約束
いよいよ物語の中に入った気分かもしれない。
緋乃瞳はホテルの一室でベッドに腰かけ、肩を縮めて俯いている。同伴した婦人警官がお茶を薦め、彼女はぎこちない手つきで湯呑みを受け取った。その表面には歪んだ自分の顔が映っている。
渋谷警察は緋乃瞳が連続殺人犯に狙われていると判断し、秘密裡に彼女をホテルへと移送した。婦人警官は世話役だけではなく、監視も兼ねているのだろう。瞳が泊まっている部屋の両隣には念入りなことに武装した警官が詰めている。
瞳が住むマンション一帯に捜査網を張り、複数の私服警官を配したようだ。現場の指揮はあの鮫島という男が執っている。
防犯カメラの映像に加え、昨夜の襲撃で残された痕跡などから確信を抱いたのだろう。これまで犯人の手がかりすら掴めず、刻々と犠牲者が増えるばかりだった警察の焦りが透けて見える。
だが彼らは物語の主人公ではない。約束を破ることはできないのだ。
何も起こらないまま日が暮れて、二十三時を回ろうとしていた。気が休まらない様子で、瞳は地上デジタル放送に切り替わったテレビを眺める。液晶テレビになった画面の中では、被災地の様子が映し出されていた。
当初は三万戸を目標に仮設住宅の建設が進められて、被災者の入居が始まっていた。当然ながら問題は尽きず、業者による居住性の格差や交通の便の悪さ、個々の事情を鑑みない抽選によって四割ほどの未入居が目立つという。その一方で、劣悪な避難所の生活を強いられる人々もいるのだ。
ソファーに座った婦人警官が言った。
「大変ですね。神さまは不平等というか……」
気を紛らわせるための世間話なのだろう。それでも瞳は
そうだ。人間は平等ではない。現実に震災の後遺症で苦しめられている人々がいれば、東北産の薪や花火を燃やせば放射能が飛散すると本気で信じる者もいる。この両者の立場は、時と場所の違いでしかないというのに。
関東大震災と同じだ。大災害のときこそ人間が試される。心の弱みが露呈してしまえば、存在しない怪異が産声を上げるだろう。
室内に静寂が満ちた。話題が見つからないのか、婦人警官も口を開かない。テレビの音声だけが流れていた。間延びした時間が不意に加速したのは、そのときだった。
隣室で何かが弾ける音がした。発砲音だ。瞳は硬直し、婦人警官はすぐさまソファーから立ち上がって彼女を庇う。もう片方の部屋の扉が開く音がした。武装した警官の一人が駆けつけようとしているのだろう。
銃声が聞こえた部屋から、かすかなうめき声が聞こえた。婦人警官は無線機で異常事態を伝えようとする。ベッドに座ったまま固まった瞳は、あの異臭を感じたのだろうか。下水と鮮血の臭い。
釣られて視線を下ろした瞳は、目を見開いた。足元のベッドの下から、真っ白な細腕が這い出てきていた。その手には、赤錆とも血液ともつかない色にまみれたマイナスドライバーが握られている。
その直後、彼らの視界は暗闇に包まれた。
緋乃瞳には何が起こっているのかわからなかっただろう。ベッドの下から
扉を強く叩く音がする。彼女はその音に導かれて、とっさに玄関へと向かった。すでに事切れた婦人警官の首筋に何度も凶器を突き立てていた怪物は、ゆっくりと立ち上がった。血塗られた口元には歪んだ笑みを浮かべ、獲物が逃げ惑うのを楽しんでいる。
靴を履く余裕などなかった。手探りで鍵を開け、ドアノブを回す。部屋の外には銃を構えた警官がおり、
非常口と書かれた標識だけが緑色に光っていた。その目印を頼りに、非常口のドアを開ける。高層から見下ろした街並みは、底知れない闇に覆われていた。街灯は光を失い、ビルや家々の窓は黒く塗り潰されている。
不可解な事態を気にかける冷静さはとうになく、瞳は非常階段を駆け下りる。その後を追って、あの女が飛び出す。口の回りとマイナスドライバーの先端を血で濡らし、人間離れした跳躍力をもって瞳に襲いかかろうとする。
考えるより先に体が動いた。
その痩身に向かって、鉤爪となった足で飛びかかった。存外に軽い体躯がホテルの外壁に激突する。完全に意識の外から放たれた攻撃は、瞳が逃げる時間を稼ぐには充分だった。そのまま階段を駆け下りる足音が遠ざかる。
黒い羽根を撒き散らし、非常階段から上空へと飛び立った。
なぜ、と自らに問いかけるあいだにも夜空を急上昇していく。翼を広げて眼下の東京を俯瞰すると、何もかもが夜の闇に包まれていた。渋谷、新宿、原宿。見渡せる限りの高層ビル群が目を潰され、巨大な墓石群めいた影となっていた。国道246号線には鬼火を思わせる車のヘッドライトが長蛇の列を成し、揺らめいている。
渋谷スクランブル交差点や渋谷センター街、SHIBUYA109と渋谷パルコ、来年には開業するという渋谷ヒカリエの養生シートに覆われたビルも、全て黒々と塗り潰されていた。陰影だけが浮かぶ暗黒の世界だった。
どこかで爆発音がした。建物が燃え上がり、黒煙を噴いている。この停電をきっかけに起きた事故なのだろう。その灯火はある種の鮮烈さを放っていた。
東京大停電――その言葉を思い出した。
忌まわしい東日本大震災から始まり、福島の第一原子力発電所の事故が引き起こされたことによって常に電力不足が叫ばれてきた。日本人が恐れていた幻想が、今現実となったのだ。
東京は光を失い、盲目となった。
かつてなく濃密な夜空を翔け、瞳の姿を捜す。人間とは異なる構造をした眼球はやがて彼女を捉えた。見下ろした甲州街道は予想よりも静かだった。困惑した声だけが
そのあいだを瞳は必死に走っていた。おそらくどこに向かっているのか、自分でもわかってはいまい。そのまま上空で追随する。井の頭通りまで来たところで、明らかな違和感が視野の端に映った。
明治通りだった。誰もが不測の事態に
なるほど、と得心した。渋谷は暗渠の街だ。地下には見えない川が張り巡らされている。だからどぶ水の臭いが染みついていたのだろう。街の住人のすぐ足元をくぐり抜け、神出鬼没に獲物を狩っていたのだ。
ベッドの下の男、下水道の白いワニ――都市伝説のキメラ、か。
マイナスドライバーを手にした異形が半ば四つん這いで駆け出し、再び焦点を瞳を移す。あたかも震災時の行動をなぞっているかに見えた。変わり果てた親友とかつて語り合った代々木公園の傍らを通り抜け、井の頭通りから狭い路地に入る。
そこはよく慣れ親しんだスペイン坂だった。がむしゃらに走っていたのが、無意識に見知った道を選んでいたのだろう。彼女は
両翼を畳み、そのまま急降下する。
照明が消えたショーウインドーからは、真っ暗になった店内が透けて見える。ドアベルが音を立ててドアが開いたとき、彼女は疑問に思わなかったのだろうか。閉店時間が過ぎているにも関わらず、鍵が閉まっていないことに。
「店長……助けて、ください」
息も絶え絶えで、足をもつれさせながら店内に足を踏み入れた彼女を出迎えたのは、底知れない沈黙だけだった。単なる不在とは異なる、異質な空気。その中で嗅いだはずだ、鉄錆の臭いを。
「店長……?」
大きく息継ぎを繰り返しながら、異様な雰囲気の仕事場を進む。震災の際にほとどんどが割れて、新たに蒐集された鏡たちが、不吉な予感に身を縮める瞳をさまざまな角度から映す。
近づくにつれて、忌まわしい臭いは濃度を増すだろう。本能的な忌避感を覚える雰囲気に、彼女の足が鈍る。なのに確かめずにいられないのは、人間の業と言っていいかもしれない。
隠された謎を暴きたい。想像でも良いから正体を探りたい――その欲求の狭間にこそ、我々という存在が生まれるのだ。
半開きのドアから仄かな光が漏れていた。その発光の正体は在庫管理に使われるパソコンのようだった。極めて大規模な停電にも関わらず、机の上の画面は消えずにいる。羅列された文字や数字が文字化けを起こし、何か赤黒い液体が飛散していた。
その向こうに、プロビデンスの目が一瞬映りこんだのは錯覚だろうか。
血痕を目で追っていくと、机の下で倒れ伏した女性の背中があった。淡い光に照らし出された後ろ姿に瞳が駆け寄る。
「店長」
『ミロ』の店主を抱き起こそうと仰向けにしたとき、瞳は悲鳴を上げて後ろに下がった。両手で口を押さえた彼女が目にしたのは、両目を潰された加賀だった。アメジストのピアスごと耳が齧り取られ、無残な死に顔が仄暗い明かりに照らされていた。
惨たらしく殺害された店長の死体から遠ざかり、こけつまろびつ事務所を出る。そのまま出口に足を向け、瞳は硬直した。ショーウインドーの外に歪な影が映し出された。異様に手足が痩せ細り、その手には鋭利な先端の物体を握っている。
影が首を傾げ、先刻とは打って変わって緩慢な動きで店を横切る。どうやらまだ見つかっていないらしい。瞳は声を押し殺し、身を隠せる場所を探して目を走らせる。その視界に入ったのは、開かれたままの試着室だった。彼女は物音を立てないように試着室へ急ぎ、そっとカーテンを閉じた。
何とも愚かなことだ。いくら身を隠そうとも、外を徘徊するあれからは逃げられない。無責任な噂の数々が、そういう存在に仕立て上げたのだ。
このままでは精々、オルレアンの噂と同じく失踪するのが関の山だろう。だからこれは、自らの約束を
翼で舞い上がり、試着室のそばに降り立った。狭い室内では、瞳が恐怖に震えて身を小さくしていることだろう。
そのカーテンに手をかけ、一気に開いた。
息を呑む声がした。彼女は足元に頭を抱えて震えていた。やがて、目の前の存在が何もしてこないことを怪訝に思ったのか、恐る恐る面を上げる。その瞳に、私の姿が映し出された。
後ずさる彼女がぶつかったのは試着室の姿見だった。そこにも私の奇怪な姿が佇んでいる。黒い嘴を有し、大きな丸い目をした鴉の頭部。人間の体に漆黒の両翼をコートのごとく纏い、鉤爪を具えた三本の足指で床を掴んでいる。
それがこの私、鴉男だ。
都市伝説の中では、私は何もしない。ただ見ているだけだ。あの日、代々木公園で彼女を見たときから、何年も緋乃瞳を観察してきた。
なのに、どうしてだろう。先ほどのホテルの非常階段で、死ぬ定めにあった観察対象の運命に直接介入し、あまつさえこの醜い姿を晒している。
まさか今になって、傍観者であることに飽いたというのか、この私が。
「あなたは……」
彼女が、私を認識した。ずっと傍らにありながら、存在を気取られることは決してなかった。それが都市伝説としての鴉男の在り方だからだ。
その約束は今、破られた。
私は嘴を開き、何十年ぶりかに発声しようとした。その言葉が形を成すことは、ついぞなかった。
背中に激痛が走った。衝撃と異臭。鼻腔が腐った水の臭いで満たされ、何かがしがみついた重みに体が傾く。尖った金属製の物体が引き抜かれ、再度突き立てられる。嘴から迸ったのは、鴉の奇声そのものだった。
彼女の悲鳴が
全身の力が抜け、私は『ミロ』の床に倒れた。かつて倉敷薫だったものは、何人もの命を奪ってきたマイナスドライバーを執拗に突き立てた。喉の奥からとめどなく血が溢れ、嘴からこぼれる。確実な死が迫ってくるのを感じた。
ああ、何と滑稽なことだ。私は傍観者であることを止め、この物語の登場人物になった。狩りの対象となったのだ。
だから、殺される。
霞んでいく視界の中で、私の醜悪な顔を瞳がじっと見つめていた。もはやろくに聴覚も働かない。ただ錯覚だろうか、その唇がかすかにわななき、「アイちゃん」と呟いたかに見えた。絶望に彩られていた目の中に、わずかな光が生まれた。
濡れ羽色の翼を鮮血で染め、床を濡らした。もはや立ち上がることさえ叶わない。完全に獲物を仕留めて満足したのか、耳かじり女が私の背中からゆっくりと立ち上がる。本来の標的に矛先を向けようとして、不意に放たれた攻撃に反応することができなかった。
だらしなく舌が垂れた嘴の先をかすめて、裸足のつま先が力強く床を踏んだ。横を向いた私の眼球は、店内に飾られていたトルソーを抱えて叫び声とともに耳かじり女を殴りつける瞳の姿を捉えた。
どこにそのような活力が残っていたのか、という驚きとともに、届かない叫びが胸の
そうだ、戦え。
君がどんな罪を犯したのだとしても。
怯え、逃げ惑うだけの哀れな獲物は殺される。
約束を破るんだ。
力尽きる寸前の私と、一瞬だけ瞳が合った。彼女は傍らを走り抜け、ドアベルを響かせて店外へと逃走した。思いも寄らない反撃を受けた耳かじり女は、奇襲から体勢を立て直し、怒りに満ちた奇声を上げて追跡を開始する。
ああ、もうこの物語の結末を見届けることは叶わない。
死に抱かれて、私は瞳を閉じた。
鴉男 @ninomaehajime
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