その背を見つめて。

トム

その背を見つめて。



 ――お願いですからもう、……これ以上、アナタ自身を傷つけないで下さい――。






 認知症――。


 その言葉自体が広く用いられる様になったのは、ごく最近の事。それまでこの国では老いた人間が『ボケ』てしまい、『痴呆』になってしまったと負のイメージで見られ続けてきた……。確かにある側面で言えば、それは正解と言えなくはないだろう。ちょっとした物忘れに始まり、何時しか自分自身さえ見失ってしまう。そんな恐ろしい『病気』だったにも関わらず。近年その研究は進み、徐々にではあるが、それを予防できる可能性のある薬さえ開発されていると聞いたのは、テレビのニュースだった。






 ふと物音に気がついて、枕元に置いたスマホを持ち上げると、待受には午前二時十五分と表示される。……確か、全ての事を終えて、床に就いたのは午前零時を回っていたはず。そう思ってしまうと、心の中でいでいた波がにわかにが「ふぅ」と一呼吸置いて一度、キツく目を瞑ってから被った布団を無理やり引き剥がし、真っ暗な部屋を抜け出して、常夜灯のともる廊下へ出る。


「……母さん、どうしたんだ?」


 廊下を進み玄関の傍まで来た所、照明も点けずに下足箱に仕舞われた、自分の靴を必死に探す母を見つける。見かねて私がスイッチを入れると、電球色のLEDダウンライトが灯る。そこには体を屈め、丸い、小さな背中を見せる母が、こちらを振り返りもせず一心不乱に下足箱を漁りながら、返事を寄越す。


「お迎えの時間だから、行こうと思ったんだけど。靴がね……見当たらないんだよ」

「お迎え?」

「あぁ『卓也たくや』がもう幼稚園からバスで戻ってくるからね。行ってあげないと――」



 その先も何か言い募っているが、私の耳には届かなかった。



 ――だよ母さん――


 その小さくなった背中を眺めたまま、私の視界はどんどん滲んでいってしまう。言葉に出せるものならどんなに楽だろう……。説き伏せて納得してくれるなら、自分の喉が切れるまでだって話しても良い。私が……貴女母さんの息子『卓也』ですと……。


 だがそれはもう叶わないと知っている。



 母の中に居るのは、……もう幼稚園児だった頃の卓也しか存在していないのだ。




 私が母の不調を聞いたのは丁度、父の三回忌を終えた頃だった。最近物忘れが多くて困るのよと笑っていた母。実家を離れて就職していた為、帰省するのは盆と正月か、特別な用がある時くらいだった。母はおおらかな性格で、父によく叱られていたのを覚えていた私は「母さんも、もういい歳だからなぁ。スマホにあるメモ機能、使ってみたら?」と言うと「あんな小さい画面に書けないわよぉ」と笑っていた。


 ……だから、それが始まりだったなんて、思ってもみなかった。翌年、母の知り合いから母が倒れたとの連絡を受け、慌てて駆けつけると別室に呼ばれ、医師から認知症の症状が見られますと言われた瞬間、頭の中が真っ白になってしまった「兆候などお気づきになりませんでしたか?」と聞かれ、わからないと言うと「……そうですか、今回この病院に来られたお怪我の件ですが――」


 ――それは成人している人間ならば、誰しもが絶対にしない行為だ。スーパーの棚に並んだ商品を、その場で開けて食べるなど……。それを見咎めた店員に掴まれた途端、癇癪かんしゃくを起こして転んでしまったのだという。偶々、その場に母の知り合いが居たために、警察沙汰にまでは至らなかったようだが、転んだ拍子に足を捻ったらしく、この病院に来たとのことだった。


「こちらにいらした時点で、少し言動に齟齬が見られましてね。簡易テストを行ってみたんですが、既に初期段階を過ぎて居るご様子で――」


 抑揚なく、感情の籠らない口調で医師はただ、淡々と母の現状を教えてくれる。専門的な言葉がつらつらと並び、まるで大学の講義を受けている時のような嫌な錯覚を覚えていると、突然彼はこちらをまっすぐ見つめ、一旦言葉を切る。


「良いですか、お母様は既に『認知症』と言う病に侵されているのです。唯一の家族である、貴方しか頼る相手は居ないのですよ。お辛いかも知れませんが、まずは貴方がしっかりしなくてはいけません」


「――っ!」


 今までと違い、抑揚をつけ、はっきりと緩急をつけたその言葉に絶句してしまうと同時に『病』と言う現実を叩きつけられ、堪えていたものが決壊してしまう。


「……なんで、なんで母が……急にそんな事言われても……うぅ、うう」

「まずは病院でしっかり検査を行いましょう。これからの事は大変かもしれませんが、貴方一人では有りません。私達ができる限りお手伝いしますか――」


 四十を超え、髪に白いものが混じり始めた、大人の男が恥も外聞もなく泣き崩れ、ボロボロと大粒の涙を零しているにも拘わらず、恐らくは年下であろうその医師は、そんな私にゆっくりと語りかけ、諭すような口調で話し続けてくれなければ、あの時点で私の心は折れていただろう。




「……大丈夫だよ、迎えなら私が行くから、母さんは部屋でゆっくり休んで居て」

「……そうなのかい? そんな用事まで頼んでも良いの?」

「えぇ、大丈夫」

「……そう、じゃあお願いしますね。あ、じゃあご飯でも作って――」

「大丈夫ですよ、もう準備していますから」



 その後も幾つかの問答を繰り返し、母は話し疲れたのだろう。不意に話を切ったと思うと、フラフラとした足取りで自室に向かって歩き始める。覚束ないその歩みを支えるため、左手で母の手を掴み、その背にそっと右手を添える。


「暗いから、部屋まで付き添うよ」

「……」




~*~*~*~*~*~*~*~*~



 それから少しして母は体調を崩し、入院して戻ることはなかった。病室ではぼうっとしている日々が増え、日に日に口数も減らしていった母。大らかで、よく笑い、いつも周りを明るくしてくれていた。


 最期は静かな病室で、呼吸器の音と先生たちの懸命な処置も虚しく、一言も話さずただ一人で逝ってしまった。


 傍で只々見ていることしか出来なかった私は、必死に心の中で母の名をずっと叫んでいたが、遂にその願いは届かず、先に逝った父の元へと旅立った。


 葬送の時、最後に棺を閉じるその瞬間とき、花と一緒に一通の手紙を母の胸にそっと置いた。




 ――母さん、貴女に産んでもらえて良かった。

 

 ――小さい頃は病弱だった私をいつも気にかけてくれてありがとう。


 ――反抗期になった私をいつも笑って許してくれてありがとう。


 ――いつまでも独身だった私を許してくれてありがとう。


 ――病になっても……私の事だけは忘れずに居てくれて――



 ……ありがとう。





 ~完~


 ――S・Nに捧ぐ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その背を見つめて。 トム @tompsun50

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ