あるいは幸運なミステイク

尾八原ジュージ

うっかり

 魔法なんかもう百年くらい使ってないから、使い方すら忘れていた。ところが今日、大きなくしゃみをしたはずみにうっかり魔法が暴発し、目の前に座っていた恋人が一瞬にして魚に変身した。

 恋人はガラステーブルの上に落ち、鰓をひくひくさせて苦しそうにし始めた。わたしは慌ててキッチンに走り、しかし水槽なんかないから手鍋を出して、水道水を注ぐ。そこに入れてやると、とりあえず死なずには済んだらしい。

 恋人は尻尾をひらひらさせて手鍋の中を泳ぐ。なんという魚かわからないけれど、一応淡水で生きていけるようだ。人間だった頃より若干かわいらしい。そしてずいぶん無害である。

 さて、これをどうするか。わたしは考え込んでしまう。だって、百年ぶりの魔法なのだから、解き方なんか覚えていない。

 飼い猫が鍋の中に前脚を入れようとするので手鍋の蓋を閉め、わたしはホームセンターへと走った。魚にしてしまったからには、魚の姿のまま延命させるしかない。水槽やらポンプやら必要そうなものをあれこれ買い込み、レジに並びながらふと(魚を飼うってなかなかお金がかかるものね)と考え出すと止まらなくなった。わたしの財布からお金を抜いてガールズバーに通い「別れるから出てけ」「やだ出てかない」なんて話をしていた男のために、まだ金を出してやらねばならないのか――などと思いを巡らせているうち、どうにも鼻がむずむずし始めた。

「――ブアッショイ!」

 大きなくしゃみが出た。

 その途端なにかしらの魔法が暴発して、わたしはどうしてホームセンターに来たのかさっぱり忘れてしまった。なんで水槽なんか買おうとしてたんだっけ? どう考えてもわたしの生活には必要なさそうなので一式売り場に戻し、代わりに洗濯洗剤の詰め替え用パックと猫の爪とぎを買って帰宅した。

 家に帰るとリビングのテーブルの上にはなぜか手鍋が置かれている。持ち上げてみると水が入っているらしい。じゃあ味噌汁でも作っとくかと手鍋を火にかけ、葱など刻んでいると鍋が何やらゴトゴトと騒々しい。何だろうと手を伸ばしかけたが、そこに電話がかかってきた。

『すみません。市役所の魔女課の者ですけども、さっき魔法、使いました?』

「あっ、くしゃみをしたらつい。出てしまって」

『困るんですよね。魔法使うときはちゃんと事前に申請してくださいね』

 五分ほど説教された。

 さて、ようやく電話が終わり、わたしは味噌汁の調理に戻る。葱と茸を準備し煮立った鍋の蓋を開けると、なぜか魚が一匹煮えている。

 はて、どこから湧いた魚なのだろう? なにか大事な事情があったような気がするけれど、どうしても思い出せない。

 とにかく、煮てしまったものは仕方がない。深く考えないことにしてわたしは葱と茸と顆粒出汁を追加し、もう少し煮たのち味噌を投入した。味見してみると、旨い。実に美味だ。魚の出汁がよく効いている。なんという魚か、どうしてここにいたのかわからないけれど。

 でもとても美味しいのでまぁ、いいということにしてしまおう。よくわからないけど今日はハッピーなアクシデントがあったのだということで、わたしは味噌汁を食べ、ほっこりとした魚の身をつつく。飼い猫はなんだか難しい顔をして、食事をするわたしをじっと眺めている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あるいは幸運なミステイク 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ