこう述べたが、なんだか彼の性癖が混じってて納得がいかない。


 でも、心のどこかで彼の言うことも一理あると思っていた。

 何日か観察してわかったことは、台湾人にとってファッションが持つ意味は、日本と微妙に異なるということだ。

 ファッションは自分の個性やセンスを表現する一つの手段で、時好を追う人もいれば、その日の気分で服を選ぶ人や、仕事のために服を着る人もいる。

 それでも『どんな場面でどんな服を着るか』というルールに従うポイントは同じ。

 たとえば、旅行に出かけるとき、ゆったりした服よりも雑誌で紹介された服を着たくなる。友達と遊びに行くとき、自分だけ浮いてしまわないかついつい考えてしまう。

 ここでは違う。

 統一性が見られない。スタイルは存在しない。道を歩く人を見れば、彼らの服装には一貫性がまったくないことに気づく。装いよりも、個性や実用性のほうが重要視されている。Tシャツの人とスーツの人が同じ会社に入る。頭にヘアカーラーをつけたまま街へ出る生徒だっている。


 これだけ言っても、どうせ当分の間制服以外の衣装を着る機会はないだろうし、まずは目の前の勉強に集中しようと考え直した。

 今日の宿題は、「ㄧ」「ㄨ」「ㄩ」の発音を覚えること。この三つは常に中間の位置を占めるため「介音」とも呼ばれる。紛らわしい形をしているので時々仮名と混同してしまうこともあるが、学んでいて新鮮でわりと興味深い。

 発音の位置、主に舌の動きに基づいて作られた記号、いわゆる拼音ピンインは、二十世紀初頭に中国全土の識字率を高めるために作られたシステム、韓国語の仕組みとよく似ている。韓国語を少し学んだことあるからその共通点に気づくのも早かった。

 そもそも注音符号という発想は、漢字の篆書てんしょを作り直すことから生まれたと記載されており、概念自体も日本語の仮名を参考にしているらしい。

 だからこそ、『まるで幼少期に戻ったような』気持ちが湧いてくるのだ。


 体の影響かどうかは分からないが、私の学習速度はまさに驚異的としか言いようがない。教科書の内容に従って長い文章を話すたび、自分で仮名をふって丸暗記しただけなのに、その発音があまりにも正しくて、翔でさえ驚いていた。

 おそらくこれはマッスルメモリーによるチート行為のひとつだろうと。口の形を制御するより、むしろ口の筋肉が発音を導いているような感じが強い。はじめは速くて複雑に聞こえた文も、だんだんと模倣できるようになってきた。


 まるであの猫型ロボットのこんにゃくを食べたような違和感。ただ違うのは、脳の理解が追いついてらんないことだ。身体は自然に反応したとして、意識はまだ『分かるようで分からない』段階にとどまり、そこが問題なのだ。


「外国人がこんなに早く今のレベルに到達することはないぞ。せめて、俺の知っている限り無理だ。ネットで中国語を教えている友人に相談しても、ただ『どういう冗談?』と聞き返し、結論なんてなかった。」


 真顔で私を見て翔が続いて言う。


「なら明日の復帰は大丈夫そうじゃない?」

「まだ不安なんだけど。」

「いざとなったときに俺がいるから。」

「なおさら心細くなった。」


 謎の自信はどこから?って聞いても答えをくれる人はいない。

 心の中でぼそぼそ愚痴りながら、子供向けの教科書に意識を戻した。


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