この街のどこかで…

小林汐希

『この街の何処かで』




「うん……、今日は空気も澄んでいてよく見えるなぁ……」


 いつもの時間、いつもの場所。私はコンクリートの地面に腰を下ろして空を見上げた。


 とある建物の屋上。私だけの秘密の場所。そこからは見下ろす街も、見上げる月や星も、私が日々神経をすり減らしながら惰性で生きている世界と同じとは到底思えないほど綺麗に映った。だから私はここにいる時間が大好きだった。どんなに冷たく汚い世界でも、ここから見れば美しく見えたから。


 そこがどこかって? 本当は私なんかが入れる場所ではない。だって、私の秘密の場所は5階建てのマンションのコンクリート打ちっぱなしの屋上だもん。


 でもここからなら、遠くまで広がる街灯りを見下ろすのも、空の上に輝く月や星たちを見上げるのにも妨げられるものはない。


 さっきも言ったけれど、高校2年生になるの私、平松ひらまつ千里ちさとが一人で来ていい場所ではない。この屋上には落下防止の柵などはないからね。


 たまたま、私のお家の玄関の並ぶ廊下の奥、隠れたところに、屋上に上がる梯子があって、その上にある点検口のカギが壊れているのを見つけてから、この時間の屋根上は私の秘密の場所になった。


 高校2年生……とは言ったけれど、私は学校には行けていない。そもそも「高校生」でもない。



 なぜなら、私がいつ消えてしまうかなんて分からないのだから。


 あまり思い出したくないことだけれど、小さな頃から体は丈夫じゃなかったから、学校に行っていても、一緒に遊んでくれる友達はほとんどいなかった。


 それでも、中学3年生までは一生懸命に学校に行っていたんだよ。両親にこれ以上心配させたくないと思って、登校拒否になるのは何とか避けたかったからね。


 でもね、その中学最後の3学期、私は学校で記憶が途切れた。


 後で聞いた話によれば、救急車で病院に運ばれたって。気が付けば白い天井を見上げたベッドの上。


 共働きでこの時間に帰ってきているはずのないお父さんとお母さんが私の顔を見下ろしていた。


「千里!」


 二人の声と表情を見たとき、私は瞬時に悟ってしまった。


 もうこの時間も長くは続かないないのだと……。


『千里さんには、これからの時間は好きなことをさせてあげてください』


 これが、両親に告げられたお医者さんからの言葉だったって知ったのは、もっとずっと先の話。


 だから、私の高校受験はなくなって、一応に言えば「高校2年生」というわけ。


 でもね、両親は分かっていても、この年の私が平日の昼間に外を出歩けば、「学校はどうしたの?」という声が容赦なく飛んでくるし、そうでなくても周囲の視線だって同じようにゾッとするくらい冷たいんだ。


 だって、ちゃんとお医者さんから『好きなことを』と言われているんだ。


 理解してもらえないなら仕方ない。いつしか世間の視線や考え方なんてそんなものなのだと思うようになっていたよ。



 そんな事も重なり、私が昼間に公に外出することはほとんどなくなって、月に数回の通院の時だけに。


 好きなことをと言ったって、現実の世界では難しい。だから、平日昼間の私はお家の中で空想にふけることが多くなった。


 机の前で、自由に空想を広げて、それをノートに綴っていく。これならば、誰の迷惑にもならない。


 そして、夜になって両親が仕事から帰ってくるまでの時間をこうして屋上で過ごしている。もちろんバレたら大変だから腕時計のアラームは必須。


「あの星空に連れて行ってもらえるのは、いつなのだろう……」


 本音を言えば、まだやりたいことはいっぱいあるよ? でも、私にはそれを全て叶えられるだけの時間も力も残されていないことは分かっている。


京介きょうすけくんは、元気なのかなぁ……」


 いろいろなことが頭の中に渦巻いていく中で、ふと浮かんできた名前を口に出してしまった。


 ほとんどいない友達の中で、中学1年の時に出会った新橋しんばし京介きょうすけくん。彼も引っ越してきたばかりで、友人を作るのに苦労していた。保健室で休んでいた私と話すことになってから、私たちの距離が近くなった。3年のあの日だって、一番最初に私の事を介抱してくれたのは京介くんだって。


 でも、私がこんなことになったからね……。


 彼はきっと今頃私の知らない高校生活を送っているだろう。


 確かお家の都合でこの街から1時間ほど離れた街に引っ越しているはずだ。


 そんな彼の生活を邪魔しちゃいけない。きっと私の事も忘れているに違いない。


「でも、一度会って、お礼を言いたい……。それで十分かなぁ……」


 それが、この屋上で夜空を見上げている私の最後の目標になるなんてね……。





 世間は夏休み。朝、私は出身の中学校で、当時の担任の先生と面会をしていた。


「久しぶりだな。探しておいたぞ。これが新橋の新しい住所だ」


 先生からメモを渡される。


「夏休みなのに、わざわざすみません」


「平松、まだ人生はやり直せる。今回みたいにいつでも頼って来いよ」


「はい。その時はまたよろしくお願いします」


 きっと、は来ないことを、今の私は覚悟している。


 今日もこれから暑くなりそうだ。麦わら帽子を合わせた白いワンピース。なんだか病院の入院服に見えなくもない。


 スマホで住所を打ち込むと、やっぱりそうだ。ここから1時間ほどの場所だ。


 でも、京介くんには私が訊ねていくことを話していない。


 それでもいいんだ……。不在なら、鞄の中に持ってきたものをポストに入れて帰ってくればいい……。




 電車に揺られて着いた、初めての街。それでもスマホの地図アプリを使って、それほど迷うこともなく、目的の場所に着いた。


 「新橋」とある玄関のインターホンのボタンを押そうとしたとき、ふと怖くなって押せない。


 そうだ、彼は私の現状を知らない。いきなり押しかけても迷惑なだけだよね……。


 何も考えていなかったことに、我ながらバカだなと思った。


「やっぱり、帰ろう……」


 そう思って、再び駅に向かって歩き出した時だった。


 私の手をグイッと後ろに引っ張る感触で足を止める。


「おまえ、平松千里だろ? 急にどうしたんだよ?」


「京介くん……」


「暑いから中に入ってよ」


「うん……」


 私は、京介くんのお家に招かれることになった。





「……そうか、あれからそんな事になっていたんだな……」


「ごめんね、何も知らせずに急にそんなこと言われても困っちゃうよね」


 エアコンで涼しくしてもらった部屋で、私は今の自分の状況を話した。本当は誰にも話せないようなことなのに、京介くんにだけなら、素直に話すことができたのは、私自身も不思議だった。


「そんな状況の中で、わざわざここまで来てくれたんだな。この暑さも大変だっただろう。帰りは送っていくよ」


 やっぱり彼は変わっていなかった。


「少しずつ出来ることがなくなっていく。でも、『ありがとう』だけは伝えたくて……」


 誰もいない秘密の屋上。そこで空を見上げながら、私に出来ることを探していたんだ……。


「お願い……。病院に連れて行ってくれる……? 誰にも、これ以上は迷惑をかけたくないから……」


「……分かった」


 タクシーに一緒に乗せられて、私は京介くんと一緒にいつもの病院に向かった。






『今年の新人小説大賞受賞者は、新橋京介さんです』


 出版社に招かれての発表会。


 スーツのポケットの中に入っている写真付きのキーホルダーを握りしめる。もちろん、その写真の被写体は一人しかない。




 あの後、タクシーで病院に着いた時には、息も絶え絶えになっていた千里の手を病室で握り続けた。


 それでも何かをやり遂げたように、「大丈夫、心配いらないよ」と僕に何度も繰り返した。


 千里は『最後の覚悟』をして、僕に感謝を伝えに来た。その感情は僕も全く同じだった。彼女がいてくれたから、僕は中学の生活を、そして高校生活も送ることができたのだから。


「京介くん、もらってほしいものがあるの……」


 それが、彼女の直筆で書かれた1冊のノートだった。中学時代に図書館で過ごすことも多かった僕たち二人。渡されたそのノートに書かれたのが、物語のプロットやアイディアであることはすぐに分かった。


「私が……、夜の屋上で……、思いついたこと……、みんな書いてある。本当は自分で書きたかった……。でも、もう……できない……」


「任せて。必ず形にする」


「うん……。……」 


 その言葉がひとつだけの意味ではないことはお互いに感じていたもの。


 彼女は「最後の望みだから……」と、僕の膝の上で息を引き取った……。でも、その顔は満足そうに微笑んでいたのを今でもはっきり覚えている。




 千里との約束を守るため、少しずつ書き始めた物語。預かったノートには、一人の少女が「本当はやりたかったこと」がたくさん書かれては「できないよね」と自嘲気味の言葉の追記とともに消されていたけれど、屋上で一人過ごしていた時間に、千里はどれだけ素敵なものを見つけていたのか、その時間を楽しみにしていたかが滲み出ていた。


 この一つ一つを大事にしていかなければならない。それを少しずつ紐解いて、千里と辿っては作品に仕上げていった。


 そして、約3年の時間をかけて出来上がったのが『この街の何処かで』で、それをコンテストに出したものが受賞を受けた。


 これは平松千里という一人の女の子......いや、僕にとってはかけがえのない『彼女』の願いであり素直な想いだ。


 誰もいない星明かりだけの屋上で夢見た、彼女のやりたかったことの想いを形として空へ届けてあげることが、僕にあのノートを預けてくれた意味なのだと思う。


 今回の作品ではそれを全て出し切れたわけではない。まだ千里のやりたかったことはたくさん残っている。


 これからも、それは変わらない。


 そして僕は決めていた。遠い先かもしれないけれど、僕もいつか千里のいる場所に行くことになる。


 その時はまたこのノートを一緒に見ながら、今度こそ二人でやりたいことを見つけて叶えていこう。


 それまでは、このノートは僕にとっての宝物として預からせてもらうよ……。


 いいだろう、千里……?

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この街のどこかで… 小林汐希 @aqua_station

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