第八話

「随分、珍しい名前の本屋さんなんですね」


 本屋に食堂とつけるなんて、間違えて入ってきてしまう人もいそうだ。

 柚月のそんな感想に、男性はキョトンとした顔で首を傾げるとやや不満そうに唇を突き出した。


「やあね、本屋じゃないわよ。食堂って言ってるじゃない。禁断食堂は食堂よ。まぁ、場合によっては本を売ることもあるけど、基本は食堂よ」


 どう見ても食堂でしょうと言いたげに手を広げるが、どう見ても本屋にしか見えない。

 強いて言えば、真ん中にポッカリと空いた空間に申し訳程度にテーブルと椅子が置かれているところが食堂と言えなくもないが、休憩スペースが確保されている本屋だって稀にある。

 本を選ぶのに疲れたとき用に、少し休憩でもという店側の心遣いで設置してあるのだが、立ち読みならぬ座り読みをして本を傷めてしまう不届き者が続出した場合は撤去されることもある。本屋と図書館の区別がつかない人も、なかにはいるのだ。


「でも、調理場もないですし……」

「調理場なんてなくても、調理は出来るのよ。ここには食材も調理器具も、全部揃ってるんだから」


 そう言って指し示したのは、本棚だ。

 どれほど目を凝らしてもそこには本しかなく、普通の食堂にあるべきものは何もない。

 困惑する柚月の前で、男性はニイっと口の端を上げると、何かを呼ぶように片手をひらひらとさせた。男性の手から直線状にある本棚に目を向ければ、一冊の本がグラリと動いたような気がした。

 ぎっしりと詰まった本の中から抜け出そうともがくように動き、スポンと勢いよく出ると、真っすぐに男性の手の上へと飛んできた。


「ここは、文章から料理を作り出す食堂なのよ。食べたい物を言ってくれれば、本の中から材料を選んで調理するのよ」


 パラパラと開いた本のページを、男性の細長い指がそっと撫ぜる。

 指先の動きに従って黒い文字が剥がれ落ち、空中に浮かび上がった。


【届いたみかんは少々小ぶりだったが、砂糖に漬け込んだかのように甘い】


 男性の指先が、の三文字をつつく。とたんに文字はオレンジ色の艶やかなみかんへと変わり、その他の文字はボロボロに崩れて消え去ってしまった。

 コロンとした小さなみかんに男性の親指が突き立てられ、メリメリと音を立てて皮が剥かれていく。

 柑橘の爽やかな香りが、柚月の鼻をくすぐった。その香りはまさしく、つい先刻まで竜胆と一緒にかいでいたものと同じだった。


「ほらね? 食材も調理器具も、ここには揃っているでしょう?」


 男性が自慢げに胸を張りながら、みかんを軽くつついた。みずみずしいみかんは、崩れたの文字へと戻り、ふわりと空気に溶けるように儚く消えてしまった。

 あれだけ強く香っていた柑橘のにおいも、嘘のように消え去っている。

 短い白昼夢でも見たような不思議な感覚に、柚月は呆然と立ちすくんでいた。

 こんなことが現実で起こるはずがないと頭では分かっているのだが、実際に目で見たものを否定することはできない。

 目で見たものと常識のはざまで混乱する柚月だったが、男性はそんなことはお構いなしに、にこやかに口角を上げると目を細めた。


「それにしても、まさかユッキが来店するなんて思わなかったわ。私ね、前々からあなたのSNSのファンだったのよ。可愛いお化粧品をたくさん紹介していて、見ていて幸せな気分になるのよね。……ところで、うちのこと、最初から知ってたわけじゃないんでしょう? たまたま通りかかって足を止めたのかしら?」

「クラスメイトが、このお店から出てきたように見えて……」

「もしかして、十夜君のこと?」


 一瞬だけ首を傾げかけた柚月だったが、すぐに十夜のフルネームを思い出すと頷いた。名字で呼んでいるため、下の名前を言われてもすぐに結びつけることができなかったのだ。


「北上君とは席が隣同士なんです」

「そうなの!? 良いなあ、十夜君が羨ましいわ! と言うかあの子、本当に高校生だったのね。なんだか不思議な雰囲気の子だから、ついつい年齢を忘れちゃうのよね」


 前に間違ってお酒を出そうとしてしまったと照れながら話すが、柚月の目には男性のほうが年齢不詳に見えた。

 二十代の若者にも見えるが、五十代の貫禄のある男性のようにも見える。物事の全てを知っていそうな明哲な瞳は、長い人生を重ねたかのような深みがあり、それでいて恥ずかしげに頬を染める笑顔は年端のいかない少年のようでもあった。


「あそこの姉弟、本当に仲が良いし礼儀正しいわよね。去年お世話になったからって、新年のご挨拶にまで来てくれて」

「北上君、わりと一匹狼気質なんですけど、義理堅いと言うか何と言うか……って、姉弟? えっ、さっきは彼女さんと来てましたよね?」

「彼女? 十夜君、千早ちゃんと来てたわよ?」


 柚月と男性の顔が、同じ方向に傾けられる。


「あの人、彼女さんじゃないんですか?」

「違うわよ! あの人は、北上千早ちゃんって言って、十夜君のお姉さんよ」

「北上君にお姉さんがいるのは知ってますが、顔立ちがそっくりだって聞いてますよ?」

「それはたぶん、百花ちゃんのことね。あそこ、四人姉弟なのよ」


 男性がそう言って、四本指を立てると人差し指から順番に折っていく。


「長女の千早ちゃん。この子が、さっき見た子ね。次女の百花ちゃん。たぶん、十夜君とそっくりって言うのはこの子のことよ。私も実際に会ったことはないんだけど、千早ちゃんも十夜君とそっくりだって言ってたから、多分そうなんでしょうね。次に、長男の十夜君。最後に次男の一月いつき君。この一月君が、千早ちゃんと瓜二つだって聞いてるわ」


 まさか四人姉弟だとは思ってもみなかった。

 新たに得た新事実に小さく口元をほころばせていると、男性が探るような眼で柚月の顔を見つめていた。慌てて口元に浮かんだ笑みを消せば、今度は逆に男性が柔らかに微笑んだ。


「折角のご縁なんだし、何か食べてみない? ここには色んな食材があるから、大抵の物なら作れるわ。今回は無理やり引っ張ってきちゃったし、私の奢りよ。何でも好きなものを頼んで!」


 男性は高らかにそう言うと、周囲に並んだ本棚を示した。

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禁断食堂へようこそ 佐倉有栖 @Iris_diana

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