第4話 ネリルの来訪
その日は一つの予約が入っていた。電話の主は人の良いお婆さんといった感じではあったが、実際に処置をして欲しいのは孫らしい。
なんでも、悪夢に悩まされているという。望む夢を見せることができるミルカの話をどこからか聞いて、治るかもしれないと電話をしてきたのだ。
とはいえ、ミルカは特に準備をすることもない。頭に手をかざして念じる、そして寝てもらうだけだ。特別な器具などは必要が無い。
「飲み物の準備くらいはしておくか」
お孫さんはコーヒーを飲めるだろうか。そんなことを考えながらマグカップを人数分並べてやかんを火にかける。ジュースなどがあればよかったが、ミルカ自身が普段コーヒーしか飲まないため用意がない。砂糖をたっぷり入れればなんとかなるだろうか。最悪水だな。
そのとき、玄関のドアがコンコンとノックされた。時計を見ると時刻は午後三時。予約の時間ぴったりである。
「はい。今でます」
扉を開けると、そこにいたのは老夫婦だった。おそらく女性の方が予約を入れてきた声の主だろう。そして、
「先生、お世話になります。ほらネリル、ご挨拶して」
「……こんにちは」
促されて夫婦の後ろから顔を見せたのは、およそ十代前半くらいの年齢だろうか、白い長髪を携えた少女だった。
応接室に三人を通し、コーヒーを出す。
「どうぞ。お口に合わなかったら申し訳ありません」
「ありがとうございます。いただきます」
併せて、砂糖のポットも側に置いた。ミルカはすっかり慣れてしまったが、安いインスタントコーヒーである。仮にコーヒーが好きでも口に合わない可能性は十分あるのだ。そのときはどうにか砂糖でごまかしてもらうしかない。
どうやら、夫婦はともに問題なく飲めるようだ。しかし、少女は口をつける気配が無い。
「ごめんね。うちにはこれしか無いんだ。苦かったら砂糖を入れてね」
少女の反応はない。ずっとうつむいたままである。
改めて、患者である少女を観察する。髪の毛が真っ白であることを除けば普通の女の子である。少し痩せてはいるかもしれない。
そして、目の下の隈。おそらく電話で言っていた悪夢とやらの影響なのだろう。あまり眠れていないのかもしれない。
ミルカは考える。たしかに一度は良い夢を見せることはできるが、それは決して永続的なものでは無い。明日にはまた元通りになってしまう可能性が高い。
そういえば、悪夢を見ないための処置というのはこの仕事を始めてから初めてかもしれない。ミルカの元を訪れる人というのは、自分の欲望を叶えたいだけの愚か者ばかりだ。
そもそも、患者の絶対数が少ないのだ。宣伝しているわけでも無し。人づてに話しを聞き、にわかに信じられないようなその噂に金を出そうと思える人だけがやってくる。料金も安くはないので、月に数人客を取れば暮らせるくらいの収入になる。
「では、詳しい話を伺ってもよろしいですか?」
今後がどうであれ、ミルカとしては処置をするだけだ。術後保証なんてものはサービスに含まれていない。
「はい……」
口を開いたのは、旦那さんの方だった。
「この子……ネリルというのですが、ずっと悪夢にうなされているんです。悪い夢を見るくらい誰だってあることなので最初は気にしていなかったのですが……」
どうやらこういうことらしい。ネリルというこの子があまりにも悪夢にうなされ続けるので、心配になって病院にも連れて行ったが解決しなかった。
夫婦は解決手段を持たないので見守ることしかできなかったが、治まる気配がない。それどころか、ネリルは日に日に弱っていくばかり。悪夢の影響が表面化し始めたのだ。
このままでは良くないと情報を集め回ったところ、夢を操るミルカの話しを聞き、藁にもすがる思いで訪れたと。
「話はわかりました。望む夢を見せることは可能です。ですが、それはあくまで一時的な処置に過ぎません。悪夢が無くなるわけではないと思います。それでもよろしいですか?」
「はい、お願いします」
夫婦は頭を下げる。話をした僅かな時間だけで、二人がネリルのことを想っているのが伝わってきた。
ここまで愛されているネリルという少女は、一体どのような幼少期を過ごしてきたのだろうか。
連れてきたのが両親ではなく祖父母という点が少し引っかかったが、家庭環境は様々である。赤の他人であるミルカが気にすることではない。ネリルが祖父母に愛されているというのは事実なのだろうから。
「それではネリルさん、こちらのベッドに寝てください」
ミルカは応接室に置いてあるベッドへと誘った。基本的に、診察も施術もまとめて応接室で行うようにしている。
ネリルは夫婦にも促される形でベッドへと横たわる。
「それでは、始めます。目を閉じてください」
「あ、あの……」
直前で、先ほどまでずっと黙っていたネリルが口を開いた。
「なんでしょうか?」
その問いかけには答えず、ネリルはゆっくりと夫婦の方へと目線を向ける。二人は、頑張ってとでも言うかのようにその視線に頷いて応えた。
「……いえ、何でもないです」
一体何だというのか。おそらく言いたいことがあったのだろう。しかし、夫婦を見てそれを口に出すのが憚られた、そういう風に見えた。
気になるところではあるが、そこを追求するような関係性ではない。
もしかしたら不安があるのかもしれない。なにせ、好きな夢を見せるなんて理解できなくて当然である。口でいくら説明しても意味はない。体感することで納得してもらおう。
「では改めて」
目を閉じたネリルの額に、ミルカはその右手をかざす。
「頭の中に、見たい夢を思い浮かべてください。明確で具体的であるほど理想に近づけるでしょう」
右手が熱を帯びる。能力を使うときはこうなるのだ。視覚的には変化はない。
ほどなくして、ネリルが静かに寝息を立て始めた。夢の世界へと入っていったのだろう。
ふぅ……と一息つき、自身の額の汗を拭った。
「これで施術は終了です。あとは、このまま寝かせてあげてください」
「ありがとうございます」
安堵の表情と共に、夫婦は揃って頭を下げた。それに心の中で返事をしつつ、ミルカは応接室を後にする。
やったことはいつもと変わらない。患者が特殊ではあったが、だからといってミルカにできることは一つだけだ。問題ない。
「……甘いコーヒーが飲みたいな」
目覚めるまでの時間は人によって違う。三十分程度で起きる人もいれば、数時間眠りこける人だっている。夢の中での時間の進み方というものは、きっと現実とは違うのだろう。密度だって様々だ。だから、ミルカにできることはもう何もない。待つだけだ。
砂糖のポットを応接室に置きっぱなしにしてしまったことに気がついたが、だからといってあの空間に風を吹き込む気にもなれず、ミルカはやかんを照らす火をぼうっと眺めていた。
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