第5話 失敗

「──ル」


 意識の遠くから、微かに声が聞こえる。


「ん、んぅ」


 まどろみは深く、ミルカは意識の狭間を彷徨う。


「──リル!」


 誰かを呼んでいるのだろうか。自分のものではないその名を、ミルカはぼんやりとその脳みそで受け止める。自分は何をしているのだろうか。心地よい気分だが、それと同時に嫌な胸騒ぎも消えてはくれない。

 覚醒しなければならない。そんな予感が次第に大きくなっていく。しかし、自分の力では眠りの蓋を開けることができない。誰か──


「ネリル!」

「はっ!」


 どうやら、いつの間にか眠ってしまったらしい。時計を見ると記憶が三十分程度欠落している。

 目の前のテーブルには、やかんとぬるくなってしまった飲みかけのコーヒーが一つ。これを飲みながら眠ってしまったということか。それより、


「ネリル! 大丈夫!?」


 この声で自分は起こされたのだろう。それは応接室の方から聞こえてくる。内容からして、何かがあったということか。でも、一体何が。

 とりあえず行くしかない。ミルカは席を立ち、応接室の扉を開けた。


「どうかなさいましたか?」


 夫婦に問いかけながら、視線はネリルへ向ける。その額には脂汗が浮かんでおり、顔は赤く染まっている。


「先生、ネリルが急にうなされだしまして……」


 その言葉通り、ネリルは苦しそうに声を喉から絞り出していた。起きているわけではなく、まだ意識は夢の中のようだ。そう、まるで悪夢を見ているかのように。

 悪夢を……。


「……ネリルさんが悪夢に悩まされているとおっしゃっていましたが、普段もこのように?」

「はい……程度の違いはあれど、毎晩のようにうなされています」


 おかしい。いや、おかしくはないのか。ただ、ミルカの能力が効いていないというだけの話だ。

 しかし、今までこんなことはなかった。どんな欲望だろうと、夢として見せることができた。それは、術後の患者との会話でわかる。

 それだけネリルの悪夢が強すぎるということか。もしくは、ミルカと似たような能力で、誰かに悪夢を見せられている? だが、同じような夢使いにはあったことがない。それでも、ミルカという存在がいる以上、他にいないなんていうのは楽観的な妄想だ。

 真偽のほどはわからない。それでも、ミルカが失敗したという事実は確かだろう。


「ネリルさん、ネリルさん」


 とりあえず、このままではいけないとミルカはネリルの肩を揺すって呼びかける。三度ほど繰り返した後、ネリルはゆっくりとまぶたを開いた。


「はあ、はあ……」

「ネリルさん、大丈夫ですか?」


 ネリルはうつろな目線をなんとかミルカに合わせ、コクリと頷いた。呼吸が荒い。

 ミルカは急いで水を用意して差し出す。喉が渇いていたのだろう、コップの中身は一瞬で空になった。


「どんな夢を見たか覚えていますか?」

「…………怖いものに追われてるの。ずっと……ずっと……」

「そうですか……今までも?」

「はい……」


 やはり、処置は失敗していた。ミルカは内心大きく動揺するが、それを表に出さないようにして口を開く。


「申し訳ありません、失敗です。わざわざお越し頂いたのにお力になれず。お代は結構ですので」

「そんな……どうにかならないでしょうか」

「母さん、落ち着きなさい」


 おじいさんがおばあさんを落ち着かせる。

 心は痛いが、通じなかった以上ミルカにできることはもうない。


「申し訳ありません」

「そうですか……ありがとうございました。また別の方法を探します。お世話になりました」


 帰りましょう、と夫婦はネリルを連れてミルカの家を後にした。

 助けられなかった。

 他の欲望にまみれた患者達であれば、仮に失敗してもなんとも思わなかっただろう。

 でも、彼らは違うのだ。孫を助けるために、救いを求めて頼ってくれたのだ。しかし、それに応えることができなかった。それも、これが初めての失敗だ。

 今まで感じたことのない悔しさが、ミルカの胸を支配する。しかし、その感情をどこにも吐き捨てることができず、苦みで上書きしようと冷め切ったコーヒーを一気に流し込むのだった。



「ふーん、なるほどねえ」


 テーブルを挟んで向かい側に座るフレンカは、頬杖をついて唸った。左手には、ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーが握られている。

 ネリルと夫婦がいなくなってから少しして、いつものようにフレンカが訪ねてきた。もやもやが晴れなかったミルカは、先ほどの出来事を話した。


「でも、珍しいね」

「そもそも初めてだからな。能力が通じなかったの」

「いや、そうじゃなくて」


 フレンカはカップを置き、頬杖を両手に変えた。そして、ミルカの方をじっと見る。

 こんな風に見られると、奥の方まで見透かされている気持ちになる。実際は、ミルカの表情を観察しているだけなのだろう。もしかしたら、思った以上に落ち込んだような表情をしているのかもしれない。


「こうやって、仕事のことを相談してくれるの」

「……そうかもな」


 確かに、ミルカは普段あまり仕事のことを話さない。それはそもそも、ミルカ自身があまり仕事の内容が好きではないというのが大きい。さっさと頭から取っ払いたいのである。

 結局話すことが自分のためにならないから、取り立てて話題にすることはない。フレンカも聞いてくることはない。


「その子、そんなに危ない感じだったの?」

「今日初めて会ったから、変化はわからない。でも、弱っているようではあった」

「悪夢でどんどん身体がねえ……」


 病は気から、ということなのだろうか。普通ならば、悪い夢をみたことで体にまで直接的な影響が及ぶとは考えにくい。精神はやられるかもしれないが。

 だが、夫婦の話では実際に体が弱っているのだという。一緒に暮らしている家族が言うのならそうなのだろう。


「なんで効かなかったか検討はついてるの?」

「いや、さっぱり」

「でも、助けてあげたいと」

「まあ、そうだな」

「じゃあまずは、原因を探るところからだよねえ」

「フレンカは、何か心当たりは無いか? そういう情報を得られそうなところ」

「うーーーーん……町の図書館とか? でもなあ。ミルカの能力ことが載ってる本なんて正直あるとは思えないよねえ」

「そうだよな……」


 なぜネリルという少女にミルカの能力が効かなかったのか、その原因がわからないと対処のしようがない。

 結局まともな解決策も出ないまま、その日は終わりを迎えた。

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夢師ミルカ 新多まとい @yuuuurinti

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